47.硝子の心臓、凍った涙
私の世界は、最初から「透明」だった。
聖都の地下深くにある、『聖体研究所』。
そこが私の家であり、教室であり、鳥籠だった。
私は親の顔を知らない。物心ついた時には、白いローブの研究員たちに囲まれ、体に管を繋がれ、数値として管理されていた。
「個体名、リチェルカ。魔素感応度、Sランク。……ただし、感情中枢に欠損あり」
研究員たちは、私を見てそう記録した。
欠損。
私には、「悲しい」とか「嬉しい」といった感情が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。
転んで膝を擦りむいても、痛いとは思うが、泣き声は出ない。
実験動物が目の前で処分されても、可哀想だとは思わず、ただ「動かなくなった」と認識するだけ。
「……出来損ないだな」
「だが、観測者としては優秀だ。私情を挟まない『目』は、律の維持に役立つ」
私は、自分が人間ではなく、精巧な「部品」なのだと理解していた。
だから、寂しいとも思わなかった。
あの日、彼に出会うまでは。
◆ ◆ ◆
「――君が、リチェルカ?」
中庭のベンチで本を読んでいた私に、影が落ちた。
見上げると、一人の少年が立っていた。
名前は、シオン。
私と同じ施設で育った、「検体」の一人。
けれど、彼は私とは正反対だった。よく笑い、よく怒り、そして、よく泣く少年だった。
「……何かご用ですか? シオン検体」
「検体って呼ぶなよ。友達だろ?」
彼は、私の隣に強引に座り込んだ。
そして、ポケットから、ひしゃげた木の実を取り出した。
「これ、やるよ。甘いんだぜ」
「……糖分補給なら、点滴で十分です」
「あーもう! そういうことじゃないんだよ!」
シオンは、呆れたように頭をかいた。
彼は、私の「欠損」を知りながら、毎日、飽きもせずに私に話しかけてきた。
今日見た雲の形。隠れて飼っているネズミの話。研究員の悪口。
「ねえ、リチェルカ。笑ってみてよ」
ある日、彼は私の顔を覗き込んで言った。
「……表情筋を収縮させることですか? それに何の意味が?」
「意味なんかねーよ。でも、君が笑ったら……俺、絶対泣いちゃうかもな」
「なぜ、泣くのです?」
私が首を傾げると、シオンは遠くを見るような目をした。
「……嬉しいからだよ。君の中に、『心』があるって分かったら、嬉しくて泣くんだ。……そういうもんだろ、人間って」
心。
私には理解できない概念。
でも、シオンの横顔を見ていると、胸の奥にある「空洞」が、少しだけ疼くような気がした。
それは、不快だけれど、どこか温かい感覚だった。
◆ ◆ ◆
「廃棄」の日は、突然訪れた。
シオンの魔素適合値が限界を超えたのだ。
『律』の維持に必要なエネルギーを抽出するため、彼の魂は「炉」にくべられることになった。
それは、名誉ある「聖務」と呼ばれていた。
処置室の前。
白い拘束衣を着せられたシオンは、私を見て、笑った。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、痛々しかった。
「……リチェルカ」
「はい」
「俺、行ってくるよ。……神様の役に立てるんだってさ」
彼は、震える手で、私の手を握った。
彼の手は、氷のように冷たかった。
「……最後に、一つだけ、お願いしていい?」
「……私の権限で可能なことなら」
「笑ってくれよ」
シオンは、懇願するように言った。
「嘘でもいい。作り笑いでもいい。……君の笑顔を見れたら、俺、怖くない気がするんだ」
私は、彼の目を見た。
彼は、泣いていた。
恐怖と、そして私への心配で、ボロボロと涙をこぼしていた。
私は、口角を上げようとした。
表情筋に命令を送る。
笑え。笑うのよ、リチェルカ。
これは、彼が望む「観測結果」なのだから。
でも。
「……ごめんなさい」
私の顔は、能面のように動かなかった。
頬が引きつるだけで、笑顔にはならなかった。
