46.神の愛、人の呪い
その日は、雪ではなく、灰が降っているような空だった。
北の辺境を、「大寒波」と呼ばれる災厄が襲っていた。
作物は凍りつき、家畜は立ったまま絶命し、老人たちは暖炉の前で冷たくなっていった。
村は、静かな死に包まれていた。
「……火が、足りない」
僕は、教会の備蓄庫で、枯渇した薪の山を前に立ち尽くしていた。
計算するまでもない。
このままでは、あと三日で、村は全滅する。
教会の扉が、重々しい音を立てて開かれた。
吹き込む猛吹雪と共に、白いローブを纏った一団が入ってくる。
王都から派遣された、「聖務官」たちだ。
彼らの顔は、白い仮面で覆われ、表情は見えない。ただ、その手には、不気味に青白く光る「天秤」が握られていた。
「……神の選別を行う」
先頭の聖務官が、抑揚のない声で告げた。
村人たちが、すがるように彼らを取り囲む。
「お助けください! 薪を、食料を!」
「我らは救済に来たのではない。『回収』に来たのだ」
聖務官は、村人たちを一瞥もしない。
彼は、真っ直ぐに、暖炉の前で必死に火を維持していた、ルーチェの元へと歩み寄った。
「見つけた。……適合者だ」
聖務官が掲げた天秤が、ルーチェの炎に反応し、激しく揺れた。
「希少な『炎熱』の因子。……これならば、このエリア一帯の『熱源』を、一ヶ月は維持できるだろう」
僕は、その言葉の意味を理解した瞬間、全身の血が凍りついた。
「……待て」
僕は、聖務官の前に立ちはだかった。
「『維持できる』とは、どういう意味だ。彼女を、どうするつもりだ」
聖務官は、仮面の奥から、僕を見下ろした。
虫ケラを見るような、無機質な視線。
「簡単な『計算』だ、少年。この娘の魂を『炉』にくべれば、その熱量で、この村だけでなく、隣町まで救える。……一人の犠牲で、千人が助かる」
倫理の授業で、僕が否定した「解」が、現実となって目の前に突きつけられた。
「ふざけるな!」
僕は叫んだ。
「彼女は人間だ! 薪じゃない! 誰かを犠牲にして生き延びるくらいなら、僕たちは……!」
「――カイ、どいて」
背後から、温かい手が、僕の腕を掴んだ。
ルーチェだった。
彼女の顔は蒼白だったが、その瞳には、揺るぎない「覚悟」の炎が灯っていた。
「……ルーチェ? 君、何を……」
「聞こえたでしょ、カイ。私が『選ばれた』のよ」
彼女は、震える声で、それでも気丈に笑った。
「私の火が、みんなを温められるなら……。私、行くわ」
「だめだ! 絶対にだめだ!」
僕は、彼女の肩を掴んで揺さぶった。
「それは『正義』じゃない! ただの『搾取』だ! 神様がいるなら、こんな残酷な計算をするはずがない!」
「でも、カイ」
ルーチェは、僕の頬に、冷たい手を添えた。
「このままじゃ、あなたも凍えてしまう。……私、それだけは、嫌なの」
彼女の「愛」は、あまりにも純粋で、そして、この狂った世界においては、あまりにも「都合の良い燃料」だった。
「連れて行け」
聖務官の合図で、兵士たちがルーチェを取り押さえる。
「やめろ! 離せ! ルーチェ!」
僕は、兵士に殴りかかった。
だが、子供の腕力など、大人の暴力の前には無力だった。
僕は殴り飛ばされ、石畳に叩きつけられた。口の中に、鉄の味が広がる。
「……愚かな」
聖務官は、僕を踏みつけながら言った。
「『律』に従え。個人の感情など、世界の維持においてはノイズに過ぎん」
ルーチェが、連れて行かれる。
吹雪の中、白い馬車に乗せられて。
彼女は最後に、振り返り、僕に向かって口を動かした。
――ありがとう。
馬車の扉が閉まる。
僕の世界から、最後の「温もり」が、奪われた。
◆ ◆ ◆
翌日。
寒波は、嘘のように去った。
空は晴れ渡り、気温は上昇した。
村人たちは歓喜し、教会に集まって神に感謝の祈りを捧げた。
「おお、神よ! 我らをお救いくださり感謝します!」
「奇跡だ! 奇跡が起きた!」
僕は、その光景を、教会の隅で見ていた。
誰も、ルーチェの名を呼ばない。
彼女が犠牲になったおかげで、自分たちが生きているという事実から、目を背けている。
あるいは、聖務官の言葉通り、「尊い犠牲」として処理し、納得しているのか。
(……これが、人間か)
僕は、吐き気を催した。
感謝? 祈り?
