34.黒い奔流と、聖性の錨
「――十分だ! たった十分、あの『ゴミ』どもを足止めしろ!」
リリアンデの、悲鳴とも怒号ともつかない叫びが、崩壊寸前の観測室に響き渡る。
目の前では、バリケードとして積み上げた巨大な書架と鋼鉄の扉が、数千の『成り果て』の爪と牙によって、飴細工のようにひしゃげ、悲鳴を上げていた。
「……フン。
十分、ねぇ」
俺の隣で、蘇生したばかりの商人、バルトロメオが、黄金の歯を剥き出しにして、皮肉に笑った。
「商談にしちゃあ、随分と分の悪い時間設定だ。
あの狂人が造るモンが、俺の命より高く売れなきゃ、割に合わねぇぞ」
「……てめぇは、まだ『金』か」
コルネリウスから奪った『魔浄の短剣』を、逆手に握り直した。
左眼窩の痛みは、もうない。
アランの光が癒してくれた。
だが、その癒しこそが、俺の胸を焼いていた。
三十年前、楽にしてやったはずの親友が、あんな『光の幻影』となって、まだこの地獄に縛り付けられている。
その現実が、俺を狂わせそうになる。
(アラン……。
お前が『道を開く』って言うなら、俺は、その道にある砂利をどけるだけだ)
「金と理想、どっちがクソッタレか、ここで決めようぜ、元総長様よぉ!」
ガシャアアアアアン!!
扉が、破られた。
腐臭と、絶望の黒い津波。
理性を失い、ただ「生」を貪ることのみに特化した『成り果て』の群れが、雪崩れ込んでくる。
「――来るぞ! 死んでも、十分、稼げ!」
俺とバルトロメオ。
三十年の「罪」を背負う老兵と、死の淵から蘇った「金欲」の商人。
二人の「旧人類」は、背中合わせになり、背後で行われている理解不能な「実験」を守るため、絶望の津波へと、同時に、飛び込んだ。
◆ ◆ ◆
「――注ぎ込め! アラン!」
リリアンデの絶叫が、僕の思考(観測)を揺さぶる。
僕は、彼女に腕を掴まれ、無理やり引きずり出されていた。
目の前には、黒い呪印に全身を侵食され、獣のように床をのたうち回る青年――レオナルドがいる。
「……あ……が……っ……!」
彼の喉から漏れるのは、言葉ではない。
魂が、肉体という器を食い破ろうとする、崩壊の音だ。
『律』が壊れ、解放された魂の奔流。
それが、彼を内側から殺そうとしている。
「早くしなさい! 彼の魂が霧散する前に、あなたの『聖性』をぶち込むのよ!」
リリアンデが、僕の光の手を、強引にレオナルドの胸に押し当てようとする。
僕は、躊躇った。
僕の光の手が、微かに震えた。
(……だめだ……!)
僕の記憶の奥底で、三十年前のトラウマが、警鐘を鳴らした。
この感覚を知っている。
この、聖なる光を、無防備な魂に注ぎ込んだ時の、あの感触を。
あの時、僕は「守りたい」と願った。
だが、僕の光は、サラを焼き尽くした。
あの荒野で、エルミナもまた、その光で民を焼いた。
(やめろ……!)
僕は、手を引こうとした。
(僕は、また、過ちを繰り返す! この光は、救いじゃない! 『浄化』だ! 不純物を焼き払うだけの暴力だ! こんな不安定な状態の彼に注げば、彼は……消滅する!)
「……! ぐ、う……!」
僕が怯んだ、その一瞬の隙を、暴走するレオナルドの魂は見逃さなかった。
黒い奔流が、僕の光の腕を、逆に飲み込もうと、蛇のように這い上がってくる。
「……うわああっ!?」
接触した部分から、僕が侵食され、ノイズが走る。
「――何やってんのよ、臆病者!」
パァン!
乾いた音がした。
リリアンデが、僕の光の幻影を、その小さな掌で、思い切りひっぱたいたのだ。
実体のない僕に、物理的な痛みはない。
だが、彼女のその「意志」の熱量が、僕を射抜いた。
「あなたは『調律師』なんでしょう!? 何のために戻ってきたの!?」
彼女は、瓶底眼鏡の奥の瞳を、涙で濡らしながら、僕を睨みつけた。
「燃やすな! 制御しろ!」
「……!」
「彼は『淀み』じゃない! 『律』から解放された、ただの、剥き出しの『魂』だ! 浄化するんじゃない!」
彼女は、僕の手を、再びレオナルドの胸に、力任せに押し付けた。
「あなたは『錨』になれ! その絶対的な『聖性』の質量で、彼の魂を、この肉体という現実に、繋ぎ止めろ!」
(……錨……)
(……僕が、彼を、繋ぎ止める……?)
僕は、混乱の中で、目の前の、苦しみ悶えるレオナルドを見た。
黒い浸食の奥にある、彼本来の瞳。
そこには、恐怖があった。
王族という「役目」に縛られ、そこから解放されたと思ったら、今度は「自由」という名の怪物に飲み込まれようとしている、一人の人間の、孤独な恐怖。
(……ああ……。
そうか)
(君は、僕だったんだ)
神(律)に選ばれ、「勇者」という役目に縛られ、最後には「機構」の一部として個を消された僕。
神(律)に見放され、「自由」という奔流に飲まれ、個を拡散されようとしている君。
方向は逆でも、僕たちは同じだ。
このクソったれな世界の、犠牲者だ。
(助けなきゃ)
(勇者として、じゃない。
調律師として、でもない)
(ただ、同じ痛みを知る、友として)
「……もう、間違えない」
僕は、目を見開いた。
僕は、もう、怯えない。
僕は「アラン」の記憶を、「メフィア」の機能で、制御する。
この光は、敵を焼くためのものではない。
誰かを、守るための「重し」だ。
「――繋がれ!!」
僕は、叫んだ。
この光を、『浄化』のためではなく、ただ一点、彼をこの世界に『繋ぎ止める』ためだけに、全力で注ぎ込んだ。
「――ぐ……ううううう……!」
レオナルドの絶叫が、変わった。
苦痛の呻きが、何か、別のものへと。
彼から溢れ出していた黒い奔流が、僕の青白い光を「錨」として、その肉体の輪郭へと、急速に収束していく。
暴れ回るエネルギーが、僕の光によって、無理やり、型に嵌められていく。
黒い呪印は、消えない。
だが、それはもう、彼を蝕む「呪い」ではなかった。
彼の皮膚に、複雑で、美しい紋様として、定着していく。
ドクン。
強い、鼓動が聞こえた。
光が、収まる。
レオナルドが、ゆっくりと、目を開いた。
その瞳は、もう、獣の白濁も、王子の怯えも、なかった。
『律』の外側にある「力」と、僕の光に支えられた「理性」を併せ持つ、冷徹な、王者の瞳だった。
「……これが……私、か」
彼は、自分の手を見つめた。
震えは、止まっていた。
彼は、ゆっくりと起き上がると、傍らで腰を抜かしているリリアンデを見た。
「……リリアンデ」
「……は、はい」
「……成功、だな」
「……ええ。
……ええ! もちろんよ!」
リリアンデは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでも勝ち誇ったように笑った。
「見たことか! これが、私の『知性』よ! あなたこそが、神の『仕掛け』の外にある、最初の『新人類』……!」
だが、感傷に浸る時間はなかった。
「――どけぇッ!!」
ガリウスの怒声と共に、バリケードが決壊した。
『成り果て』の群れが、ガリウスとバルトロメオを吹き飛ばし、雪崩れ込んでくる。
「……チッ。
ここまでかよ!」
バルトロメオが、血を吐きながら毒づく。
レオナルドが、動いた。
「……下がっていろ」
彼は、僕の光を宿した右手を、群がってくる『成り果て』へと、無造作にかざした。
「――跪け」
彼の口から放たれたのは、魔法の詠唱ではなかった。
ただの「命令」だった。
だが、その言葉には、絶対的な「支配」の響きがあった。
ズドン!!
見えない重力が、空間そのものを押し潰した。
先頭にいた数十体の『成り果て』が、一瞬にして、床に叩きつけられ、その身を破裂させた。
浄化ではない。
圧倒的な「力」による、圧殺。
「……な……」
ガリウスが、目を見張る。
レオナルドは、冷ややかな目で、その惨状を見下ろした。
「……汚らわしい。
私の『国』に、土足で踏み入るな」
状況は、一変した。
新たな「王」の誕生に、観測室の空気は、熱狂と戦慄に包まれた。
だが。
不意に、風が吹いた。
閉め切った地下室に、吹くはずのない、冷たい風が。
レオナルドの圧倒的な力に怯んでいた『成り果て』たちが、今度は、別の「何か」に怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し始めた。
「……なんだ?」
レオナルドが、眉をひそめる。
僕の観測機能が、最大級の「警報」を鳴らした。
『淀み』ではない。
『聖性』でもない。
それよりも、もっと、古く、冷たく、絶対的な「無」の気配。
空間が、軋んだ。
部屋の中心、何もない空間が、黒く、歪み始めた。
まるで、夜空そのものが、この狭い観測室に、無理やり、染み出してきたかのように。
その「歪み」の奥から、三つの人影が、音もなく、滑り出てきた。
それを見た瞬間、僕の記憶が、三十年前の絶望と共に、凍りついた。
(……まさか……)
一人は、夜空を裁断したようなドレスを纏った、妖艶な魔女。
魔王軍四天王、〝深謀〟のリチェルカ。
一人は、恐怖に顔を引きつらせた、ゼフィルス。
その手には、あの『星の円盤(律の鍵)』が、握られている。
そして、最後の一人。
リチェルカの傍らに、まるで人形のように、拘束されていた女性。
「……シルヴィア……!?」
ガリウスの、絶望的な声が響いた。
シルヴィア・ブレイズ。
リチェルカの魔術で、仮初めの命を繋がれている。
「……ごきげんよう、人間たち」
リチェルカの声は、鈴の音のように美しく、そして、絶対零度の冷たさを秘めていた。
彼女は、覚醒したばかりのレオナルドを一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……間に合ったわね。
……『律』は、乱れ、世界は『崩壊』を始めた。
……そして、愚かなる人間は、禁断の『進化』に、手を染めた」
役者が、揃った。
だが、それは希望の始まりではなく、更なる混沌の幕開けだった。




