表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/33

3.どんな亡霊がその肩に乗っているか

弔いの鐘が鳴り響いた三日後、最初の地獄はガリウスの村から始まった。


それは、夕餉の支度をする母親の、甲高い悲鳴が始まりだった。

駆けつけた者が見たのは、床に倒れる女の体から、夫であった男が、まるで獣のようにその生肉を貪る姿。

男の瞳は乳白色に濁り、口からは涎と血が混じった泡を吹いていた。


魂魄病――『成り果て』の出現だった。


「――来るなッ!」


ガリウスの絶叫が響く。

だが、警告は遅すぎた。

一人が『成り果て』となれば、その絶望と恐怖は、ねずみ算式に伝染していく。

隣人が隣人を襲い、親が子を喰らう。

平和な村は、わずか一時間で阿鼻叫喚の地獄絵図へと塗り替えられた。


「総員、武器を取れ! 女子供は中央の広場へ! 躊躇うな、奴らの狙いは喉笛だけだと思え!」


ガリウスは古びた長剣を抜き放つと、獣のような咆哮を上げた。

彼の動きは、若者たちとは全く異質だった。

一歩踏み込む。

剣を振るう。

血飛沫が上がる。

その全ての動作に一切の無駄がなく、まるで精密な機械のように、一体、また一体と成り果てを斬り伏せていく。


だが、数が多すぎる。

なにより、敵は昨日まで笑い合っていた隣人なのだ。


「父さん! しっかりしてくれ、父さん!」


若者リオが、成り果てと化した父親を前に、剣を構えたまま動けずにいた。

父親だったものは、理性の欠片もない唸り声を上げ、息子の喉笛に喰らいつこうと飛びかかる。

死が、すぐそこまで迫る。


 ――ガンッ!


横合いから閃いた銀光が、父親だったものの首を刎ね飛ばした。

返り血を浴びたガリウスが、感情のない声でリオに告げる。


「そいつはもう、お前の親父じゃねぇ。ただの病に食われた抜け殻だ。斬れねぇなら、お前が食われるだけだぞ」

「……あ……あ……」


腰を抜かし、へたり込むリオ。

その目の前で、愛する者が変貌し、そして斬り捨てられる。

あまりにも残酷な現実。


地獄だ。

ガリウスの脳裏に、三十年前の光景が焼き付くように蘇る。


(またか……。また、この地獄を繰り返すのか……!)


眼帯の下の古傷が、焼けるように痛む。


(違う……! 断ち切ると、俺は決めたはずだ!)


「リオ! 立て!」


ガリウスは叫ぶ。


「お前の父親は、お前に生きてほしかったはずだ! その想いを犬死で汚す気か!」


その声に、リオはハッと顔を上げた。

その瞳に、涙と共に、小さな決意の火が灯る。

だが、戦況は絶望的だった。

守るべきはずの村人までもが、次々と魂魄病に倒れ、敵となって牙を剥く。


「じいさん! 西からも来るぞ!」

「クソッ、囲まれたか……!」


もはや、これまでか。誰もが死を覚悟した、その時だった。


◆ ◆ ◆


「――ったく、ツイてねぇにも程があるぜ!」


同じ頃、詐欺師ゼフィルスは、とある村の安酒場で、博打のイカサマがバレて袋叩きに遭う寸前だった。

彼が今まさに、有り金すべてを巻き上げようとしていたカモは、運悪くもこの辺りを仕切るゴロツキの親玉だったのだ。


「おい、どう落とし前つけてくれるんだ、この優男が。皮一枚残らず剥いで、塩漬けにしてやろうか?」

「待った待った! そう殺気立たないでくれよ、旦那衆。俺はただ、あんたたちの退屈な夜に、ちょっとしたスリルを提供したかっただけじゃないか」


ゼフィルスは絶体絶命の状況でも、その口だけは滑らかに回った。

その時だ。酒場の扉が勢いよく開き、血相を変えた村人が転がり込んできた。


「た、大変だ! 『成り果て』だ! 村の西から、化け物の群れが!」


その一言で、酒場の空気は凍りついた。

ゼフィルスを囲んでいたゴロツキたちの顔からも、血の気が引いていく。


好機。

ゼフィルスは、誰もが呆然とするその一瞬の隙を突き、テーブルを蹴り倒して窓から飛び出した。


「じゃあな、諸君! 達者で喰われろよ!」


彼は全速力で村を駆け抜ける。

背後から聞こえる悲鳴や絶叫など、知ったことか。

生き残るのは、いつだって要領のいい奴だけだ。

だが、彼の幸運もそこまでだった。

村の出口へと続く道は、すでに成り果ての群れによって塞がれていたのだ。


「げっ……マジかよ……!」


進むも地獄、戻るも地獄。

追い詰められたゼフィルスは、背負っていた荷袋をがさごそと漁った。

中身は、これまでに騙し取ってきたガラクタばかり。

その中の一つ、骨董市でくすねた奇妙な円盤が、彼の手の中でなぜか、ジーンと微かな熱を帯びていた。


「なんだ、こりゃ?」


円盤には、複雑な星の模様が刻まれている 。

彼がそれを握りしめた瞬間、背後から一体の成り果てが飛びかかってきた。


「うおっ!」


咄嗟に円盤を盾のように構える。

その刹那――


 キィィィィィィィンッ!!


円盤から、甲高い不協和音が迸った。

それは、空間そのものを震わせるような、冒涜的な音波だった。

すると、信じられないことが起きた。

ゼフィルスに襲いかかろうとしていた成り果てが、まるで脳髄を直接かき混ぜられたかのように頭を抱え、苦しみ出したのだ 。


「グ……ガ……アアアアアッ!」


一体だけではない。

周囲にいた成り果てたちが、次々とその場に蹲り、のたうち回る。

何が起きているのか、ゼフィルス自身にも分からなかった。

だが、好機であることだけは確かだった。


「な、なんだか知らねぇが……サンキュー、ガラクタ!」


その隙を突いて、生き残っていた村人たちが、鍬や棍棒を手に反撃に転じる。

為す術もなく蹂躙されるだけだった状況は、一変した。

やがて、成り果ての群れは恐れをなしたように、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


静寂が戻った村の中央で、ゼフィルスは呆然と立ち尽くしていた。

生き残った村人たちが、恐る恐る、そしてやがて、熱に浮かされたような瞳で彼に近づいてくる。


「……あ、あなたは……」

「今のは……一体、どんな御力で……?」


村人たちの視線は、ゼフィルスが持つ星の円盤と、戦闘で破れた服の隙間から覗く、彼の背中のアザに注がれていた。

それは、生まれつきの、奇妙な星形の痣だった 。


「星の……御印……」


誰かが、震える声で呟いた。


「まさか……勇者様が生まれなかったこの時代に、神がお遣わしになった……」

「星の御子様だ!」


次の瞬間、村人たちは一斉にその場にひれ伏した。

ゼフィルスは、目の前の光景が理解できなかった。


(は? 星の御子? 俺が?)


彼はただ、パニックで偶然ガラクタを握りしめていただけの、ただの詐欺師だ。


だが、彼はすぐに状況を理解した。

自分に向けられる、生まれて初めての、尊敬と、感謝と、そして狂信の眼差し。

それは、どんな宝石よりも、どんな女の肌よりも、甘美な響きを持っていた。

ゼフィルスは、ゆっくりと、実に芝居がかった仕草で、星の円盤を天に掲げた。


「……案ずるな、子羊たちよ。星の導きは、汝らと共にある」


口から出まかせを並べながら、彼の頭脳は猛烈な速度で回転していた。


(これは、使える。……いや、使えるどころじゃねぇ。人生最大の大博打だ!)


◆ ◆ ◆


「――報告。北方の辺境、名もなき村にて、『星の御子』を名乗る男が出現。古代の遺物を用い、成り果ての群れを退けた、と」


王都の大聖堂。大司教コルネリウスは、側近からの報告を、表情一つ変えずに聞いていた。


「……ほう。星の御子、か。面白い」

「猊下、これは……!」

「神の奇跡だとでも言いたいか? 馬鹿を言え」


コルネリウスは、窓から見える、星の消えた夜空を眺めた。


「『律』が乱れれば、世界のあちこちで、古き『仕掛け』が誤作動を起こすこともあるだろう。これはその一つに過ぎん」


彼は、指先で駒を弄ぶように、聖印を刻んだ指輪をくるりと回した。


「だが、民衆は奇跡を欲している。勇者という光を失った今、どんな小さな灯火にでも、彼らは喜んで飛びつくだろう」


その口元に、氷のような笑みが浮かぶ。


「その男、使えるな。すぐに王都へ招聘しろ。『偽りの希望』として、丁重にな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