違う。これは、「共食い」だ。
彼らは、一人の少女の命を食らって、暖を取っているに過ぎない。
僕は、教会を飛び出した。
目指すのは、隣町の丘の上にある、聖教会の『管理塔』。
ルーチェが連れて行かれた場所。
雪道を、転がるように走った。
肺が凍りつきそうだ。足の感覚がない。
それでも、僕は走った。
まだ間に合うかもしれない。
もし、彼女がまだ生きているなら、この手で連れ戻して、世界の果てまで逃げよう。
塔に着いた時、そこには、昨日の聖務官が立っていた。
彼は、塔の屋上にある、巨大な煙突のような装置を見上げて、満足げに頷いていた。
その装置からは、青白い光の粒子が、空に向かって放出されていた。
「……ルーチェは」
僕は、息も絶え絶えに問うた。
「彼女は、どこだ」
聖務官は、僕に気づき、薄く笑った。
そして、顎で、その装置をしゃくった。
「……あそこだ」
僕は、装置の窓から中を覗き込んだ。
「……あ……」
そこには、何もなかった。
肉体も、骨も、衣服さえも。
ただ、装置の底に、ひと握りの、真っ白な「灰」が残っているだけだった。
「素晴らしい熱量だったよ」
聖務官は、感心したように言った。
「彼女の魂は、余すことなく完全燃焼した。おかげで、この冬は越せるだろう。……まさに、聖女の鑑だ」
プツン。
僕の中で、何かが切れた音がした。
理性とか、倫理とか、希望とか。
人間を人間たらしめていた、細い糸が。
「……ふざけるな」
僕の喉から、獣のような唸り声が漏れた。
「燃やした……? 彼女を? 僕の、ルーチェを……?」
「何を怒る必要がある? 彼女は世界を救ったのだぞ」
「世界だと……?」
僕は、立ち上がった。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥底から、ドス黒い、冷たい炎が湧き上がってくるのを感じた。
「……彼女を犠牲にしてまで、守る価値のある世界など……」
僕の周囲の空気が、軋み、震え始めた。
大気中の魔素が、僕の怒りに呼応して、渦を巻き始める。
それは、聖教会の「浄化」の光とは真逆の。
すべてを飲み込み、塗りつぶす、「深淵」の闇。
「……そんな世界なら、僕が、壊してやる」
僕は、聖務官を睨みつけた。
僕の瞳が、青から、血のような赤へと、変色していく。
「ひっ……!? な、なんだ、貴様……その魔力量は……!?」
聖務官が、後ずさる。天秤が、計測不能の数値を叩き出し、砕け散った。
「『律』が、人を食らうなら」
僕は、右手を掲げた。
黒い炎が、僕の腕を包み込む。
「僕が、その『律』を食らい尽くす、怪物になってやる」
その日。
北の管理塔は、原因不明の「魔素爆発」によって消滅した。
聖務官も、兵士も、一人残らず闇に飲まれた。
瓦礫の中で、ただ一人、少年が立っていた。
彼は、装置の底に残っていた、ひと握りの「灰」を、大切に、小瓶に詰めた。
カイという名の少年は、その日、死んだ。
そして、世界を呪う、魔王アズラエルが、産声を上げた。
(……待っていて、ルーチェ)
(君が愛したこの世界が、どれほど醜いか。……僕が、証明して見せるから)
雪の上に落ちた黒い影は、長く、長く伸びて、やがて世界そのものを覆い尽くそうとしていた。




