40.泥濘(ぬかるみ)の共犯者
「――来い、魔族! 私の『氷』は、もう砕けない!」
シルヴィアの絶叫が、廃墟と化した観測室の空気を切り裂いた。
喉から鮮血を滴らせ、足元はおぼつかず、握る剣の切っ先は小刻みに震えている。
誰の目にも明らかな、満身創痍の死に損ない。
なのに。
なぜ、あんなにも、痛いほどに眩しいんだ。
「……愚かね」
リチェルカが、ため息交じりに指を振るう。その仕草は、舞踏会の手つきのように優雅で、そして死刑執行人のように冷酷だった。
影から湧き出した漆黒の魔獣たちが、牙を剥いてシルヴィアに殺到する。
「飼い犬が噛み付いたくらいで、運命が変わるとでも?」
「――黙れッ!」
シルヴィアが、剣を振るう。
その刃から迸ったのは、これまでの洗練された「騎士の氷」ではなかった。
彼女自身の傷口から溢れる血液を凍らせて作った、赤黒く、歪で、鋭利な氷柱。
なりふり構わぬ、生への執着の結晶。
「ガァッ!?」
先頭の魔獣が、その泥臭い一撃に串刺しにされる。
「……はぁ……はぁ……!」
シルヴィアは止まらない。
獣のように吠え、泥のように這い、騎士の誇りなどという美しいメッキをかなぐり捨てて、敵に喰らいつく。
(……ああ。あんた、本気かよ)
俺の足が、勝手に震える。
恐怖じゃない。これは、焦燥だ。
三十年前の英雄アランのような、綺麗な戦い方じゃない。俺のような詐欺師が、路地裏で生きるために使う、薄汚い「足掻き」だ。
高潔だったはずの騎士様が、俺のために、俺と同じ場所まで降りてきて、戦ってくれている。
『偽物だって、意地を見せれば、世界を騙せる』
彼女の言葉が、俺の胸の奥で燻っていた残り火に、油を注いだ。
(……上等だ)
(俺は、詐欺師だ。嘘つきだ。クズだ)
(だが……)
「……女一人に、泥を被せたままで……何が『星の御子』だ!!」
俺は、懐の『星の円盤』を、握りしめた。
熱い。
この円盤が、こんなに熱く脈動しているのは、あの砦以来だ。だが今度は違う。何が起こるかわからない奇跡に縋るんじゃない。
俺が、俺の意思で、このガラクタを使うんだ。
「――どけぇぇぇぇぇッ!!」
俺は、シルヴィアと魔獣の間に、割って入った。
円盤を掲げる。
攻撃じゃない。破壊でもない。
これは、俺の十八番、「ハッタリ」だ!
「喰らいやがれ! 星の……目眩ましだァァァッ!」
カッッッ!!
円盤から、指向性の強烈な閃光が放たれた。
それは神の雷などという高尚なものではない。ただの、目が焼けるほどに眩しい、マグネシウムの爆発のような光。
「うぐっ!?」
リチェルカが、咄嗟に腕で顔を覆う。
魔獣たちも、突然の光に視界を奪われ、混乱して動きを止める。
「……ゼフィルス……!」
シルヴィアが、驚いたように目を見開く。
俺は、彼女の腕を乱暴に掴み、その背中に背中を預けた。
「……遅いぞ、詐欺師」
「悪かったな。ヒーローの登場には、タイミングってもんがあるんだよ」
軽口を叩きながら、俺は冷や汗を拭う。心臓が、早鐘を打っている。
リチェルカが視力を取り戻すまで、数秒。
この隙に逃げるしかない。
レオナルド王子やガリウスも、それぞれの戦いを繰り広げている。ここは乱戦だ。紛れることはできる。
「走れるか、騎士様」
「……愚問だ」
俺たちは、閃光の残滓が消えぬうちに、崩壊した壁の穴へと飛び込んだ。
背後でリチェルカの怒声が響くが、振り返らない。
ただひたすらに、泥濘の中を、無様に、必死に、走った。
◆ ◆ ◆
王都の廃墟と化した一角。
半壊した石造りの建物の影に、俺たちは滑り込んだ。
遠くで、爆発音や魔獣の咆哮が響いているが、ここまでは届かない。
