39.私の『氷』は、もう砕けない
「……ごきげんよう、人間たち」
リチェルカの声が、張り詰めた空気を震わせた。
観測室には、三つの勢力が睨み合っている。
だが、私の意識は、その中心にいる魔女でも、異形の王子でもなく、ただ一人、その背後で震えている「彼」に向けられていた。
ゼフィルス。
あの日、泥と吐瀉物にまみれながらも、私を庇った男。
(……生きている)
(それだけで、十分だ)
私の喉元には、リチェルカの冷たい爪が食い込んでいる。
少しでも動けば、即座に死ぬ。
ガリウスが歯噛みし、リリアンデが舌打ちするのが見える。
私が「人質」である限り、彼らは動けない。
「……動かないで、老兵さん」
リチェルカは、私を盾にしながら、優雅に微笑んだ。
「無駄な争いはやめましょう。
私は、我が主、魔王アズラエルの代理として、ここに来たの」
彼女は、ゼフィルスを前に押し出した。
「この『星の円盤』を持つ彼と共に、ね」
「……魔王の代理だと?」
レオナルドが、黒い瞳を細める。
「我々に降伏勧告でもしに来たか?」
「いいえ。
もっと建設的な提案よ」
リチェルカは、崩壊が進む王都を見渡した。
「『律』は壊れ、世界は崩壊を始めた。
あなたたちのその『新人類』という進化も、所詮は崩壊までの時間稼ぎに過ぎない」
彼女は、ゼフィルスの持つ円盤を指差した。
「我が主は、この苦しみの連鎖そのものを、完全に『断ち切る』ことを望んでいるわ」
「断ち切る……?」
リリアンデが、訝しげに眉をひそめる。
「それは、具体的にどういうこと?」
「簡単なことよ。
この世界の『律』が生まれた場所――『天の揺り籠』にて、この『鍵(円盤)』を使う。
そうすれば、世界を縛る『大儀式』の環は砕け散る」
リチェルカの瞳に、暗い熱が宿る。
「『律』は、世界の淀みを浄化するために、常に『犠牲』を求め続ける。
三十年前の勇者アランがそうであったように。
そして、歴代の魔王たちがそうであったように。
……我が主は、この『燃料』と『受け皿』を使い潰すだけの地獄のシステムを、永遠に停止させたいのよ」
「……停止させて、どうなる?」
ガリウスが、低い声で問う。
「『律』がなくなれば、世界はどうなるんだ」
「……さあ?」
リチェルカは、悪びれもせず、小首をかしげた。
「分からないわ。
魔素が枯渇するかもしれないし、世界が形を保てなくなるかもしれない。
……でも、少なくとも、このまま『生きたまま食われる』ような緩やかな死よりは、マシでしょう?」
それは、あまりにも乱暴で、絶望的な賭けだった。
未来を捨てて、苦痛からの解放を選ぶ。
それは「救済」と呼ぶには、あまりにも虚無的だった。
「……ふざけるな!」
リリアンデが、激昂した。
「結果が分からないですって!? それは『実験』ですらない! ただの『放棄』よ!」
彼女は、レオナルドの腕を掴んだ。
「私の『進化』は、この混沌に適応するための『解』よ! お前たちの破れかぶれな『破壊』と一緒にしないで!」
「俺も、反対だ」
ガリウスが、唸るように言った。
「世界がどうなるか分からねぇ? そんな博打に、アラン(こいつ)を巻き込めるか。
……もし、アランの存在まで消えちまったら、俺は……!」
交渉決裂。
リチェルカは、小さくため息をついた。
「……残念ね。
あなたたちなら、この『痛み』を理解してくれると思ったのだけれど」
彼女の背後で、空間が歪む。
無数の魔獣の気配が、影から溢れ出した。
「『律』がある限り、第二、第三のアランが生まれるだけよ。
……なら、力ずくで『鍵』を使わせてもらうわ。
この女の命と引き換えにね」
彼女の爪が、私の皮膚を裂く。
痛みが走る。
鮮血が、私の鎖骨を伝い落ちる。
(……人質、か)
(上等だ)
私は、動かない体で、指先だけに力を込めた。
まだ、剣は握れない。
だが、魂は、もう折れていない。
アズラエルの動機。
それは、「犠牲を出したくない」という、ある意味で純粋な願いだ。
だが、そのために、今、目の前で、私という「犠牲」を使おうとしている。
矛盾だ。
(……ゼフィルス)
(よく聞け。
……そして、見ていろ)
私は、もう、「秩序」の人形ではない。
コルネリウスの犬でもない。
私は、私自身で、選ばなければならない。
「正義」とは、綺麗な鎧を着て、高みから見下ろすことではない。
泥にまみれ、傷つき、それでも、目の前の一人を守るために、剣を振るうことだ。
あのアラン様のように。
そして、この、どうしようもなく人間臭い、詐欺師のように。
(……私が、この「偽物」の命を使って、どうやってこの盤面をひっくり返すか)
(お前が教えてくれたんだ)
(「偽物」だって、足掻けば、「本物」に一太刀浴びせられるってな!)
(……今だ)
私は、渾身の力を振り絞り、リチェルカの腕に噛み付いた。
「ッ!?」
リチェルカが、驚きに一瞬、腕を緩める。
「――伏せろッ!!」
私は、叫んだ。
誰に対してでもない。
この場にいる全員に対して。
そして、自らの体内に残っていた、わずかな魔力を暴発させた。
『氷結』の魔法。
ただし、敵を凍らせるためではない。
私自身の血液を、凍らせるために。
「がぁっ……!」
私の傷口から噴き出した血が、瞬時に凍りつき、鋭利な氷の棘となって、至近距離のリチェルカの顔面を襲う。
「くっ……! 小賢しい!」
リチェルカは、咄嗟に私を突き飛ばし、氷を回避した。
私は、床に転がった。
喉の傷は、自らの氷で塞いだ。
激痛で視界が明滅するが、私は、剣を――床に落ちていた、誰かの剣を、掴み取った。
「……はぁ……はぁ……」
私は、よろめきながら立ち上がった。
「……人質? カード? ……笑わせるな」
私は、剣先を、リチェルカに向けた。
そして、その背後で呆けている、ゼフィルスを見た。
「……おい、詐欺師」
「へ……?」
「いつまで震えている。
……お前が教えてくれたんだろう」
私は、ニヤリと、血に濡れた口元で笑った。
かつてガリウスが見せたような、泥臭く、獰猛な笑みを。
「『偽物』だって、意地を見せれば、世界を騙せるってな!」
ゼフィルスの顔色が、変わった。
恐怖が、驚愕へ。
そして、微かな「熱」へ。
「……シルヴィア……」
「さあ、見せてみろ! お前の嘘が、どこまで通じるか!」
私は、叫んだ。
「私は、もう迷わない! 私の『正義』は、私が決める!」
その瞬間、私の体から、リチェルカの魔力とは違う、青白い冷気が立ち昇った。
それは、かつての「秩序」に縛られた冷たさではない。
泥にまみれ、血を流し、それでも立ち上がる、生命の熱を孕んだ、新しい「氷」だった。
「……面白い」
レオナルドが、口元を歪めた。
「……ったく、無茶しやがる」
ガリウスが、呆れたように、しかし嬉しそうに、短剣を構え直す。
アラン(メフィア)の光が、優しく明滅した。
三つ巴の均衡は、私の「暴走」によって、粉々に砕け散った。
ここからは、乱戦だ。
それぞれの「救い」を懸けた、泥仕合の始まりだ。
「――来い、魔族! 私の『氷』は、もう砕けない!」




