26.そして、この光が尽きたとき
僕は、走っていた。
泥と血にまみれた戦場を、ただ一人、疾走していた。
背後で、セリスが構築したはずの騎士団の防衛線が、魔王軍本隊の圧倒的な物量の前に、悲鳴を上げて崩れていく音が聞こえる。
「アラン様! 待ってください! 単独での突入は無謀です!」
「防衛線に戻れ! アラン!」
セリスの悲痛な制止も、ガリウスの怒声も、もう僕には届かない。
僕は、あの夜、聖剣と「契約」した。
僕のすべてを「燃料」に、仲間たちを守ると。
(僕が、やらなくちゃいけない)
(僕が、すべての痛みを引き受けるんだ)
「グルルルルアアアアア!!」
目の前を塞ぐ、鋼の鎧に身を包んだオークの将軍。
その巨大な戦斧が、僕の頭上めがけて振り下ろされる。
僕は、それを避けようともしなかった。
「――消えろ」
僕が聖剣を薙ぐと、あの白い光が迸った。
オークの巨体は、戦斧ごと、一瞬にして光に飲み込まれ、塵と化す。
僕は、その光の中心で、自らの魂が、また一つ、削り取られる快感に、奥歯を噛み締めた。
(足りない。
まだだ。
まだ足りない)
敵が多すぎる。
僕の光が、セリスの防衛線まで届かない。
あそこが崩れれば、ガリウスが死ぬ。
セリスが死ぬ。
僕が守ると誓った、すべてが死ぬ。
(もっとだ。
もっと燃えろ)
(僕の命を、すべて、今、ここで、光に変えろ!)
僕は、聖剣の柄――無数の祈りが刻まれた場所に、自らの額をこすりつけるように、力を込めた。
僕の魂と、聖剣が、完全に同期する。
「――おおおおおおおおおおおおっ!!」
僕の体から、光が、溢れ出した。
それはもはや剣技ではない。
僕を中心とした半径すべてが、あの白い光に染め上げられる。
敵も、味方も、区別なく。
「ぐあああっ!?」
「ま、眩しい……!」
視界が、真っ白に染まった。
僕は、その光の中で、奇妙な浮遊感に包まれた。
痛みも、焦燥も、恐怖も、すべてが遠のいていく。
僕は、ただ、温かい光の中に、漂っていた。
(……ああ……。
これなら、もう、誰も傷つかない)
(僕が、光になれば……)
『――もういいの、アラン』
その声を聞いた瞬間、僕の心臓が、凍りついた。
忘れるはずのない、声。
僕が、この手で、「燃料」にしてしまった、少女の声。
(……サラ……?)
『もう、戦わなくていいの』
『もう、誰も死なないよ』
『だから、こっちへおいで。
アラン』
白い光の向こう側で、サラが、あの村で見た時と同じように、屈託なく笑って、僕に手を差し伸べている。
僕は、吸い寄せられるように、その手を取ろうとした。
(ああ、サラ。
君に、会いたかった)
(僕は、もう、疲れたよ……)
「――アランッ!!!!」
鼓膜を引き裂くような、絶叫。
それは、ガリウスの声だった。
僕の白い夢を、現実の血の匂いが切り裂いた。
ハッと我に返った僕の目に飛び込んできたのは、僕が放った白い光の奔流に、片腕を焼かれながらも、無理やり突っ込んできたガリウスの姿だった。
「目を覚ませ、アランッ!! お前、自分が何してるか分かってんのか!」
「……ガリウス……? なぜ……」
「なぜ、じゃねぇ! お前のその光が、敵だけじゃなく、俺たちの防衛線まで焼いてるんだぞ!」
ガリウスの言葉に、僕は愕然とした。
僕の背後、セリスたちがいたはずの場所が、僕の放った光の余波で、半壊している。
(僕は……仲間を……?)
混乱。
僕の脳裏で、サラの『もういいの』という声と、ガリウスの『目を覚ませ』という声が、混じり合う。
(どっちが、本当だ?)
(僕は、何を、信じれば……)
「アラン! 剣を、捨てろ! 今すぐ!」
ガリウスが、僕の聖剣を、力ずくで奪おうと、その柄に手をかけた。
「――っ! 触るなッ!!」
僕の意志ではなかった。
聖剣が、僕の魂と「契約」した、その呪いが、叫んだ。
『この光は、僕のものだ』
聖剣は、僕の魂を守るため――あるいは、僕という極上の「燃料」を、誰にも奪わせないため――に、その所有者であるはずの僕の意志すら裏切り、ガリウスという「邪魔者」を、排除しようとした。
光が、溢れ出した。
僕の手の中で。
ガリウスの、その真っ直ぐな瞳に向かって。
「しまっ――」
僕の制止は、間に合わなかった。
ガリウスが、僕を止めるために、僕の懐に飛び込んできていた、まさにその瞬間に。
湿った、嫌な音。
僕の聖剣の切っ先が、光の刃となって、ガリウスの左目を、深々と裂いていた。
「……が……っ……」
時間が、止まった。
ガリウスは、信じられない、という顔で、僕を見つめたまま、ゆっくりと、その場に膝をついた。
彼の左目から、おびただしい量の血が、噴き出した。
「……あ……」
僕の手から、聖剣が滑り落ちた。
僕が、やったのか。
僕が?
ガリウスを?
僕の、たった一人の、親友を?
声にならない声が、喉から漏れた。
「…ガリウス……!」
僕は、泣いていた。
サラが死んでから、一度も流れなかった涙が、今、止まらなかった。
守りたかった。
ガリウスだけは、セリスだけは、仲間たちだけは、僕の命と引き換えにしても、守りたかった。
それなのに。
僕は、この手で、彼を。
僕の頬を伝った涙が、地面に落ちる前に音を立てて蒸発した。
僕の魂が、聖剣の「燃料」として、あまりにも高熱で燃え上がっているから。
僕の悲しみも、 僕の罪悪感も、 僕の後悔も、 すべてが、聖剣の輝きに吸い込まれていく。
僕は、もう、泣くことさえ、許されなかった。
僕には、この罪を背負って、立ち止まることさえ、許されていなかった。
「……アラン……」
ガリウスが、片手で血まみれの左目を押さえ、残った右目で、僕を睨みつけた。
その瞳に宿っていたのは、憎しみではなかった。
「……行け」
「……え?」
「……お前は、まだ……『勇者』だろ……。
俺のことは、いい……。
セリスを……守れ……」
彼は、僕に傷つけられた、その瞬間ですら、僕を「勇者」として、友として、信じようとしていた。
(……ああ……。
ああ、そうだ)
(ガリウス……)
僕は、血に濡れた聖剣を、再び拾い上げた。
その柄は、僕の涙を吸い込み、ガリウスの血を吸い込み、かつてないほど、禍々しく、そして、神々しく、輝いていた。
僕は、もう、何も感じなかった。
サラの声も、聞こえない。
僕の心は、完全に、死んだ。
(君が、そう言うなら)
(僕は、行くよ)
僕は、血を流す親友に背を向けた。
僕は、僕が、僕でなくなる音を、確かに聞いた。
そして、人であることをやめた「勇者」は、ただの「光の兵器」として、セリスが待つ、最後の防衛線へと、歩き出した。




