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45.「鍵」の逃亡と、冷たい裁き

 漆黒のゲートをくぐり抜け、魔将軍リチェルカは魔王城の中枢、『調律の間』へと戻った。

 王都の喧騒とは隔絶されたその空間は、深海の底のような静寂に包まれている。


 部屋の中央に立つのは、魔王アズラエル。

 その姿は、夜空の欠片を切り取ったかのような、深き闇の色。

 彼は、巨大な祭壇に手を置き、静かに瞑目していた。その周りの空間すら、彼の深い諦念に圧し潰されているかのようだ。


「……リチェルカ。戻ったか」

 魔王の声は、音もなく、直接、魂に響いてくる。

 そこに、怒りの感情は微塵もない。ただ、重い、鉛のような疲労だけがあった。


 リチェルカは、優雅に一礼する。


「はい、我が主。任務失敗の報告を申し上げます」


 彼女は、王都で起こったすべてを、まるで天気を報告するかのように淡々と述べた。


「『星の御子』(鍵)は、愚かな騎士の反逆により、逃亡いたしました」

「『新人類』(王子)は、自己進化を遂げ、王都を拠点に排他的な統治を開始。我々の計画にとって、最大の障害となる可能性があります」

「そして、『修復者』(アランの魂)は、新たな『聖女』(エルミナ)の心に潜り込み、その『律』の修復を開始したようです」


 静寂が、落ちた。

 呼吸の音すら、この部屋では許されない。


(……怒りなさい、我が主)

(なぜ、貴方は、何も感じないの?)


 リチェルカは、心の中で叫んだ。

 彼女にとって、ゼフィルスの逃亡は、自らの『使命』を危うくする最大の失敗だった。だが、それ以上に彼女を苛むのは、アズラエルが、この一連の「裏切り」に何の感情も示さないことだ。


 彼は、自らが世界に望む「終わり」のために、すべてを捨てた。

 だが、その過程で、彼を慕うはずの者たちが、次々と彼の「救い」から離脱していく。


「……そうか」

 アズラエルは、ゆっくりと目を開けた。

 その深淵の瞳は、リチェルカを通り越し、虚空の彼方を見ている。


「……世界は、まだ、地獄を望むか」


 彼の言葉は、悲しみを通り越した、決定的な諦念だった。

 世界の淀みを清めるための『犠牲の』。彼はそれを断ち切ろうとしているのに、人間たちは、新たな犠牲者と、新たな支配者を求めて、争い続ける。


「リチェルカ」

「はっ」


「……このままでは、『鍵』は失われる。そして、『修復者』の手によって、『律』は再生するだろう」

 アズラエルの声には、微かな決意が宿った。

「私は、これ以上、待てない。……行くぞ。私が自ら、『天の揺り籠』に向かう」


 リチェルカの背筋に、氷柱を打ち込まれたような戦慄が走った。

「し、しかし! 我が主、貴方の魔力は、まだ不安定です! 今、動かれれば……」


「構わん」

 アズラエルは、祭壇から手を離した。

 その姿は、魔王というよりも、ただの疲れ果てた男に見えた。

「これ以上、この世界(地獄)が続くのを見るのは、耐えられない。……リチェルカ。最後の指示だ」


「……」


「私に、力を与えよ。……お前の、その『知性』で、私を最後まで、魔王として立たせてくれ」


 リチェルカは、息を詰めた。

 それは、彼の「遺言」だった。

 彼が世界を終わらせるために、自らの命を使い尽くそうとしている。


(……あなたは、いつだって、そう)

(自分の『痛み』を、世界の『苦しみ』にすり替えて、自分を燃やし尽くす……)


 リチェルカは、アズラエルの足元に、跪いた。

 その表情は、凍りついた湖面のように静かだったが、その心の中には、津波のような愛と悲しみが渦巻いていた。


「……承知いたしました、我が主」

 彼女は、主への忠誠を込めて、深く頭を垂れた。

「貴方の願い(さけび)は、私が、最後まで、見届けます」


 彼女は目を閉じた。

 この魔王の「救い」が、いかにして生まれ、いかにしてこの世界を呪うことになったのか。

 この、冷酷なる知性の奥底にある、ただ一人の男の「悲しい愛」を。

 彼女は、主の命に従う前に、そのすべてを、自らの魂の中で、再び辿る必要があった。


 この悲劇の始まりを。


    ♢


 世界は、白だった。

 いや、白くなくてはならなかった。

 雪と氷に閉ざされた、北の辺境の国。

 教会のステンドグラスを通して差し込む光すら、凍てついた空気で鈍く霞む。


 僕は、石造りの教会の一室で、古い書物を読んでいた。

 名前は、カイ。

 誰も僕を、アズラエルなどとは呼ばない。


 あの時代、この国には「魔族」という概念はなかった。あったのは、ただの「飢餓」と「貧困」だけ。

 そして、この世界を支配する、『律』という名の、絶対的な「システム」だ。


「……カイ。また、そんな難しい本を読んで」


 声がした。

 僕は、本から顔を上げた。

 そこに立っていたのは、一人の少女。

 名前は、ルーチェ。


 彼女の髪は、雪解け水のように透明な銀色。瞳は、北の空と同じ、濁りのない青。

 そして、彼女の心臓の鼓動は、僕の魂のすべてだった。


「ルーチェ。別に難しくないさ。『律』とは、世界の淀みを清めるための『歯車』の集合体だと書かれているだけだ」

「ふーん」


 ルーチェは、興味なさそうに、暖炉で火を熾していた。

 この世界で、火を熾せるのは、彼女だけだった。

 彼女は、この国でも珍しい、炎の魔術の才能を持っていた。

 北国では、火は「命」そのもの。だから、彼女は、この村の「希望」だった。


「ねえ、カイ。それよりも、今日の授業は?」

「ああ。今日は、『選択の倫理』についてだ」

 僕は、本を閉じた。


「たとえば、ルーチェ。今、この村に、十分な食料が十人分しかないとする」

「はい」

「だが、村には二十人の人間がいる。……この時、君なら、どうする?」


 ルーチェは、薪に火をつけるために、目を細める。

 炎が、パチパチと音を立てて燃え始めた。


「……簡単よ」

 彼女は、その青い瞳で、僕をまっすぐに見つめた。

「私が、残りの十人分の食料を、どこからか、持ってくればいいの」


 僕は、思わず笑った。


「そりゃ、正解だが、ルーチェ。それは、この問題の『解』じゃない」

「どうして?」

「『食料はどこからも湧いてこない』という前提で、答えろ、と言われているんだ」


 ルーチェは、少し頬を膨らませた。

「意地悪な問題ね。……じゃあ、私は、食べない。そしたら、一人分、食料が余るわ」


 僕の胸が、ズキンと痛んだ。

 彼女は、いつだって、自分のことなんか、後回しだ。


「……それが、君の『正義』か?」

「うん」

 彼女は、誇らしげに頷いた。

「だって、私が一番元気だもの。一番、長く生き残って、みんなが幸せになるまで、見届ける義務があるわ」


 彼女は、自分の『炎』を、自分の『命』を、誰かのために使うことを、最初から決めていたのだ。


(……この世界は、いつだって、君のような人間を、『燃料』にする)


 僕は、その答えを聞いて、悲しくなった。

 僕が、この世界の理不尽さを、憎むようになった、最初の瞬間だった。


「……違うよ、ルーチェ」

 僕は、立ち上がり、彼女の手を強く握った。

「正解は、『誰も、選ばない』だ。そして、問題を出したヤツに、『食料を二十人分に増やせ』と叫ぶことだ」


 ルーチェは、目を丸くした。


「そんなの、無理よ、カイ。食料は、急には増えないわ」

「無理じゃない。それが無理なら、この『律』というシステムが、間違っている。……僕が、この世界を、『正しい場所』に変えるんだ」


 僕は、ルーチェに、僕の誓いを告げた。

 それは、世界でたった一人、愛する少女を守るための、純粋な、そして、魔王へと至る、血塗られた誓いだった。


「……誰も、犠牲にならない世界。君が、その炎を、誰かのために燃やさなくていい世界を、僕が作る」


 ルーチェは、僕の熱に、少しだけ戸惑ったようだったが、すぐに、優しく微笑んだ。


「……じゃあ、私は、その『正しい世界』の最初の住人になってあげるわ、カイ」


 その約束が、すべてを、始まった。

 あの日の火の温もりこそが、後に世界を飲み込む、魔王の炎の、本当の始まりだった。

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