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9.いかなる囁きが理を焼いたか

第一調整塔の地下空洞。  


魔将軍リチェルカの出現は、この場の空気を絶対零度まで凍てつかせた。

青白い鉱石の光が、彼女の妖艶なシルエットを壁に映し出す。


「魔族……! なぜここに!」  


シルヴィアが、絶望的な声を上げながらも、即座に剣を構え直す。

その切っ先は、一分の隙もなくリチェルカの喉元に向けられていた。


「動くな! 王子の御前であるぞ!」


リチェルカは、その剣先を、まるで邪魔な小枝でも見るかのように一瞥した。


「……ああ、騎士様でしたか。うるさいわね」


次の瞬間、シルヴィアの体が、見えない力によって宙に吊り上げられた。


「がっ……!?」  


シルヴィアは息を詰め、もがく。

不可視の魔力が彼女の全身を締め上げ、鋼の鎧がミシミシと悲鳴を上げた。


「シルヴィア!」  


レオナルドが叫ぶ。


「――舐めるなよ、魔族の女狐がッ!」


ガリウスが動いた。

その踏み込みは、老いを感じさせない獣の瞬発力。

床を砕き、最短距離でリチェルカの懐へと飛び込む。

だが、彼が振り抜いた必殺の一閃は、リチェルカの白い指二本によって、いとも容易く受け止められていた。


「……ほう。この私に届くとは。人間の老兵にしては、上出来ね」

「なっ……!?」  


ガリウスの隻眼が、信じがたいものを見るように見開かれる。


「でも、お喋りの邪魔よ」  


リチェルカが指先に力を込めると、ガリウスの歴戦の長剣は、甲高い音を立てて、粉々に砕け散った。


「さて、と」


圧倒的な力の差を見せつけ、邪魔者を排除したリチェルカは、ゆっくりとリリアンデに向き直った。

その瞳は、先程までの冷酷さが嘘のように、ねっとりとした好奇の熱を帯びている。


「ごめんなさいね、騒がしくて。……それで、続きを聞かせてもらえるかしら? 『メフィア』って、何?」  


彼女は、まるで久しぶりに再会した旧友に語りかけるように、リリアンデの目の前まで歩み寄った。


リリアンデは、恐怖に身を竦ませながらも、その知性は目の前の「未知の存在」を分析しようと猛烈に回転していた。


(……強い。次元が違う。でも、この女、私たちを殺す気がない。目的は……情報?)


「……さ、さあ……。私も、今、その名前を初めて読んだだけだから……」

「嘘」  


リチェルカの指が、リリアンデの顎を掴み、上を向かせた。


「あなたのその瞳、嘘をついている目じゃないわ。……真実の欠片に触れて、興奮で脳が焼き切れそうになっている……そんな、私と同類の『目』よ」


リチェルカの指が、リリアンデの頬を、まるで極上の美術品でも愛でるかのように、ゆっくりと撫でる。


「……いいわぁ。その『脳』、実に美味しそう。中身を全部、こじ開けて覗いてみたい……」

 

彼女はリリアンデの耳元に唇を寄せ、甘美な毒を注ぎ込むように囁いた。


「ねえ、人間をやめて、私の主君の下に来ない? あの退屈な魔王様も、あなたのような知性があれば、きっと喜ぶわ。そうすれば……あなたのその尽きない渇き、すべて満たしてあげる。この世界の『律』の、その始まりから終わりまで、全部……ね?」


それは、知の探求者にとって、悪魔の誘惑だった。  

リリアンデは恐怖で体が震えているのに、その言葉がもたらす快感に、背筋がゾクゾクと粟立つのを感じていた。


「あ……あ……」

「――断るッ!」


 リリアンデの代わりに叫んだのは、無様に床に転がされていたレオナルドだった。


「彼女は我が国の民だ! 貴様のような化け物の、好きにはさせん!」

「……あら、王子様。まだ生きてたの」  


リチェルカは心底うんざりしたように振り返ると、魔力を解放しようと手を上げた。


「ガリウス! 今だ!」  


その瞬間、拘束から解放されていたシルヴィアが、予備の短剣をリチェルカの足元に投げつける。

それは陽動。

本命は、背後に回り込んでいたガリウス。


「死ねぇぇっ!」  


彼は砕けた剣の柄に、ありったけの体重を乗せ、リチェルカの背中、その心臓部へと突き立てた!


