31.知性の檻と、血の匂い
「……リリアンデ!」
レオナルドの絶叫が、鼓膜を突き刺した。
視界の端で、腐臭を撒き散らす『成り果て』の爪が、スローモーションのように、私の喉元に迫る。
(……ああ、ここまでか)
私が三十年ぶりに起動させた、古代のゴーレム「アダム」。
コルネリウスの『律』に縛られた聖騎士団は完璧に「敵」と認識し、粉砕した。
だが、『律』そのものが崩壊した今、その外側から溢れ出したこの「成り果て」は、アダムの命令には、存在しない。
私の「知性」の最高傑作は、目の前の「汚物」を認識できず、ただ、カタカタと紫電の目を明滅させている。
(……セルゲイ……ごめんなさい。
……)
死を覚悟した、その瞬間。
ドン、という重い衝撃。
私は、床に突き飛ばされていた。
「――がっ……あああああっ!!」
レオナルドだった。
彼は、私を突き飛ばし、身代わりになっていた。
『成り果て』の、鉤爪のような五指が、彼の左肩の肉を、鎧ごと、深く、抉り取っていた。
「……レオナルド……!」
「……ぐ……っ! 馬鹿が……! ぼさっと、するな……!」
レオナルドは、激痛に顔を歪めながらも、右手の剣で『成り果て』の胴体を貫き、蹴り飛ばした。
だが、一体倒しても、意味はなかった。
割れた窓から、廊下から、次々と『成り果て』が、血の匂いに惹かれて、この研究室になだれ込んでくる。
「……フフ……」
私は、床に尻餅をついたまま、笑い出した。
「……フフフ、アハハハハ! 最高じゃない!」
「リリアンデ!? 貴様、正気か!」
レオナルドが、血を流す肩を押さえ、私を睨む。
「正気よ! 当たり前じゃない!」
私は、狂的な速度で立ち上がった。
脳が、灼けるように回転する。
アドレナリンが、全身の神経を駆け巡る。
「……見てよ、殿下! あの『成り果て』の動き! 単純すぎる! 獲物への直線的な突進と、捕食! そこに『律』も、『戦略』も、何もない!」
「だから、何だ!」
「だから、『アダム』には認識できないのよ!」
私は、立ち尽くすゴーレムの、冷たい鉄の脚を、拳で殴りつけた。
「この子は、『律』という名の『檻』の中でしか、戦えないように設計されていた! この世界の『ルール』を破る者を罰するためだけに! ……なんて、非効率! なんて、美しい欠陥なの!」
セルゲイが、命を懸けて遺した『脈動コア』の力は、コルネリウスの『律』をハッキングするためのもの。
『律』そのものが消えた今、この「アダム」は、ただの鉄クズだ。
「……クソッ、キリがない……!」
レオナルドが、二体目の『成り果て』を斬り伏せるが、彼の左腕はもう、だらりと垂れ下がっている。
『成り果て』の群れが、彼と私を、扇状に包囲し始めた。
(……ここまでか)
(いや)
(まだだ)
「殿下!」
私は、研究室の、奥の棚に向かって走った。
「……私が、死体を解剖していた、あの棚よ!」
「はあ!?」
「ホルマリン! 高濃度の劇薬よ! あれを、奴らの『目』に、ぶちまける!」
私は、標本が浮かぶ巨大なガラス瓶を、数本、掴み取った。
「私が、道を作る! あなたは、その『脳』だけは、絶対に死なせないと、私に誓いなさい!」
「……リリアンデ……!」
レオナルドの目が、初めて、私を「狂気の天才」としてではなく、「共犯者」として、捉えた。
「……ああ、誓おう! お前のその、忌々しい『脳』が、この世界を救うと、俺が、この目で見届けてやる!」
「――上等!!」
私は、ガラス瓶を、迫り来る『成り果て』の群れの、ど真ん中へと、叩きつけた!
ガシャアアアンッ!
ガラスが砕け、ツンとした、強烈な刺激臭が、部屋に充満する。
「「ギイイイイイイイアアアアア!?」」
『成り果て』の、腐敗した感覚器が、高濃度の薬品に焼かれ、一斉に、苦悶の声を上げた。
視界を奪われた化け物たちが、その場で、のたうち回る。
「――今よ! 走れ、レオナルド!」
「おおっ!」
私とレオナルドは、薬品の煙幕を突き抜け、廊下へと飛び出した。
背後では、命令失った「アダム」が、ただ、立ち尽くしている。
だが、廊下に出た私たちを待っていたのは、さらなる絶望だった。
アカデミーが、地獄になっていた。
窓から見える王都のあちこちから、黒い煙が上がり、大聖堂の地下でコルネリウスが予言した、魂魄病のパンデミックが、現実のものとなっていた。
廊下は、逃げ遅れた学生と、彼らを貪る『成り果て』の、血と肉片で、埋め尽くされていた。
「……ひ……」
レオナルドが、息を呑む。
「……泣いてる暇はないわよ」
私は、彼の腕を引いた。
「行くわよ! あの地下書庫へ! あそこなら、隠し通路がある! 王宮へ戻れる!」
私たちは、血の海を、滑らないように、必死に走った。
地下書庫へと続く、あの重厚な、樫の扉。
ゴールは、目前だった。
だが、その扉は、開かなかった。
開かないどころか、内側から、何かが、ぶ厚い鉄板のように、塞がっていた。
「……嘘……」
私の声が、震えた。
扉が、ゆっくりと、動いた。
メキメキ、という、嫌な音を立てて。
扉を、こじ開けて、現れたのは。
「……聖騎士団の……残骸……?」
レオナルドが、絶望的な声を上げた。
それは、一体の『成り果て』だった。
だが、その体躯は、通常の三倍にも膨れ上がり、その皮膚には、私たちが「アダム」で破壊した、聖騎士団の、砕けた鎧の破片が、まるで鱗のように、融合していた。
それは、死骸を取り込み、異常進化した、このアカデミーの「王」だった。
「……ギ……ルルルル……」
化け物は、私とレオナルドという、新鮮な「餌」を認め、その顎を、ゆっくりと、裂いた。
背後の廊下からは、薬品の匂いから回復した『成り果て』の群れが、迫ってきていた。
「……は……」
私は、壁に、背中を押し付けられた。
「……あはは……」
乾いた笑いが、漏れた。
「……私の『脳』が……行き止まりに、なるなんて……!」
狂気の天才と、片腕を失った王子。
二人は、前後に「死」を挟まれ、絶望的な袋小路に、追い詰められた。




