3.どんな亡霊がその肩に乗っているか
弔いの鐘が鳴り響いた三日後、最初の地獄はガリウスの村から始まった。
それは、夕餉の支度をする母親の、甲高い悲鳴が始まりだった。
駆けつけた者が見たのは、床に倒れる女の体から、夫であった男が、まるで獣のようにその生肉を貪る姿。
男の瞳は乳白色に濁り、口からは涎と血が混じった泡を吹いていた。
魂魄病――『成り果て』の出現だった。
「――来るなッ!」
ガリウスの絶叫が響く。
だが、警告は遅すぎた。
一人が『成り果て』となれば、その絶望と恐怖は、ねずみ算式に伝染していく。
隣人が隣人を襲い、親が子を喰らう。
平和な村は、わずか一時間で阿鼻叫喚の地獄絵図へと塗り替えられた。
「総員、武器を取れ! 女子供は中央の広場へ! 躊躇うな、奴らの狙いは喉笛だけだと思え!」
ガリウスは古びた長剣を抜き放つと、獣のような咆哮を上げた。
彼の動きは、若者たちとは全く異質だった。
一歩踏み込む。
剣を振るう。
血飛沫が上がる。
その全ての動作に一切の無駄がなく、まるで精密な機械のように、一体、また一体と成り果てを斬り伏せていく。
だが、数が多すぎる。
なにより、敵は昨日まで笑い合っていた隣人なのだ。
「父さん! しっかりしてくれ、父さん!」
若者リオが、成り果てと化した父親を前に、剣を構えたまま動けずにいた。
父親だったものは、理性の欠片もない唸り声を上げ、息子の喉笛に喰らいつこうと飛びかかる。
死が、すぐそこまで迫る。
――ガンッ!
横合いから閃いた銀光が、父親だったものの首を刎ね飛ばした。
返り血を浴びたガリウスが、感情のない声でリオに告げる。
「そいつはもう、お前の親父じゃねぇ。ただの病に食われた抜け殻だ。斬れねぇなら、お前が食われるだけだぞ」
「……あ……あ……」
腰を抜かし、へたり込むリオ。
その目の前で、愛する者が変貌し、そして斬り捨てられる。
あまりにも残酷な現実。
地獄だ。
ガリウスの脳裏に、三十年前の光景が焼き付くように蘇る。
(またか……。また、この地獄を繰り返すのか……!)
眼帯の下の古傷が、焼けるように痛む。
(違う……! 断ち切ると、俺は決めたはずだ!)
「リオ! 立て!」
ガリウスは叫ぶ。
「お前の父親は、お前に生きてほしかったはずだ! その想いを犬死で汚す気か!」
その声に、リオはハッと顔を上げた。
その瞳に、涙と共に、小さな決意の火が灯る。
だが、戦況は絶望的だった。
守るべきはずの村人までもが、次々と魂魄病に倒れ、敵となって牙を剥く。
「じいさん! 西からも来るぞ!」
「クソッ、囲まれたか……!」
もはや、これまでか。誰もが死を覚悟した、その時だった。
◆ ◆ ◆
「――ったく、ツイてねぇにも程があるぜ!」
同じ頃、詐欺師ゼフィルスは、とある村の安酒場で、博打のイカサマがバレて袋叩きに遭う寸前だった。
彼が今まさに、有り金すべてを巻き上げようとしていたカモは、運悪くもこの辺りを仕切るゴロツキの親玉だったのだ。
「おい、どう落とし前つけてくれるんだ、この優男が。皮一枚残らず剥いで、塩漬けにしてやろうか?」
「待った待った! そう殺気立たないでくれよ、旦那衆。俺はただ、あんたたちの退屈な夜に、ちょっとしたスリルを提供したかっただけじゃないか」
ゼフィルスは絶体絶命の状況でも、その口だけは滑らかに回った。
その時だ。酒場の扉が勢いよく開き、血相を変えた村人が転がり込んできた。
「た、大変だ! 『成り果て』だ! 村の西から、化け物の群れが!」
その一言で、酒場の空気は凍りついた。
ゼフィルスを囲んでいたゴロツキたちの顔からも、血の気が引いていく。
好機。
ゼフィルスは、誰もが呆然とするその一瞬の隙を突き、テーブルを蹴り倒して窓から飛び出した。
「じゃあな、諸君! 達者で喰われろよ!」
彼は全速力で村を駆け抜ける。
背後から聞こえる悲鳴や絶叫など、知ったことか。
生き残るのは、いつだって要領のいい奴だけだ。
だが、彼の幸運もそこまでだった。
村の出口へと続く道は、すでに成り果ての群れによって塞がれていたのだ。
「げっ……マジかよ……!」
進むも地獄、戻るも地獄。
追い詰められたゼフィルスは、背負っていた荷袋をがさごそと漁った。
中身は、これまでに騙し取ってきたガラクタばかり。
その中の一つ、骨董市でくすねた奇妙な円盤が、彼の手の中でなぜか、ジーンと微かな熱を帯びていた。
「なんだ、こりゃ?」
円盤には、複雑な星の模様が刻まれている 。
彼がそれを握りしめた瞬間、背後から一体の成り果てが飛びかかってきた。
「うおっ!」
咄嗟に円盤を盾のように構える。
その刹那――
キィィィィィィィンッ!!