鈍い音が響く。  


だが、リチェルカは振り返りもせず、ただ、ため息をついた。


「……だから、邪魔だと言っているのに」  


彼女の背中から、黒い魔力の触手が無数に迸り、ガリウスとシルヴィアの体を串刺しに


……する寸前で、止まった。


「……今日は、ここまでにしてあげる」  


リチェルカは、不意に殺意を収めた。


「どうやら、人間界にも、面白い『駒』が揃ってきたみたいだし」  


彼女はリリアンデに、名残惜しそうな視線を送る。


「また来るわ、私の可愛い探求者さん。次に会う時までに、その『メフィア』のこと、もう少し調べておいてちょうだい。……ああ、それと」  


彼女は、砕けた剣の柄を背中から引き抜くと、ガリウスに投げ返した。


「その隻眼の老兵。あなた……、アラン・フォン・シルヴァードと一緒にいたわね? フフ……因果は巡る、というわけかしら」


その言葉に、ガリウスの表情が凍りついた。  

リチェルカは、空間の歪みの中へとその身を沈ませながら、最後の言葉を残した。


「せいぜい、足掻きなさい。……この、仕組まれた世界の舞台の上で」


◆ ◆ ◆


同じ夜。

王都から北へ向かう街道。  

死地『人喰い砦』へと向かう、ゼフィルス率いる「討伐隊」は、重い沈黙に包まれていた。  

ゼフィルスは、豪華な装飾が施された軍馬の上で、死人のように青ざめていた。

豪華な『星の御子』の鎧の下は、恐怖の冷や汗でぐっしょりと濡れている。


(……寒い。寒い寒い寒い。クソッ、なんで俺がこんな目に……!)


周囲を固める護衛の騎士たちの視線が、針のように痛い。

彼らは、ゼフィルスを守るためではなく、彼が逃げ出さないよう「監視」するためにいるのだ。


「……おい、見たかよ、あいつの震え」

「ションベン漏らしてなきゃいいがな。ハッ、星の御子様、ねぇ」  


ひそひそと交わされる侮蔑の言葉が、ゼフィルスの耳にも届く。


やがて、一行は砦が見える丘の上で停止した。  

月明かりに照らされた『人喰い砦』は、悪趣味な骸骨のオブジェのように、不気味にそびえ立っていた。  

そして、風に乗って、そこから声が聞こえてくる。


「グギャアアアアアアッ!」

「や、やめ……助け……!」

「ヒヒヒ、人間は脚の肉が一番ウメェな!」

「こっちの女はまだ息があるぞ! 回してやれ!」


捕虜にされた人間たちの、断末魔の叫び。  

拷問され、陵辱され、生きたまま喰われる、その地獄の音が。


それを聞いた瞬間、ゼフィルスの全身が激しく痙攣した。  

馬上で失禁しなかったのは、奇跡に近い。


「……ひ……」  


喉が張り付き、声も出ない。


シルヴィアの副官である、冷酷な騎士が、ゼフィルスの馬の尻を槍の柄で突いた。


「さあ、お行きください、星の御子様。神の奇跡とやらを、我々に見せていただけると、大司教猊下も喜ばれましょう」


進めば、オークに喰われる。  

退けば、偽物として、この場で騎士たちに斬り殺される。


 ゼフィルスは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、地獄の砦を見つめた。


「……ああ……ああ……神様、なんているもんか……!」


偽りの英雄は、人生最大の、そして最後の詐欺を打つために、絶望的な一歩を踏み出した。


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