32.老兵の刃と、天才の涙
「……あはは……」
乾いた笑いが、私の喉から漏れた。
袋小路。
背後には、薬品の匂いから回復した『成り果て』の群れ。
そして、目の前には、地下書庫の扉をこじ開けて現れた、聖騎士団の鎧を皮膚のように融合させた、異常進化個体。
「……リリアンデ!」
血を流す左肩を押さえながら、レオナルドが私を庇うように前に出た。
その剣先は、恐怖で震えている。
「……貴様は、下がっていろ。
……王族の、最後の務めだ」
「あら、感心ね。
王子様」
私は、壁に背を預けたまま、この絶望的な盤面を「観測」していた。
(……ダメだ。
詰んでる。
あの進化個体の筋繊維、聖騎士団の死骸を取り込んで、異常発達している。
レオナルドの剣じゃ、断ち切れない)
「ギギ……ギルルルルル……」
進化個体が、私とレオナルドという新鮮な「餌」を認め、その顎を、ゆっくりと、裂いた。
死が、来る。
セルゲイの犠牲も、私の「知性」も、すべて、ここで、終わる。
その、瞬間。
「――チッ。
どいつもこいつも、化け物になりやがって」
錆びついた、鉄が擦れるような、低い声。
私とレオナルドの、横手。
誰もいなかったはずの、書庫の暗闇から、一つの影が、滑り出てきた。
「……!?」
隻眼の、老兵。
三十年前の亡霊。
ガリウス・ヴァンドール。
彼は、私たちが認識するよりも早く、動いていた。
その踏み込みは、老いなど微塵も感じさせない、獣の瞬発力。
彼が手にしていたのは、聖剣の「欠片」が埋め込まれていた左眼窩を犠牲にして、コルネリウスから奪ったのであろう、あの禍々しい『魔浄の短剣』だった。
「――アランの呪い(コレ)が、お前らに効かねぇ訳、ねぇよなぁ!」
ガリウスは、進化個体の、鋼鉄と化した皮膚を、まるでバターでも切るかのように、その短剣で、深々と切り裂いた。
「ギイイイイイイアアアア!?」
化け物が、あり得ない、という顔で、自らの傷口を見下ろす。
『魔浄の短剣』が吸い上げた『律』の力が、化け物の肉体を、内側から、青白く焼き切っていく。
「リリアンデ! レオナルド王子!」
ガリウスは、化け物を蹴り飛ばしながら、私たちに向かって吼えた。
「まだ生きてやがったか! さっさと、この奥に入るぞ!」
ガリウスは、私たちが開けられなかった地下書庫の扉――その奥にある、隠し通路の存在を、知っていた。
「ガリウス! なぜ、あなたがここに!」
「話は後だ! 来るぞ!」
背後から、『成り果て』の群れが、一斉に、私たちに飛びかかってきた。
◆ ◆ ◆
「……ハァ……ハァ……。
クソッ、王都中が、地獄だ」
王立アカデミーの最奥、私が万が一のために用意していた、鋼鉄の扉で閉ざされた「観測準備室」。
私たちは、そこに、なんとか転がり込んでいた。
ガリウスは、扉に巨大な書架を押し当ててバリケードを築くと、その場に、荒い息をつきながら、座り込んだ。
彼の左眼窩は、焼け焦げた炭のように、黒く抉れていた。
「……ガリウス、コルネリウスは?」
レオナルドが、血を流す肩を押さえながら、尋ねた。
「……仕留め損ねた」
ガリウスは、吐き捨てるように言った。
「あのジジイ……俺が『律』の心臓部を壊したせいで、王都に溢れた『淀み』の力を利用して、地下の闇に消えやがった。
……『調律師が歪みを正す』、だと。
ふざけやがって」
ガリウスは、自らの、血に濡れた拳を、床に叩きつけた。
「……全部、俺のせいだ」
彼の声が、震えていた。
「俺が……アラン(あいつ)の呪いを終わらせたくて、『律』を破壊したから……。
俺が、この王都に、『成り果て』の地獄を、解き放っちまったんだ……!」
三十年前の英雄が、三十年分の罪を背負い、今、目の前で、壊れかけていた。
だが、私の興味は、ガリウスの「罪」にはなかった。
私は、部屋の隅で、荒い息をついている、別の「サンプル」を、観察していた。
「……う……ぁ……」
レオナルドだった。
彼が押さえている左肩の傷口。
