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4.なぜ墓標に鍵を埋めたか

リリアンデ・アシュフィールドは、死体が好きだった。


正確に言えば、生命という精巧な『仕掛け』が、その機能を停止した後の、ただの物質へと還っていく過程を観察するのが、たまらなく好きだったのだ。


王立アカデミーの地下、ホルマリンのツンとした匂いが鼻を突く標本室。

彼女は今、魂魄病で死んだという男の死体を前に、目を輝かせていた。

許可など取っていない。夜陰に紛れて忍び込んだのだ。


「……なるほど。魔素に侵された魂は、肉体を内側から焼き切るのね。この血管の変色、神経の炭化……美しいわ。」


彼女はメスを手に取ると、ためらいなく死体の胸を切り開いた。

肋骨を力任せに割り、臓腑をかき分ける。

その指先は、まるで恋人の肌を撫でるかのように、ねっとりと粘膜や脂肪組織の感触を確かめていた。


「心臓は……原型を留めていない。まるで黒い炭の塊。魂の器が、自らの熱量に耐えきれず燃え尽きた、というわけね。面白い……」


「――何をしている、リリアンデ」


背後からかけられた冷たい声に、リリアンデはゆっくりと振り返った。

血塗れのメスを片手に、彼女は悪びれもせず微笑む。


「あら、レオナルド殿下。こんな夜更けに、ネズミの死骸でも探しにいらしたのかしら?」


そこに立っていたのは、エレテュリア王国の第三王子、レオナルド・フォン・アルストリア。

齢二十歳。兄たちのような武勇も、姉たちのような華やかさもなく、ただ書物を愛するだけの、影の薄い王子だった。


「その死体は、聖教会が管理するものだ。無断で切り刻むなど、異端審問にかけられても文句は言えんぞ」

「あら怖い。でも、殿下は密告などしないでしょう? あなたは、真実を知りたい人だから」


リリアンデは、血の付いた指先でレオナルドの胸をツン、と突いた。

彼はビクリと肩を震わせ、顔を赤らめる。


「なっ、何を……!」

「殿下、退屈でしょう? 王宮の古い慣習、兄君たちのくだらない権力争い、そして、祈るしか能のない聖職者たち。……私は、そんなものより、もっと面白い『謎』を見つけてしまったの」


彼女はレオナルドの耳元に唇を寄せ、官能的な響きさえ含んだ声で囁いた。


「勇者が、なぜ生まれなかったのか。……いいえ、『誰が』勇者を消したのか。知りたくない?」

 

その言葉は、レオナルドの心の奥底に眠っていた、知的好奇心という名の獣を揺り起こした。

彼はゴクリと喉を鳴らす。


「……王宮の禁書庫か。そこに答えがあると?」

「さあ? でも、ヒントくらいは転がっているかもしれないわ。問題は、あそこの番人が、大司教コルネリウスの息がかかった石頭だってこと」


リリアンデは、レオナルドの瞳を覗き込む。


「でも、一国の王子であるあなたになら、扉を開ける『鍵』くらい、おありでしょう?」


それは、紛れもない誘惑だった。

知の探求という名の、甘美な毒。

レオナルドは、自分がこの悪魔のような天才の駒にされようとしていることを理解しながらも、抗うことができなかった。


「……分かった。手は貸そう。だが、見つけたものは、すべて私にも共有してもらう」

「ええ、もちろん。私たちの探求の旅ですもの。ねえ、殿下?」


リリアンデはくすくすと笑い、血に濡れたメスに反射する獲物を見つめていた。


◆ ◆ ◆


一方、世界の裏側。

淀んだ魔素が渦巻く魔王城の最奥、『調律の間』。

復活した魔王アズラエルは、玉座に身を沈め、深い苦悩の表情を浮かべていた。

彼の肉体は、この世界の淀んだ魔素を一身に集め、暴走を抑えるための装置そのもの。


「――まだか」


玉座から発せられた声は、地獄の底から響くような重低音でありながら、どこか焦燥の色を滲ませていた。


玉座の前に跪く、四大魔将軍の一人、〝深謀〟のリチェルカが、静かに首を横に振った。

彼女は、艶やかな黒髪を揺らし、知性の光を宿した瞳で主を見上げる。

その姿は、魔将軍というより、どこかの国の宰相か学者を思わせた。


「はっ。人間どもの報告によれば、今代の勇者はついに生まれなかった、と。彼らも大混乱に陥っている様子」

「馬鹿な……! ありえん! この世界の『律』が、それを許すはずがない!」


アズラエルは玉座の肘掛けを拳で殴りつけた。


「このままでは、世界の魔素循環が滞り、人間も我らも、共に滅びるだけだぞ! あの愚かな人間どもは、それも分からぬのか!」


彼の苦悩は、誰にも理解されない。

勇者と魔王の戦いは、世界の恒常性を保つための、いわば必要悪。

魔王が溜め込んだ淀みを、勇者が聖なる力で浄化し、大地に還す。

その繰り返しで、この世界はかろうじて延命してきたのだ。

だというのに、肝心の浄化役が、来ない。


その時、広間に別の魔将軍が、地響きを立てて入ってきた。

〝剛撃〟のグラディオス。

鋼のような肉体を持つ、生粋の武人だ。


「魔王様! いつまでそのような戯言を! 勇者が来ぬのなら、好都合ではありませぬか! この機に、脆弱な人間どもを皆殺しにし、この大陸を我ら魔族の手に!」

「黙れ、グラディオス」


アズラエルは冷たく言い放つ。


「貴様には、この世界の理が見えておらぬ。世界の均衡が崩れれば、我らの勝利など、何の意味もなくなるのだ」


「腑抜けたことを!」


グラディオスは吼えた。


「ならば、我が軍だけでも出陣の許可を! 手始めに、北の穀倉地帯を蹂躙し、奴らの兵站を断ってご覧にいれましょう!」

「待て、早まるな」


リチェルカが制する。


「今は原因の究明が先決です。この異常事態……何者かの意図的な干渉の可能性も考えられます」

「フン、学者の机上の空論か! 我は力こそが真理と信じる!」


二人の魔将軍が火花を散らすのを、アズラエルは苛立たしげに見つめていた。


「……好きにしろ、グラディオス」


やがて、アズラエルは疲れたように呟いた。


「だが、忘れるな。我らの真の敵は、人間ではない。この世界を縛る、古き『律』そのものだということを」


その言葉の意味を、グラディオスは理解しなかった。

彼はただ、満足げに獰猛な笑みを浮かべると、恭しく一礼し、広間を後にした。

残されたリチェルカは、憂いを帯びた瞳で、苦悩する主君を見つめることしかできなかった。


「魔王様……」

「リチェルカよ。お前は、人間どもの動向を探れ。特に、この『律』の綻びに気づきそうな、知恵ある者を探し出せ。……あるいは、敵の中にこそ、この呪いを解く鍵があるやもしれん」


その頃、王都では、奇妙な噂が流れ始めていた。

北の果てで、『星の御子』を名乗る男が現れ、奇跡の力で化け物を退けた、と。


その噂は、やがて王宮の書庫で禁書を漁る、一人の天才異端学者の耳にも届くことになる。

彼女は、その新たなパズルのピースの出現を、心からの歓喜をもって迎えることになるだろう。

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