7.聖歌はなぜ刃の音を隠すのか
リチェルカの出現が王都に投下した爆弾は、聖教会によって巧みに処理された。
「魔族の甘言は、神への冒涜! 我らが星の御子こそが、神の御心である!」
コルネリウスはそう宣言し、民衆の不安を巧みに煽り、敵意へと転換させた。
そして、その神意を示すための、これ以上なく残酷な神事を決定した。
「――魔王軍の前線基地『人喰い砦』を、星の御子自らが強襲し、神の威光を示すのだ」
その決定を玉座の前で聞いたゼフィルスは、全身の血が凍るのを感じた。
人喰い砦。
その名の通り、捕虜を生きたまま貪り食うという、オークやゴブリンの巣窟。
正気の沙汰ではない。
「猊下! それは無謀です!」
声を上げたのは、騎士団長補佐のシルヴィアだった。
彼女はゼフィルスを偽物と疑っていたが、それでも騎士として、無益な死を見過ごすことはできなかった。
「兵も揃わぬまま、敵の拠点に少数で乗り込むなど、自殺行為に等しい!」
「ほう? 騎士団長補佐ともあろう者が、神の奇跡を信じぬと申すか?」
コルネリウスの氷の視線が、シルヴィアを射抜く。
「これは戦ではない。神が我らと共にあることを示すための『儀式』だ。星の御子の御力があれば、百の兵にも勝る。……違うかな? ゼフィルス殿」
すべての視線が、ゼフィルスに突き刺さる。
肯定すれば死地へ。
否定すれば、この場で偽物として断罪される。
彼の喉はカラカラに乾き、心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに脈打っていた。
「……も、もちろんです」
声が、ひっくり返った。
「星の導きがあれば……いかなる敵も、恐るるに足りませぬ」
完璧な聖者の笑みを顔に貼り付けながら、ゼフィルスは己の魂が悲鳴を上げるのを聞いていた。
◆ ◆ ◆
その夜、王宮の一室。
ゼフィルスは、震える手で机の上の酒を呷っていた。
窓の外には、彼を崇める民衆が掲げる松明の灯りが見える。
それは、彼を死地へと送り出す、葬送の炎のようだった。
「……逃げないと……」
彼は壁に飾られていた地図を引き剥がし、床に広げた。
だが、王都から出るすべての道は、検問で固められているだろう。
その時、部屋の扉が静かに開かれ、一人の侍女が盆を持って入ってきた。
まだ年若い、そばかすの浮いた、怯えた小動物のような少女だった。
「あ、あの……ゼフィルス様……。お夜食を……」
その少女を見た瞬間、ゼフィルスの頭に、悪魔的な考えが閃いた。
彼は、それまで浮かべていた恐怖の表情をすっと消し、甘く、蕩けるような笑みを浮かべた。
「……ありがとう。おいで、こちらへ」
彼は少女の手を取り、ベッドの縁に座らせる。
少女は、憧れの英雄に触れられ、顔を真っ赤にしていた。
「君の名前は?」
「エ、エリアナ、と申します……」
「エリアナか。美しい名だ。……エリアナ、君は、私のことを信じてくれるかい?」
「も、もちろんです! あなた様は、私たちの光です!」
「ありがとう。……実は、君にしか頼めない、秘密の『神事』があるんだ」
ゼフィルスは、エリアナの耳元に唇を寄せ、囁いた。
「今夜、私は一人で砦に潜入し、敵の心臓を破壊する。だが、敵の目を欺くため、私の服を着て、馬車で陽動役を務めてほしい。君の純粋な信仰心があれば、星の御力が君を守ってくれるはずだ」
「わ、私が……ゼフィルス様の、身代わりに……?」
「そう。これは、君にしかできない、最も気高い役目だ」
少女の瞳が、狂信的な光に潤んでいく。
ゼフィルスは、その純真さを利用することに、もはや何の罪悪感も感じていなかった。
生き残るためなら、なんだって利用する。
彼はエリアナの細い肩を抱き寄せ、その唇を乱暴に塞いだ。
