44.嘘つきの約束
夜が、深かった。
屋根の落ちた廃教会から見上げる空には、星一つ見えない。
大聖堂から放たれる、どす黒い『律』の光と、レオナルドの城塞から漏れる無機質な魔導の灯りだけが、この王都の闇を不気味に染めていた。
「……眠れないのか、詐欺師」
背後から、掠れた声がした。
振り返ると、長椅子に横たわっていたはずのシルヴィアが、包帯だらけの体を起こそうとしていた。
俺は慌てて駆け寄る。
「おい、寝てろよ。リチェルカの魔術で塞がったとはいえ、喉の傷は浅くないんだぞ」
「……じっとしていると、身体が錆びつきそうだ」
シルヴィアは、俺の制止を無視して、壁に背中を預けて座り込んだ。
その顔色は、月明かりの下で蝋人形のように白い。
リチェルカは言った。『仮初めの命』だと。魔族の魔力で無理やり縫い止めているだけで、彼女の魂は、肉体という器からこぼれ落ちそうになっている。
「……水、飲むか?」
俺は、自分の水筒を差し出した。中身は、安酒を水で割っただけの代物だ。
シルヴィアはそれを受け取り、小さく一口飲んで、顔をしかめた。
「……相変わらず、不味いな」
「文句言うな。このご時世、真水の方が貴重なんだよ」
彼女は、水筒を俺に返し、じっと俺の顔を見た。
その視線が、居心地が悪い。
かつてのような、ゴミを見るような侮蔑の目じゃない。
俺の中身を、値踏みするような、探るような目だ。
「……なんだよ」
「いや。……お前、震えていないな、と思ってな」
シルヴィアが、口元を緩めた。
「あの砦の前では、生まれたての子鹿のように震えていたくせに」
「……うるせぇよ。今は、震えてる暇もねぇだけだ」
俺は、焚き火の燃えさしを枝でつついた。
嘘だ。本当は、怖くてたまらない。
魔王、新人類、そしてコルネリウス。化け物たちの戦争のど真ん中だ。逃げ出したいに決まってる。
だが、俺の手元には、今も『星の円盤』がある。
そして、俺の背中には、あの赤ん坊や、エルミナや、そしてこいつ(シルヴィア)の視線がある。
「……なぁ、シルヴィア」
「何だ」
「あんた、怖くないのかよ。……自分の命が、魔族の気まぐれ一つで消えちまうんだぞ」
俺なら、発狂してる。
自分の心臓のスイッチを、敵に握られているようなもんだ。
シルヴィアは、自分の首に巻かれた包帯に、そっと手を触れた。
「……怖いさ」
彼女は、素直に認めた。
「死ぬことよりも……自分が自分でなくなっていく感覚がな。……リチェルカの魔力が、私の体の中を這い回っている。冷たくて、気持ち悪い」
彼女は、膝を抱えた。
その姿は、鋼鉄の女騎士ではなく、ただの弱弱しい一人の女性に見えた。
「……私は、ずっと『正しさ』を鎧にしてきた。でも、その鎧が剥がれた今、中身の私は、こんなにも脆い」
彼女の声が、震える。
俺は、かける言葉が見つからなかった。
俺みたいな偽物が、本物の騎士にかける言葉なんて、何一つ持っちゃいない。
だから、俺は、俺にできる唯一のこと――「ハッタリ」を口にした。
「……安心しろよ」
俺は、ニヤリと笑ってみせた。
「俺が、なんとかしてやる」
シルヴィアが、顔を上げる。
「……は?」
「俺は『星の御子』だぜ? この円盤の使い方だって、だいぶ分かってきた。……魔族の魔力ごとき、俺の『奇跡』で上書きしてやるさ」
根拠なんてない。
円盤の制御なんて、これっぽっちも分かってない。
ただの大嘘だ。
だが、シルヴィアは、その嘘を瞬きもせずに見つめていた。
そして、ふっ、と吹き出した。
「……フフ。……アハハハ!」
「な、なんだよ。笑うことねぇだろ」
「いや……。お前は、本当に、どうしようもない大嘘つきだな」
彼女は、笑いながら、涙を拭った。
その表情は、出会ってから一番、柔らかかった。
「……だが、悪くない嘘だ」
彼女は、俺の手を――泥と煤で汚れた手を、そっと握った。
冷たい手だった。でも、そこには確かな脈動があった。
「頼むぞ、詐欺師。……お前のその大嘘に、私の命、預けてやる」
ズキン、と。
俺の胸の奥が、痛んだ。
罪悪感じゃない。もっと、重くて、熱い何か。
俺は、彼女の手を握り返した。
強く。
「……ああ。高くつくぜ、騎士様」
「請求書は、地獄で払ってやる」
俺たちは、暗い教会の片隅で、互いの体温を確かめ合うように、しばらく手を握っていた。
恋だの愛だの、そんな綺麗なもんじゃない。
これは、共犯者の契約だ。
地獄の底まで、一緒に泥をかぶるという、最悪の約束だ。
でも、不思議と、震えは止まっていた。
「……寝ろよ。見張りは俺がやる」
「……ああ。……少しだけ、頼む」
シルヴィアは、俺の肩に頭を預けると、すぐに寝息を立て始めた。
その無防備な寝顔を見ながら、俺は誓った。
(……嘘でいい)
(こいつが生き延びられるなら、俺は、世界一の詐欺師であり続けてやる)
窓の外では、東の空が、血の色に白み始めていた。
決戦の時は、近い。
俺たちの、最後の「大芝居」の幕が、上がろうとしていた。