「……私には……分かりません……。笑うという機能が……私には……」
シオンは、少しだけ残念そうに、でも優しく微笑んだ。
「……そっか。……ごめんな」
彼は、私の手を離した。
重い扉が閉まる。
直後、部屋の中から、まばゆい閃光と、機械の唸る音が聞こえた。
そして、シオンの気配が、世界から完全に消滅した。
私は、扉の前に立ち尽くしていた。
悲しいはずだった。
友達が死んだのだ。
なのに、私の目からは、一滴の涙も出なかった。
胸の奥が、物理的に抉られたように痛いのに。
息ができないほど苦しいのに。
私の「欠損」した心は、泣くことすら許してくれなかった。
「……ああ……」
私は、自分の無能さが、呪わしかった。
シオンは、私の笑顔が見たいと言って死んだ。
私は、それすら叶えてあげられなかった。
私は、人間じゃない。
ただの、冷たい硝子細工だ。
その夜。
私は、研究所から逃げ出した。
警報が鳴り響く中、裸足で、雪の降る外の世界へと飛び出した。
どこへ行きたいわけでもなかった。
ただ、シオンを殺したこの場所から、一秒でも遠くへ行きたかった。
◆ ◆ ◆
北の雪原。
猛吹雪の中で、私の体力は尽きかけていた。
感覚がない。
視界が白く霞む。
このまま、私も雪に埋もれて、ただの「物質」に戻るのだろう。
それでいい。
心のない人形に、生きる価値などないのだから。
意識が途切れかけた、その時。
「――おい」
誰かの声がした。
温かい、巨大な「熱」が、私を包み込んだ。
目を開けると、そこに「魔王」がいた。
黒い炎を纏い、血のような赤い瞳をした、美しい怪物。
その瞳は、世界への激しい憎悪と、それ以上に深い悲しみを湛えていた。
「……死ぬな」
魔王は、雪に埋もれた私を、抱き上げた。
その腕は、研究所の暖房器具よりも、ずっと温かかった。
「……どう、して……?」
私は、かすれた声で問うた。
「私は……価値のない、人形です……。助けても……得など……」
「得なんざ、知るか」
魔王アズラエル――かつてカイと呼ばれた少年は、私を見下ろして言った。
「……誰かが、お前に生きていて欲しかったんだろ」
ドキリ、とした。
シオンの顔が、浮かんだ。
『君が笑ったら、俺、絶対泣いちゃうかもな』
「……その誰か(シオン)が、命懸けで守りたかったもんを、こんな雪の中で終わらせてたまるか」
魔王は、不器用に、私の冷え切った頬を指で拭った。
そこには、いつの間にか、一筋の雫が流れていた。
「……あ……」
熱い。
目から、熱いものが、止まらない。
これが、涙?
私が、泣いているの?
シオンが死んだ時、流せなかった涙。
それが今、この魔王の温もりに触れて、氷が解けるように溢れ出してきた。
「……う、うあぁぁぁ……!」
私は、魔王の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
初めて、私は「人間」になれた気がした。
魔王は、何も言わず、ただ震える私を抱きしめ続けてくれた。
その不器用な優しさが、死んだシオンと重なった。
(……この人だ)
私は、涙に濡れた瞳で、魔王を見上げた。
この人は、世界を呪う怪物なんかじゃない。
誰よりも傷つき、誰よりも優しく、そして、誰かのために泣ける人だ。
シオンが私に遺してくれた「心」。
それを、この人が、溶かしてくれた。
(……アズラエル様)
私は、誓った。
この命は、もう私だけのものではない。
シオンが託し、この人が救ってくれた命だ。
ならば、私は、この人のために生きよう。
この人が背負う「地獄」を、私が半分、引き受けよう。
たとえそれが、世界の破滅に繋がる道だとしても。
あの日。
雪原で、感情を持たぬ少女は死に、魔王の忠実なる「頭脳」、リチェルカが生まれた。
それは、忠誠心などという言葉では足りない。
欠落した心を埋めるための、永遠の「依存」の始まりだった。