「……はぁ……はぁ……ぐっ……」
シルヴィアが、壁に背を預けて崩れ落ちる。
喉の傷は魔力で塞がっているが、失った血の量は致死量に近い。顔色は土気色で、荒い呼吸をするたびに、喉の奥でヒューヒューという音が鳴る。
俺は、懐から安酒の小瓶を取り出し、彼女の唇に押し当てた。
「……飲め。気付け薬だ」
シルヴィアは、文句も言わずにそれを飲み干し、むせ返った。
「……不味い」
「上等な年代物だぜ。……文句言う元気があるなら、大丈夫だな」
重い沈黙が落ちる。
瓦礫の隙間から、赤い月が見えた。
俺たちは、生き延びた。だが、状況は最悪だ。
世界を終わらせようとする魔王。新世界を作ろうとする王子。
俺たちは、そのどちらにも属さない、ただの「逃亡者」だ。
「……なぜ、逃げなかった」
シルヴィアが、剣を抱いたまま、震える声で問うた。
その瞳は、俺の顔を真っ直ぐに見つめている。
「お前なら、あの隙に、逃げられたはずだ。金目のもんを持って、どこか遠くへ……」
「……ああ、逃げられたさ」
俺は、ニヤリと笑ってみせた。いつもの、嘘つきの笑みで。
「この円盤売り飛ばせば、一生遊んで暮らせるくらいの金にはなる。……そうするつもりだった」
「なら、なぜ」
「……あんたが」
俺は、言葉を詰まらせた。
本音を言うのは、嘘をつくより何倍も難しい。喉が焼きつくようだ。
「……あんたが、俺みたいな偽物を、『本物』みたいに見るからだ」
「……私が?」
「ああ。泥まみれになって、血反吐吐いて……それでも『死ぬな』なんて言われたら……逃げられるわけねぇだろ!」
俺は叫んだ。自分の中の弱さを、情けなさを、すべて吐き出すように。
「俺は詐欺師だ。世界を騙すのは得意だが……女一人守れないで、何が英雄だ! 何が『星の御子』だ!」
ずっと、怖かった。
アランのような「本物」になれない自分が。
いつかメッキが剥がれ、断罪される日が来ることが。
だが、今、目の前で傷ついているこの女は、俺のメッキの下にある「錆びついた鉄」ごときに、命を懸けてくれたのだ。
シルヴィアが、一瞬、息を呑む気配がした。
そして、小さく、笑った。
「……フフ」
「……なんだよ」
「……いや。……そうか」
彼女は、震える手を伸ばし、俺の泥だらけの頬に触れた。
その手は、冷たかった。だが、そこには確かな体温があった。
それは、高潔な騎士の冷たさではなく、一人の、傷だらけの人間の熱だった。
「……私は、ずっと『清廉』であろうとした。汚れのない正義こそが、アラン様の意志だと信じていた」
シルヴィアの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「だが、違った。……ガリウスが言っていた通りだ。本当に守りたいものは、泥の中でしか拾えない」
彼女は、俺の手を握り返した。
強く。痛いほどに強く。
「なら、付き合え。詐欺師」
シルヴィアの声に、力が戻る。
それは命令でも、懇願でもない。対等な、魂の契約。
「地獄の果てまで。……お前のその嘘が、真実になるまで」
「……へっ。高くつくぜ、騎士様」
俺たちは、互いの汚れた手を握り合った。
そこにあるのは、神話のような美しい誓いではない。
傷だらけの女と、嘘つきの男。
世界からはじき出された二人が結んだ、泥濘の中の「共犯関係」。
俺は、もう、神も星も信じない。
信じるのは、この手のぬくもりと、俺がついた大嘘だけだ。
「……行くぞ、シルヴィア」
「応ッ」
俺たちは、瓦礫の影から立ち上がった。
夜明けはまだ遠い。
だが、俺たちの足取りは、もう迷っていなかった。