円盤から、甲高い不協和音が迸った。
それは、空間そのものを震わせるような、冒涜的な音波だった。
すると、信じられないことが起きた。
ゼフィルスに襲いかかろうとしていた成り果てが、まるで脳髄を直接かき混ぜられたかのように頭を抱え、苦しみ出したのだ 。
「グ……ガ……アアアアアッ!」
一体だけではない。
周囲にいた成り果てたちが、次々とその場に蹲り、のたうち回る。
何が起きているのか、ゼフィルス自身にも分からなかった。
だが、好機であることだけは確かだった。
「な、なんだか知らねぇが……サンキュー、ガラクタ!」
その隙を突いて、生き残っていた村人たちが、鍬や棍棒を手に反撃に転じる。
為す術もなく蹂躙されるだけだった状況は、一変した。
やがて、成り果ての群れは恐れをなしたように、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
静寂が戻った村の中央で、ゼフィルスは呆然と立ち尽くしていた。
生き残った村人たちが、恐る恐る、そしてやがて、熱に浮かされたような瞳で彼に近づいてくる。
「……あ、あなたは……」
「今のは……一体、どんな御力で……?」
村人たちの視線は、ゼフィルスが持つ星の円盤と、戦闘で破れた服の隙間から覗く、彼の背中のアザに注がれていた。
それは、生まれつきの、奇妙な星形の痣だった 。
「星の……御印……」
誰かが、震える声で呟いた。
「まさか……勇者様が生まれなかったこの時代に、神がお遣わしになった……」
「星の御子様だ!」
次の瞬間、村人たちは一斉にその場にひれ伏した。
ゼフィルスは、目の前の光景が理解できなかった。
(は? 星の御子? 俺が?)
彼はただ、パニックで偶然ガラクタを握りしめていただけの、ただの詐欺師だ。
だが、彼はすぐに状況を理解した。
自分に向けられる、生まれて初めての、尊敬と、感謝と、そして狂信の眼差し。
それは、どんな宝石よりも、どんな女の肌よりも、甘美な響きを持っていた。
ゼフィルスは、ゆっくりと、実に芝居がかった仕草で、星の円盤を天に掲げた。
「……案ずるな、子羊たちよ。星の導きは、汝らと共にある」
口から出まかせを並べながら、彼の頭脳は猛烈な速度で回転していた。
(これは、使える。……いや、使えるどころじゃねぇ。人生最大の大博打だ!)
◆ ◆ ◆
「――報告。北方の辺境、名もなき村にて、『星の御子』を名乗る男が出現。古代の遺物を用い、成り果ての群れを退けた、と」
王都の大聖堂。大司教コルネリウスは、側近からの報告を、表情一つ変えずに聞いていた。
「……ほう。星の御子、か。面白い」
「猊下、これは……!」
「神の奇跡だとでも言いたいか? 馬鹿を言え」
コルネリウスは、窓から見える、星の消えた夜空を眺めた。
「『律』が乱れれば、世界のあちこちで、古き『仕掛け』が誤作動を起こすこともあるだろう。これはその一つに過ぎん」
彼は、指先で駒を弄ぶように、聖印を刻んだ指輪をくるりと回した。
「だが、民衆は奇跡を欲している。勇者という光を失った今、どんな小さな灯火にでも、彼らは喜んで飛びつくだろう」
その口元に、氷のような笑みが浮かぶ。
「その男、使えるな。すぐに王都へ招聘しろ。『偽りの希望』として、丁重にな」




