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35.光を演じる者と、影を見る者

(……寒い)


 全身が、氷のひつぎにでも入れられたかのように、冷たい。

 

喉の奥が、焼けるように熱い。

 


(私は……死ぬのか……)


 シルヴィア・ブレイズの意識は、冷たい水の底へ、ゆっくりと沈んでいく。

 

騎士団の誇りも、コルネリウスへの疑念も、ゼフィルスへの侮蔑も、すべてが遠のいていく。



(……ああ。

結局、私は……何も、守れなかった)


 諦観と共に、意識が途絶えようとした、その瞬間。




 ――ワアアアアアアアアッ!!



 鼓膜が破れそうなほどの、大歓声。

 

氷の底が、不意に、抜けた。

 

シルヴィアは、目を見開いた。

 

目の前にあったのは、魔族の刃でも、王都の地獄でもなかった。

 

降り注ぐ、真昼の陽光。


紙吹雪。


そして、地響きのような熱狂。



(……ここ、は……?)


 三十年前。


王都エレテュリア、凱旋のメインストリート。

 

まだ幼い、「私」が、そこにいた。

 

父の騎士服の裾を強く握りしめ、人垣の最前列で、目を輝かせている。



 そうだ。

あの日だ。

 


魔族を討ち果たした、勇者アラン・フォン・シルヴァードが、王都に凱旋した、あの日。



「シルヴィア! 見えるか! あれが、本物の『英雄』だ!」


 父が、興奮した声で、私の背中を押す。

 


金色の髪。


陽光を反射する黄金の鎧。

 

白馬にまたがり、民衆の歓声に応えるその姿は、ステンドグラスから抜け出してきた神話そのものだった。

 

誰もが、彼を「曙の星」と呼び、その完璧な「光」に、熱狂していた。



(……ああ。

眩しい。

なんて、眩しいんだろう)


 幼い私は、その光景に、ただ、うっとりと見惚れていた。

 

騎士になろう、と。

 

あの人のように、正しく、強く、美しい「本物」になろう、と。

 

そう、誓った。



 パレードが、ゆっくりと進む。

 

アランが、私の目の前で、ふと、馬を止めた。

 

歓声が、一段と高まる。

 

アランは、私を見た。

 

幼い私に向かって、あの、誰もが望んだ「完璧な笑顔」を、向けてくれた。



「……!」


 幼い私は、息を呑み、その笑顔に、釘付けになった。



 だが、その瞬間。

 

大人の私(意識)は、気づいてしまった。



(……あれ……?)


 アランの笑顔は、完璧だった。

 

唇の形も、目の細め方も、民衆に応える手の振り方も、非の打ち所がない、英雄のそれだ。

 

なのに。



(……なぜ、あの人は……)


 その瞳の奥。

 

民衆の熱狂を映すはずの、その金色の瞳の、さらに奥の、深い、深い場所で。



(……泣いているの……?)


 それは、子供の勘違いだったのかもしれない。

 

光の反射だったのかもしれない。

 

だが、あの瞬間の、あの違和感だけは、三十年経った今も、鮮明に、私の胸に焼き付いている。



 完璧な「光」の中心で、たった一人、泣いている、英雄の姿。

 

誰も気づかない、その微かな「陰り」。



(……あれが、私の、原風景)


 なぜ、あの日、父の隣で、ただ「すごい」と、熱狂できなかったのか。

 

なぜ、あの笑顔の裏にある涙を、見つけてしまったのか。



(……だから、私は……)


 意識が、再び、冷たい水底へと引きずられる。



(……「偽物」が、許せないんだ……)



 意識は、再び、別の過去へと飛んだ。

 

熱狂のパレードから、十数年後。


王都の騎士団訓練所。



「――その剣は、なんだ」


 ガリウス・ヴァンドールの、錆びついた鉄が擦れるような、低い声が響いた。

 

私は、十六歳。


騎士団に入団したばかりの、新人だった。

 

目の前の男は、アランの死後、騎士団を辞め、王都の片隅で、酒浸りの用心棒にまで落ちぶれていた、三十年前の「英雄の仲間」。

 


私が探し出した彼に、頭を下げ、強引に弟子入りを志願した。

 

彼は、アランの死の「真実」を知る、唯一の手がかりだったから。



「アラン様のような、民を守る『正義の剣』です!」


 私は、汗だくになりながら、訓練用の木剣を構え直し、叫んだ。

 

その構えは、騎士団の教本通り、寸分の隙もない、完璧な「型」だった。



 ガリウスは、面倒くさそうに、酒瓶をあおった。

 

彼は、あのアランの凱旋の後、ほどなくして「隻眼」になっていた。

 

その理由は、騎士団の記録にも残っていない。

 


ただ、その隻眼が、私を、値踏みするように、見つめていた。



「……正義、ね」


 彼は、吐き捨てるように、言った。



「――お前のその剣は、綺麗すぎる」


 ガキィン!


 彼が、手にした木剣を、無造作に振り下ろす。

 

私の「完璧な構え」は、いとも容易く打ち破られた。

 

木剣が、乾いた音を立てて、真っ二つに折れる。



「……!」


 私は、地面に倒れ込み、折れた木剣を、呆然と見つめた。

 

負けた?

私の、完璧な「正義」が?  

こんな、酒浸りの、落ちぶれた男に?


「……立ち上がれ」


 ガリウスは、私を見下ろしていた。

 

その隻眼には、侮蔑ではなく、深い「疲労」が浮かんでいた。



「……アランは、お前が夢見るような、『綺麗な英雄』じゃねぇ」

「……!」

「あいつは、誰よりも泥にまみれて、誰よりも血反吐ちへどを吐いて、それでも、お前ら民衆の前でだけは、『完璧な笑顔』で、嘘をつき続けた」

「……嘘……?」

「ああ、そうだ。

お前のその『正義』は、アランが、命懸けで守ろうとした『嘘』の上で、踊ってるだけだ」


 ガリウスは、私に背を向けた。



「……戦場はな、嬢ちゃん。

泥だらけだ」

「……」

「正義の型で、飯は食えねぇ。

仲間も、守れねぇ」


「正義が通らねぇ場所で、それでも、守りてぇモンのために、どれだけ泥水それすすれるか。

……それが、強さだ」


 彼は、去っていった。

 

私は、折れた木剣を握りしめたまま、動けなかった。



(……泥水……)


 私は、この日、初めて「秩序」や「正義」とは、まったく別の場所にある「強さ」の存在を、教えられた。

 

それは、あまりにも、私の信じる「美しさ」とは、かけ離れていた。



(……私は、こんなものに、なりたくない)


 だが、今。

 

生死の境を彷徨う私の脳裏に、なぜか、あの時のガリウスの言葉が、蘇る。

 

そして、重なってしまうのだ。

 


あの、泥と吐瀉物としゃぶつにまみれながら、それでも「星の御子」という「嘘」を演じ続けようとした、あの男の、震える背中と。



(……ゼフィルス……)



 なぜ、今、あの「偽物」の顔が、浮かぶんだ。

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