36.代価の小瓶と、救えない秩序
ガリウスの言葉は、私の「正義」に、解毒できない「毒」を打ち込んだ。
(……泥水……)
私は、騎士団の訓練の傍ら、書庫に籠った。
アランとガリウスの「真実」を知るため。
そして、ガリウスが口にした「泥」の意味を、理解するため。
そこで、私は、一冊の戦術書に出会った。
『律の維持と、魔素の効率的運用について』。
著者は、--------セリス・ヴァンドール。
ガリウスの、姉。
アランの旅に同行した、女性戦略家。
私は、その戦術書に、魅入られた。
そこには、私が求めていた「正義」の、完璧な「解答」が記されていたからだ。
感情に左右されない、冷徹なまでの「合理」。
最小の犠牲で、最大の「秩序」を守るための、完璧な「計算」。
(……これだ)
ガリウスの言う、正体不明の「泥」ではない。
セリスが示した、この「秩序」こそが、アランが守ろうとした「光」の正体だ。
私は、ガリウスの教えを、心の奥底に封印した。
そして、セリスの戦術書を、私の「正義」のバイブルとした。
私は、セリスの「型」を、完璧にトレースした。
剣技も、戦術も、思考さえも。
感情を排し、常に「秩序」と「正義」を最優先する。
その結果、私は、異例の速さで、騎士団長補佐の地位まで、登り詰めた。
(……私は、間違っていない)
そう、信じていたかった。
叙任式を終えた、その夜。
私は、アランの墓所を、訪れた。
セリスの「正義」を受け継いだ、最強の騎士が、ここにいると、報告するために。
だが、そこに、先客がいた。
ガリウスだった。
彼は、アランの墓標に背を預け、一人、静かに、酒を飲んでいた。
「……ガリウス、殿」
「……おう。
出世したそうじゃねぇか、嬢ちゃん。
……その、姉貴の、ガチガチの『正義』を、真似んでな」
彼は、私を、見ようともしない。
ただ、隻眼で、星の消えた、暗い夜空を、見上げていた。
その横顔は、私が知る、どのガリウスよりも、静かで、孤独で、
――泣いているように、見えた。
「……!」
私は、あの日の、アランの笑顔を、彼の横顔に、重ねていた。
「……なぜ、あなたは、泣いている」
「……泣いてねぇよ。
酒が、目にしみただけだ」
「嘘だ」
私は、彼の隣に、膝をついた。
「……私は、強くなった。
あなたの姉の教えで、完璧な『秩序』の剣を、手に入れた」
「……」
「だから、今度こそ、私が」
私は、誓った。
「――私がいつか、あの背中の荷物も、あなたの背中の荷物も、半分、持ちます」
ガリウスは、数秒、黙っていた。
そして、ゆっくりと、私を、振り返った。
その隻眼には、涙ではなく、深い、底なしの「哀れみ」が、浮かんでいた。
「……嬢ちゃん」
彼は、私の頭に、無骨な手を、置いた。
「……お前には、無理だ」
「……!」
「その『荷物』はな。
お前が信じてる、そのピカピカの『正義』じゃあ、背負えねぇんだよ」
「……」
「お前のその手(正義)は、あまりにも、綺麗すぎる」
彼は、私を、拒絶した。
アランの「陰り」も、ガリウスの「孤独」も、セリスの「秩序」も、すべてが、私には、まだ、遠すぎた。
(……結局、私は、あの日から、何も、変わっていない)
意識が、沈む。
喉が、熱い。
(……ああ。
そうだ。
私は、ずっと、『聖性』だけで、生きたかった)
(ガリウスの言う、『泥』も、ゼフィルスの言う、『嘘』も、見ないふりをして)
(……私は、ずっと、間違っていた……)
(……寒い)
意識が、浮き沈みする。
現実が、遠い場所で響いている。
(……ああ。
また、この寒さだ)
シルヴィアの意識は、再び、あの日の冬へと沈んでいった。
ガリウスの元を去り、セリスの戦術書を「正義」として掲げてから、二年。
私は十九歳。
騎士団の正規任官を受け、王都警備隊の一員として、自らの「秩序」に絶対の自信を持ち始めていた。
ガリウスが吐き捨てた「泥」という言葉は、忘れたい過去として、心の奥底に封印していた。
その日、非番だった私は、久しぶりに王都郊外の実家へと戻っていた。
だが、家を包んでいたのは、懐かしい暖炉の匂いではなく、病の、淀んだ空気だった。
「……母さん?」
母が、寝台に伏していた。
かつては血色の良かった頬は、土気色に変わり果て、その呼吸は、か細く、浅い。
王宮の医師は、首を振るだけだった。
「原因不明の消耗症だ。
……手の、施しようがない」
(魂魄病……)
まだ、その名が王都で囁かれ始めたばかりの頃。
聖教会は、それを「信仰の足らぬ者がかかる呪い」と断じていた。
私の「秩序」も「正義」も、この目に見えぬ病魔の前では、何の役にも立たなかった。
父は、憔悴しきっていた。
温和で、誰よりも「法」を重んじ、私が騎士になることを一番に応援してくれた父が、まるで別人のように、何かに取り憑かれた目で、壁を睨んでいた。
「……シルヴィア。
お前が、帰ってきてくれて、よかった」
「父さん……?」
「……『奇跡』が、あるんだ」
父が、震える声で告げた。
その夜、一人の男が、我が家を訪れた。
仕立ての良い服に身を包み、人好きのする笑みを浮かべた、その男は、自らを「星の代行者」と名乗った。
その立ち振る舞いは洗練されており、言葉の端々にまで、相手を安心させるような「優しさ」が滲み出ていた。
「お困りでしょう、旦那様。
……王宮の医者にも、聖教会の祈祷にも、見放されてしまった。
ですが、ご安心を」
