第9話:土曜日、青空のバッティングセンターと「親友」の境界線
土曜日の午前中。
一条凪は、自宅の狭いリビングで掃除機を走らせていた。
昨日の放課後、校門の前で「土日はゆっくり休んで」と五人に伝えたのは本心だ。彼女たちはこの一週間、驚くほど僕に尽くしてくれた。その疲れを癒やしてほしいという、常識人としての配慮だった。
「ふぅ。これでリビングは終わりかな。午後は読書でもして過ごそう」
そう呟いた直後、机の上のスマートフォンが小刻みに震えた。画面を見ると、藍澤凛からのLINEだった。
『凪、起きてるか? 駅前のバッティングセンター、新作の140キロマシンが入ったらしいんだわ。今から行かねーか?』
僕は画面を見つめて首を傾げた。
(凛……。昨日あんなに部活で疲れてそうだったのに、もう動けるのか。相変わらずタフだな)
少し迷ったが、彼女がわざわざ誘ってくれたのだ。断るのも無粋だろう。僕は掃除機を片付けた。
駅前。待ち合わせ場所にいた凛は、いつものジャージ姿ではなく、少し大人びたショート丈のパーカーにデニムのショートパンツという私服姿だった。
動きやすさを重視しつつも、どこか「女の子」を感じさせるその格好に、僕は少しだけ面食らった。
「お、凪! 待たせたな!」
「いや、僕も今来たところだよ。凛、今日は一段と……なんて言うか、アクティブな格好だね。よく似合ってるよ」
「っ……。そ、そうか? まあ、バッティングセンターだしな! 動きやすくねーと意味ねーだろ!」
凛はガシガシと自分の頭を掻き、照れ隠しのように歩き出した。彼女のポケットの中で、スマートフォンが密かに震動する。
『【愛の証明】外見への称賛:10pt獲得』
(……よっしゃ! 朝イチの挨拶代わりにしては上出来だぜ!)
凛は内心でガッツポーズを作っていた。彼女はこの「土曜日の数時間」を勝ち取るために、昨日のオークションで全財産の半分、60ptを叩き出している。一ポイントの重みを知っているからこそ、凪の何気ない一言一言が、失った資産を埋める極上の報酬に感じられた。
駅前のバッティングセンター『ホームラン王』。カキィィン、という快音が響く中、僕と凛は並んで打席に入った。
「凪、見てろよ! ボクの全力スイング!」
凛がバットを鋭く振り抜く。120キロの直球が、弾き飛ばされてフェンスに突き刺さった。その豪快な姿に、僕は思わず拍手を送った。
「すごいな、凛。やっぱり君の運動神経は尊敬するよ」
「へへ、だろ? ……ほら、凪もやってみろよ。腰が入ってねーんだよ、貸してみろ」
凛が背後に回り込み、僕の腕を掴んでフォームを修正してくる。
密着。不意に香る、凛の石鹸のような匂い。
僕は少し動揺したが、彼女はあくまで「熱血指導」の体裁を崩さない。
「こうだよ、こう! 脇を締めて、一気に振り切る!」
「う、うん。分かったよ、凛」
凪の心臓が少しだけ速くなる。その様子を、凛は満足げに、しかし必死にポーカーフェイスを保って見つめていた。
しかし、そんな二人の甘酸っぱい空気を切り裂くような「視線」が、背後から突き刺さっていた。
打席の後ろにある休憩スペース。そこには、スポーツ新聞で顔を隠した一ノ瀬舞夜と、深く帽子を被った支倉聖奈、そして自販機の影に潜む瀬戸ほのかの姿があった。
「……1pt差で負けた土曜日が、あんなに楽しそうなんて。……悔しい、悔しすぎるわ」
聖奈が、握りしめたハンカチを噛み締めて震えている。
「落ち着きなさい、聖奈さん。……私はディーラーとして、凛が行き過ぎた接触をしていないか監視しているだけよ。……あ、今、手が触れたわ。プラスチックバット一本分の距離を保ちなさいよ、あの野蛮人……!」
自販機の影では、全財産を失ったほのかが、虚ろな目で二人を見つめていた。
「……先輩。……バッティングセンター。……難読漢字。鰧……。うぅ、来週は絶対にお金を貯めて、私が先輩を独占してやるんですぅ……!」
監視されているとも知らない僕は、数セットのバッティングを終え、凛とベンチでスポーツドリンクを分け合った。
「あー、疲れた! でも最高に楽しかったぜ、凪!」
「僕もだよ、凛。誘ってくれてありがとう。……でも、不思議だな。さっきから、あそこの新聞読んでる人とか、自販機の影にいる人とか……なんだか聖奈たちに似てる気がするんだ」
「げっ……!?」
凛が、噴き出しそうになったドリンクを必死に飲み込んだ。
「そ、そんなわけねーだろ! あいつらは今頃、家でゆっくり休んでるって! ……ほら、もう一セット行くぞ!」
「あ、ああ。そうだよね。……似てる人、っているもんだな」
凪は納得したように頷いたが、その直感は、確実にシステムの「綻び」を捉え始めていた。
夕暮れの帰り道。駅のホームで、凛は少しだけしおらしい声で呟いた。
「……なあ、凪。今日、誘って悪かったか? ゆっくり休めって言われたのに」
「そんなことないよ。おかげで良い気分転換になった。凛と一緒にいると、やっぱり落ち着くな」
「……っ。……そっか。なら、良かった」
凛のスマホが、この日一番の激しい震動を見せた。
『【愛の証明】絶対的信頼の告白:20pt獲得』
週末の数時間。60ptの支出。
それは彼女にとって、計算上の損得を遥かに超えた、かけがえのない「愛の蓄積」だった。
「じゃあな、凪! また月曜日、学校でな!」
凛は弾けるような笑顔で手を振り、電車に乗り込んでいった。
一方その頃。帰宅したほのかは、一人寂しく机に向かっていた。
目の前には、凪沙が仕込んだ「呪いの魚へんプリント」。
「……『鰈』、『鰆』、『鰍』……。1ポイントの重みを、私は一生忘れませんぅ……!」
ほのかは涙で滲む紙面に、怨念を込めて魚の偏を書き殴っていた。あの一ポイントの差で、私の土曜日が消えた。その屈辱を指先に込めて、彼女は来週の「逆転」を誓っていた。
一条凪は、自宅でシャワーを浴びながら、ふと思った。
「……やっぱり、バッティングセンターにいたの、聖奈たちだった気がするんだよな。なんでみんな、僕を隠れて見てたんだろう」
常識人ゆえの「不自然さへの気づき」。
それが彼女たちの鉄壁の隠蔽を脅かすのは、もう時間の問題だった。




