小説の腕を上げたければ国語の勉強をやれ
「自分はめっちゃ小説を読み込めているぜ~」という自信のある人は割といる。
だが、いくら自分は小説のことを深く考えてるとか言っても、ちゃんと読めてないと意味がない。そして文学への深い読みの前に、国語の読解力がある。
というのも誤読してたら、深い文学的思索も何もないから。小説の前に、国語の読解力がないと話にならない。
ならば国語の読解力とは何なのか。ボクも教職じゃないけど、ある程度は説明できる。
例えば「太郎君は遊園地に行きました。楽しかったです。さて太郎君はどこへ行って楽しかった?」という問題。
これに「私は遊園地なんて嫌い!」みたいなクソリプを返してくる人がいる。こういうのが「読解力がない」という実例だ。
上記の例文では、太郎君の話をしている。あなたの気分は関係ない。こういうのを「主題が分かってない」「誤読している」状態だ。
実際、国語の読解で自分の意見を書いてしまう人は多い。けど読解では、テキストに基づいて、テキストの言葉で答えるようにしよう。
あなたの個人的意見はどうでもいい。
そうやって論説文なら、テキストのどこに問いと答えがあるかを見いだす。
ならば小説の読解では何をやるのか。
「感性の豊かさが~」みたいなのはどうでもいい。それこそ「テキストに基づかない、個人的な意見」だから。
読解問題でやることは、出題者の意図を読むこと。
小説文問題でやることとは、因果関係から心理を読み解くことだ。
近代文学というのは、心理をどう描くかをやってきている。その伝統から来るのだろうね。
だから例えば
「どうして主人公は悲しくなったのか?」
「これこれ、こうだから」
もしくは
「これこれ、こうなって主人公はどう感じた?」
「悲しくなった」
みたいなのが小説文読解の基本形となるはず。
けどこうした国語読解の基本が出来ていないで、小説の評論をやるとどうなるか。
お笑いに対して「笑えるだけで下らない」。
ホラーに「不愉快だ」。
ファンタジーに「嘘八百」。
みたいに相手の意図を読まず、自分の意見を押しつける。そんなクソリプ感想を返すことになる。
そういうクソリプ前提の読み方を当然と思っていると、小説を書いても自分の心理表現がブレてくる。
「私はこうした」
悲しいのかな?
「悲しいんじゃない、嬉しいに決まってるだろ!」
と感性が狂ってくる。伝わって当然と、伝える努力を放棄してしまう。それじゃアカンよね。そのための小説文読解。
だから小説を書く方としても、読解力は大切になってくる。他人と自分とで、読解力にズレがあったら、誰にも伝わらない小説しか書けないから。
眼高手低なんて言うけどね。でも手が眼より高くなることもないんだ。確かな「眼」があるに越したことはない。
というわけで、ホストが国語の問題集をやらされているなんて話あるけど。だったら、なおさら小説書きは国語の読解力がブレてないか。折に触れてチェックした方がいい。正確に読めないと、正確に書くことも出来ないのだから。
さらに言うとネット評論家みたいな人はよくいるけど。評論ということは、深く作品を読むこと。だったら基礎的な読解力はあって当然だよね?
具体的には、難関大学の入試問題くらいは楽に解ける能力は欲しい。だって「文学」って大学レベルで教わることだから。
かくいうボクも古本屋で問題集を買ってきたり、新聞に掲載された共通テストをたまに解いてる。
文章読解・作成能力検定なんかも良いね。ボクも取っています。
文章力を楽器に例えるなら、定期的に調律しないとね。正しい音階を演奏できないと、良い曲も弾けないもんだ。
というか文章書きにとってのパズルとして、国語の問題集はおすすめよ?
みんなもやろうぜ!