男は、懐から、小さな小瓶を取り出した。
中には、星屑を溶かしたかのように、美しく輝く、黄金色の液体が入っていた。
「これは、『星の涙』。
神託が途絶える前に、星の御子から授かった、万病を癒す、最後の一滴。
これさえあれば、奥様の病は、たちどころに……」
私は、即座に、男の前に立ちはだかった。
剣の柄に、手をかけながら。
私の本能が、叫んでいた。
こいつは、「敵」だ、と。
「……待ちなさい」
私の声は、訓練通り、氷のように冷たかった。
「その小瓶、見せなさい。
……所属と、身分を明らかにせよ。
王都条例違反、詐欺及び不法医療の現行犯として、拘束する」
「……!」
男の顔に、一瞬、動揺が走る。
だが、すぐにまた、あの張り付いたような笑顔に戻った。
「シルヴィア!」
父が、私の腕を掴んだ。
その力は、痛いほどだった。
「やめろ! この方は、母さんの、最後の希望なんだぞ!」
「父さん、目を覚まして! こいつは、詐欺師だ!」
私は、叫んだ。
「そんな、都合の良い『奇跡』など、あるものか! これは『秩序』を乱す、明らかな『嘘』だ!」
「秩序だと!?」
父が、私を、殴った。
初めてだった。
父の、乾いた掌が、私の頬を、強く、打った。
「……!」
私は、よろめき、呆然と父を見た。
「……その『秩序』が、母さんを救ってくれるのか!」
父は、泣いていた。
大人の男が、子供のように、顔を歪めて泣いていた。
「お前の言う『正義』は、病床で死んでいく妻を、ただ指をくわえて見ていることか! 私は、信じたいんだ! 嘘でも、何でもいい! 私は、縋りたいんだよ!」
「……父、さん……」
父の叫びが、私の胸を抉る。
『秩序』。
私の信じる、絶対の正義。
だが、それは、目の前の愛する人を救う力を持たない。
無力だ。
(……ああ。
これか)
私の脳裏に、ガリウスの、あの隻眼が、蘇った。
『お前のその『正義』は、アランが、命懸けで守ろうとした『嘘』の上で、踊ってるだけだ』
民衆は、「嘘」を望む。
「秩序」では救えない、絶望の淵に立たされた時、人は、こんなにも容易く、「泥水」に、手を伸ばしてしまうのか。
父のような、真面目な人間でさえも。
「……どうか、お嬢様。
お父様の、奥様を想うお気持ちを……」
詐欺師は、困ったように、悲しそうな目を、私に向けた。
「私どもとて、神の使徒。
困っている方を、見捨てるわけには参りません」
その芝居がかった「優しさ」が。
父の弱みに付け込み、希望を食い物にしようとする、その醜悪さが。
私の、最後の理性を、焼き切った。
「……黙れ、下衆が」
私は、父の手を振り払い、詐欺師の胸倉を掴み上げた。
私の殺気が、男の笑顔を凍りつかせた。
「その『奇跡』の代価は、いくらだ」
「……へ、へえ……。
それは、まあ……」
「……"あなたの全て"、といったところ……ですか……」
「……!」
「ですが、奥様の命には、代えられませんでしょう?」
父が、膝から崩れ落ちた。
「頼む……。
シルヴィア……。
頼む……!」
父の手には、家の権利書と、母が私のために貯めていた、なけなしの宝石が握られていた。
私は、男を睨みつけたまま、動けなかった。
「秩序」を取れば、父は、私を、一生、恨むだろう。
「情」を取れば、私は、この「嘘」を、この手で、見逃すことになる。
騎士としての誇りを、自らドブに捨てることになる。
「……持って、行け」
私の口から、絞り出すような、声が漏れた。
私は、男を突き放した。
「……その代わり、治らなかった時は、私が、お前のその喉を、切り裂く」
「……か、必ず。
星の、お導きがありますように」
男は、逃げるように深々と一礼すると、父が震える手で差し出した、私たちの全財産を受け取り、闇の中へと、消えていった。
結果は、分かりきっていた。
黄金色の液体は、ただの、着色された砂糖水だった。
三日後。
母は、私の腕の中で、息を引き取った。
全財産を失い、希望を失った父は、ただ、抜け殻のように、そこに座っていた。
詐欺師の男は、二度と、現れなかった。
(……ガリウス……)
私は、冷たくなっていく母の手を握りしめながら、暗い、冷たい決意を、固めていた。
(……あなたは、間違っている)
(『泥』は、誰も救わない)
(『泥』は、さらなる絶望を、呼び込むだけだ)
(必要なのは、感情に流されない、絶対的な『法』。
泣き叫ぶ父を、殴りつけてでも、『秩序』を執行する、鋼の『意志』)
(私は、二度と、間違えない)
(私は、二度と、この「嘘」を、許さない)
私は、母の墓前で、誓った。
この世のすべての「偽物」を、排除する。
それが、私の「正義」だと。
(だから、ゼフィルス……)
意識が、現実の、灼熱へと、戻っていく。
喉の奥が、焼けるように痛い。
(……お前が、あの砦の前で、震えていた時……)
(私は、お前に、あの『詐欺師』を、重ねていた)
(……『嘘』で、民衆を騙し、金を巻き上げる、卑怯者、だと)
(……お前は、私の母を殺した男と、同じだと)
(……だが……)
記憶の底で、ゼフィルスの背中が、蘇る。
泥にまみれ、吐瀉物にまみれながら、それでも、砦に向かって歩き出した、あの背中が。
(……お前は……違ったな……)
(……お前は、逃げなかった)
(……泥に、まみれたまま、……あの地獄に、向かって、行った……)
(……私は、お前を、見誤っていた……のか?)