抵抗しようとする少女の舌を、無理やりこじ開け、自分の唾液を流し込む。
それは、神への誓いの口づけのつもりだった。
「君は、私の聖女だ、エリアナ」
だが、その計画は、実行される前に潰えた。
部屋の扉が乱暴に開けられ、シルヴィアが、鋼のような表情で立っていたのだ。
「……みっともない真似は、そこまでにしておけ。詐欺師」
彼女の後ろには、完全武装の騎士たちが控えている。
「出陣の準備だ、星の御子。……貴様が死ぬその瞬間まで、私が、その背中を監視してやる」
ゼフィルスは、すべてを悟った。
自分は、黄金の鳥籠に囚われた、ただの生贄なのだと。
◆ ◆ ◆
一方、王宮の地下。
禁書庫から辛くも脱出したリリアンデとレオナルドは、カビと苔の匂いが充満する古代の水道跡を、息を殺して進んでいた。
「……ハァ……ハァ……。まさか、本当にこんな抜け道があったとはな」
「古い建物には、必ず『裏口』があるものよ。人間も、世界も、ね」
リリアンデは、松明の光を頼りに、壁に刻まれた紋様を調べていた。
それは、禁書庫の石版にあったものと同じ、『天上の民』の紋様だった。
「……待って。この紋様、ただの飾りじゃない。地図だわ」
「地図?」
「ええ。王都の地下に張り巡らされた、巨大な『仕掛け』の……。見て、この線。禁書庫から、王都の東にある、古い塔に向かって伸びている」
彼女が指し示した先には、今は誰も使わなくなった『第一調整塔』の文字があった。
「あの塔に、何かがある……」
リリアンデの知的好奇心が、再び燃え上がる。
「行くわよ、殿下。私たちの本当の探求は、ここから始まるのよ」
「行くって、どこへ……」
「決まってるじゃない。世界の『心臓部』へ、よ」
彼女は、まるで初めてのデートにでも誘うかのように、無邪気に笑った。
◆ ◆ ◆
魔王城、『調律の間』。
アズラエルは、人間界から届いた報告に、静かな怒りを燃やしていた。
「……『星の御子』だと? 我が申し出を無視し、そのような偽りの偶像に縋るか、人間どもは」
「はっ。大司教コルネリウス、老獪な男です。民衆の心を掴む術を心得ております」
リチェルカが、静かに答える。
その時、〝剛撃〟のグラディオスが、満足げな笑みを浮かべて広間に入ってきた。
その鎧には、まだ乾ききっていない、生々しい血が付着している。
「魔王様、ご報告を。我が手で、北の穀倉地帯を塵にしてやりました。女どもの悲鳴は、実に心地よい戦勝の音楽でしたぞ」
「……余計なことを」
アズラエルは、忌々しげに呟いた。
「グラディオス、貴様のその行いが、人間どもの頑なな心を、さらに閉ざしたのだと、なぜ分からん」
「フン! 対話などと生温いことを言うから、奴らはつけあがるのです! 次は、王都そのものを火の海にしてご覧にいれましょう!」
言い争う二人を、アズラエルは疲れたように見つめていた。
(……誰も、理解しようとしない)
なぜ、自分がこんな役目を負わされているのか。
なぜ、世界は、光と影の二つの魂を必要とするのか。
その答えを、彼はまだ知らない。
「……リチェルカよ」
「はっ」
「お前も、人間界へ行け。例の『星の御子』とやらが、本当にただの偽物なのか、その目で見定めてこい。そして……」
アズラエルの瞳が、初めて、魔王らしい冷たい光を宿した。
「……この『律』の謎を解き明かせそうな、知恵ある人間がいるのなら、接触しろ。敵であろうと、利用できるものは、すべて利用する」
偽りの星が、死地へと向かう。
真理の探求者が、世界の心臓部へと向かう。
そして、深淵の魔女が、獲物を求め、人間界へとその美しい翼を広げようとしていた。
すべての道は、一点へと収束していく。
血と嘘で塗り固められた、絶望の戦場へと。