『成り果て』の爪で抉られたそこから、黒い血管が、まるで呪いのように、彼の首筋に向かって、這い上がってきていた。
「……レオナルド……貴様、まさか……」
ガリウスも、それに気づき、息を呑む。
魂魄病。
感染したのだ。
「……ああ……。
どうやら、ここまで、みたいだ……」
レオナルドは、自嘲するように笑った。
「……リリアンデ……。
お前の、その忌々しい『脳』が、世界を救うところを、見届けたかったがな……」
「……殿下……」
「やめろ。
そんな顔をするな。
……ガリウス。
俺が、完全に『アレ』になる前に、その短剣で、俺の首を……」
ガリウスが、苦渋の表情で、短剣を握りしめる。
王子が、感染した。
この国は、もう、終わりだ。
誰もが、絶望に、沈黙した。
その、瞬間。
「――いや」
か細い、私の声だった。
二人が、私を見る。
「……いやだ……いやよ!」
私は、ガリウスの、短剣を握るその太い腕に、なりふり構わず、掴みかかっていた。
「リリアンデ!? 貴様、何を……!」
「いや! いやいやいや! 死なせない!」
自分でも、何を叫んでいるのか、分からなかった。
「私のサンプルが! 私の知性が! セルゲイの犠牲が! 全部、全部、無駄になるじゃない!」
分厚い瓶底眼鏡の奥から、熱いものが、こみ上げてくる。
三十年間、一度も、流したことのない「非合理的」なものが。
大粒の涙が、堰を切ったように、溢れ出した。
「……な……小娘、お前、泣いて……?」
ガリウスが、人生で最も信じられないものを見たかのように、狼狽えている。
「うるさい! うるさい! 私は天才なのよ!」
私は、子供のように、わめいていた。
「この世界の謎を解くまでは、死んでなんかやらない! あなた(レオナルド)も死なせない! 私の目の前で、勝手に、満足した顔して、死なせない!」
(もう、嫌だ)
(私の「知性」は、いつも、間に合わない)
(いつも、大事なもの(サンプル)が、私の手から、こぼれ落ちていく)
レオナルドが、まだ理性が残っている右腕で、わめき散らす私の頭を、引き寄せた。
「……ああ……。
本当に、うるさい、女だ……」
彼は、私を、優しく、抱きしめた。
肩口から、彼の、血の匂いがした。
「……だが……。
ありがとう、リリアンデ」
彼の声が、私の頭の上で、震えている。
「……最後に、お前の、そんな『人間』みたいな顔が見られて……よかった……」
その、温かさが。
その、私には、到底理解できない「優しさ」が。
私の狂的な思考を、一瞬、停止させた。
私は、彼の腕の中で、凍りついた。
涙で濡れた私の頬に、彼の肩の、あの黒い呪印が、触れていた。
(……熱い……?)
違う。
これは、ただの「熱」じゃない。
これは……!
私は、彼の胸から顔を上げ、その黒く変色していく傷口を、至近距離で「観測」した。
「……ああ……! この、魂の、脈動……!」
レオナルドの体内から、彼の「理性」が失われていくのと反比例するように、凄まじい「力」が、溢れ出してきている 。
「……そうか……。
そうだったのね……!」
私は、気づいた 。
涙は、一瞬で、蒸発していた。
「『成り果て』化は、呪いじゃない! コルネリウスの、あの忌まわしい『律』という名の『枷』! あれが、ガリウスによって破壊されたことで、人間の魂が、本来の『あるべき姿』に、戻ろうとしているんだわ!」
「何を、言って……」
「でも、人間の、その脆い肉体が、解放された強大すぎる魂の奔流に、耐えきれない! だから、壊れて、暴走する! ……これが、『成り果て』の正体!」
私は、さっきまでの涙が嘘のように、立ち上がった。
私は、唖然とするレオナルドを見下ろし、狂喜に、打ち震えた。
「――これは呪いではない!」
私は、ガリウスに向かって、叫んだ。
「これは、『律』から解き放たれた、魂の『進化』の可能性だ!」
私の目の前には、絶望する老兵と、神の『仕掛け』の外側にある、未知の「新人類」へと変貌していく、最高の「研究対象」が、揃っていた 。




