27.君と、共にいられないのなら
僕は、歩いていた。
もはや走る必要もなかった。
僕が歩む、その一歩一歩が、戦場の「理」そのものだったからだ。
僕の左からは、ガリウスの血の匂いがした。
僕の聖剣からは、サラの魂が燃える匂いがした。
そして、僕の正面からは、この世界すべての「死」の匂いがした。
魔王軍本隊。
それは、もはや「軍」と呼べるものではなかった。
地平線を埋め尽くす、黒い津波。
セリスが必死に組み上げた防衛線は、その津波の前では、砂の城のように、あまりにも脆く、無力だった。
「――アラン様!」
セリスが、血塗れで僕に叫んだ。
彼女の氷の仮面は、とうに砕け散っていた。
その顔は、絶望と、疲労と、そして、僕の「異様さ」に対する、純粋な恐怖に歪んでいた。
「ガリウスは!? あなた、まさか……!」
「……」
僕は答えなかった。
ガリウスは生きている。
僕は、彼を殺してはいない。
ただ、彼が僕にくれた「友情」を、僕の聖剣で、切り裂いただけだ。
(もう、関係ない)
(セリス。
君も、下がっていてくれ)
(ここからは、僕と、この『聖剣』の、仕事だ)
僕は、彼女の横を、まるで親しい隣人に会釈でもするかのように、静かに通り過ぎた。
「待ちなさい、アラン! あなたは……!」
彼女の制止は、僕の背中には届かない。
僕は、黒い津波の、その最前線に立った。
聖剣を、ゆっくりと、構える。
僕の命が、サラの魂が、そして、僕が斬り捨てたガリウスの血が、聖剣の中で、静かに、燃え上がる。
(……ああ。
そうだ。
これで、終わらせよう)
(僕の、すべてを、この一撃に)
僕は、光を、放とうとした。
この戦場すべてを、魔王軍ごと、白く、白く、塗りつぶすために。
「――待っていましたよ、アラン様!!」
その声は、戦場には不釣り合いな、狂信的な「歓喜」に満ちていた。
セリスの防衛線の、その中心。
ヴァルド・エルディアが、そこにいた。
彼は、あの『星読みの祭壇』から持ち出した、青白い鉱石を、無数に地面に突き立て、巨大な「陣」を描いていた。
それは、僕が知る、どの魔術とも違う、冒涜的な「機構」だった。
「ヴァルド! あなた、何を!」
セリスが、その異常な光景に気づき、絶叫する。
「『観測』は終わったのです、セリス殿!」
ヴァルドは、血走った目で、僕を見つめた。
「この世界の『律』は、もはや限界だ! 魔王を倒したところで、淀みは浄化しきれない! すぐに第二、第三の魔王が生まれる!」
「何を、言って……」
「だから、『リセット』するのです! この『機構』を、神の領域へと『直結』させる!」
ヴァルドは、両手を広げ、自らが築いた陣の中心で、恍惚と叫んだ。
「そして、その『直結』を成すための、最後の『鍵』! それが、あなただ、アラン・フォン・シルヴァード!」
ヴァルドの陣が、僕の聖剣と、共鳴した。
僕の体が、意志とは無関係に、彼が描いた陣の中心へと、引きずられていく。
(……なんだ、これは……)
(聖剣が、僕の制御を、離れて……)
「あなたの魂は、あまりにも純粋だ!」
ヴァルドは、まるで恋人に愛を告げるかのように、僕に語りかけた。
「サラ嬢の魂を喰らい、ガリウス殿の血を吸い、あなたは、今、神の『器』として、完璧に『調律』された!」
「やめろ……!」
「無駄です! あなたは『機構』の一部となるのです! あなたのその苦しみも、悲しみも、罪悪感も、すべてが、この世界を救うための、最も純粋な『エネルギーの核』となるのだから!」
僕の意識が、遠のいていく。
ヴァルドの「機構」が、僕の魂を聖剣ごと吸い上げ、僕という「人間」を、この世界を維持するための「エネルギーの核」へと、作り変えようとしていた。
(……ああ……)
(僕は……もう……人じゃ、ないのか……)
光に包まれ、僕の意識が、完全に「機構」に飲み込まれようとした、その瞬間。
ドン、という、重い衝撃。
僕の前に、誰かが、割り込んだ。
僕を、突き飛ばすように。
僕と、ヴァルドの「機構」の間に、その身を、投げ出すように。
「……セリス……?」
彼女だった。
氷の女。
合理主義の体現者。
僕の優しさを「脆い」と断じ、感情を「計算を狂わせる」と切り捨てた、彼女が。
その背中には、黒い津波の先頭――魔王軍の将軍が振り下ろした、巨大な「魔剣」が、深々と突き刺さっていた。
「……が……はっ……」
セリスの口から、おびただしい量の血が、溢れ出た。
彼女は、僕の胸倉を、弱々しい力で掴み、その氷の瞳で、僕を、まっすぐに見つめた。
その瞳には、もう、戦略も、合理も、何もなかった。
ただ、弟を想う、姉の「痛み」だけがあった。
「……正義は、あなたを、殺すわ……」
彼女は、血の泡を吹きながら、途切れ途切れに、言った。
「……でも……それで、いい……」
(何を、言ってるんだ)
(セリス、君が、どうして)
「……アラン……。
あなたは、愚か、だったわ……。
でも……」
彼女は、最後の力を振り絞り、僕の聖剣の柄――サラの光が宿る場所――を、自らの血に濡れた手で、握りしめた。
「……その、愚かさ(やさしさ)が……。
ガリウスは……好き、だったから……」
彼女は、僕を守ったのではない。
僕の中にある「感情」が、ヴァルドの「機構」に喰われ、弟が、僕という「友」を、完全に失ってしまうことを、恐れたのだ。
最後の最後で、彼女は、「秩序の維持」という彼女のすべてを捨てて、たった一つの「感情」を選んだのだ。
「……ガリウスを……頼む……」
それが、彼女の、最後の言葉だった。
セリス・ヴァンドールは、僕の腕の中で、事切れた。
「……あ……」
「あああああああああああああああああああああっ!!!!」
僕の絶叫。
それは、僕という「人間」が放った、最後の、叫びだった。
サラの死。
ガリウスへの罪。
そして、セリスの、死。
僕の、アラン・フォン・シルヴァードの心は、完全に、壊れた。
「――来たァァァァァァァァァッッッ!!」
ヴァルドの、狂喜の叫び声。
「それだ! その絶望だ! セリス殿の死が、最後の『点火剤』となった! アラン様! あなたは、今、神話になる!!」
セリスの血を吸った聖剣が、僕の絶叫を吸い込んだ。
ヴァルドの「機構」が、起動した。
僕の視界が、光で、白く、白く、塗りつぶされていく。
もう、魔王軍の黒い津波も、ヴァルドの狂気も、セリスの亡骸も、何も見えない。
ただ、僕の意識だけが、急速に、この肉体から引き剥がされ、天上の、どこか冷たい「機構」そのものへと、昇っていく。
(……僕は……)
神話が、生まれた。
一人の人間の、すべての絶望を「燃料」にして。
僕は、この日、世界を救うための、「エネルギーの核」となった。
人として、死ぬことさえ、許されずに。




