22.その背後で、こぼれ落ちる命を
旅というものは、こんなにも穏やかなものだったか。
王都の熱狂を背に街道へ出て三日。
世界は、僕が知っている故郷の景色と何も変わらなかった。
空は青く、風は草の匂いを運び、道端には名も知らぬ花が健気に咲いている。
手綱を握る僕の手には、まだあの聖剣の冷たい感触が残っていた。
大聖堂で授けられた、人の身には余るほどの「祈り」が込められた金属の塊。
柄にびっしりと刻まれた文様は、人々の希望の証だと誰かは言った。
だが、僕にはそれが、この世界すべての「重さ」が凝縮された呪いのように思えてならなかった。
「……アラン様、少し顔色が。
馬を休めますか?」
隣で馬を寄せてきたのは、治癒師のサラ・ミュリエルだ。
彼女の気遣わしげな瞳は、いつも僕の鎧ではなく、その下の疲れをまっすぐに見抜こうとする。
「ありがとう、サラ。
でも、平気だよ。
この青空を見ていたら、王都での緊張が解けただけだ」
僕は、完璧な勇者の笑顔で応えた。
彼女が「信じ続けてくれる」 と言ってくれた、あの花のように純粋な信頼。
それを裏切らないことが、今の僕のすべてだった。
その時だ。
風が運ぶ匂いが、変わった。
「……待って」
僕が手綱を引くのと、先導していたガリウス・ヴァンドールが拳を挙げるのは、ほぼ同時だった。
草の匂いに、焦げた肉と、鉄と、そして、嗅ぎ慣れない獣の腐臭が混じっている。
「斥候より伝令! 三マイル先、西の集落が魔族の群れに!」
「何っ!?」
地平線の先、丘の向こうから、細く黒い煙が上がっているのが見えた。
あそこにも、サラのような、花を愛する人々が暮らしていたはずだ。
「ガリウス! 急ぐぞ!」
「待て、アラン!」
僕の衝動を、背後からの氷の声が制した。
「アラン様、冷静に。
状況が不明なまま突入するのは愚策です」
戦略顧問、セリス・ヴァンドール。
ガリウスの姉である彼女は、馬上で地図を広げ、その思考はすでに戦場を支配していた。
「斥候の報告では、敵はおよそ三十。
対する村の民兵は十にも満たない。
このままでは全滅します」
「だか――!」
「だから、です」
セリスは、僕の言葉を遮った。
「我らの戦力は、騎士十名、そしてアラン様とガリウス。
ヴァルド技師とサラは後方支援。
勝てます。
ですが、どう勝つかが問題です」
彼女の瞳は、燃える村ではなく、地図上の「駒」だけを見ている。
「ガリウスは左翼から、騎士団本隊は正面から、時間差で突入。
私が合図するまで、アラン様は待機」
「待機だと!? 人が死んでいるんだぞ!」
「死なせないために、待つのです」
セリスの言葉は、正論だった。
あまりにも、冷たく、正しい、正論だった。
僕の耳には、遠い悲鳴が届いていた。
待てるはずが、なかった。
「――っ!」
僕は、セリスの返事を聞かずに馬を駆った。
「アラン! 馬鹿野郎、待て!」
ガリウスの怒声が背後で響く。
ごめん、ガリウス。
でも、僕は、
(間に合えッ!)
丘を越えた瞬間、地獄が広がっていた。
貧しい農村が、炎に包まれていた。
歪んだ人型、灰色の肌、鋭い牙を持つ魔族たちが、逃げ惑う人々を、まるで麦でも刈るように引き裂いている。
「うわああああっ!」
子供の泣き声。
母親の絶望的な叫び。
「――そこまでだ!!」
僕は馬から飛び降り、聖剣を引き抜いた。
希望の象徴。
曙の光。
剣は、僕の意志に応え、まばゆい光を放った。
「グルアアア!?」
光に怯んだ魔族の一体が、僕に気づく。
僕の体は、思考よりも速く動いていた。
踏み込み、剣を振るう。
光の軌跡が、魔族の胴体をいとも容易く両断した。
遅い。
王都の訓練兵とは、まるで違う。
こんなにも、脆く、弱い。
「アラン様!」
「勇者様だ!」
村人たちの顔に、絶望から一転、狂信的な光が宿る。
「そうさ、僕が来た! もう大丈夫だ!」
僕は叫んだ。
自分に言い聞かせるように。
魔族の群れが、僕という「光」に惹かれて集まってくる。
好都合だ。
一匹、二匹。
聖剣は、祈りの文様を輝かせ、敵を塵に還していく。
僕は無敵だった。
僕は英雄だった。
僕は、
(――あ)
僕が一体を斬り伏せた瞬間、その背後で、別の魔族が、幼い子供を抱えて納屋に逃げ込もうとした母親の背中を、爪で引き裂いた。
「やめろ――っ!」
僕は、集まっていた魔族を光で牽制し、その母親の元へ駆けた。
「しっかりしろ! サラ! サラを呼んでくる!」
だが、母親は、血の泡を吹く口で、か細く笑った。
「……ああ……勇者、さま……。
この子を、どうか……」
彼女は、腕の中の赤ん坊を、僕に差し出した。
「いやだ! 君も助かる! 目を開けて――!」
母親の腕から、力が抜けた。
僕の腕の中には、母親の血で濡れた赤ん坊の、甲高い泣き声だけが残った。
僕は、助けられなかった。
聖剣は、光は、目の前の敵を倒すことはできても、その背後でこぼれ落ちる命を、拾うことはできなかった。
「……アラン!!」
ガリウスが、僕の硬直に気づき、背後から迫っていた魔族の首を刎ね飛ばした。
「何ぼさっとしてやがる! 戦場だぞ!」
「……ガリウス……僕は……」
「しゃべるな! 泣くのは後だ!」
ガリウスは僕から赤ん坊をひったくり、安全な場所へ走った。
その時、セリス率いる騎士団本隊が、完璧な陣形で村の広場を制圧した。
「全隊、包囲殲滅! 一匹たりとも逃がすな!」
セリスの冷徹な声が響く。
彼女の戦略通り、魔族は分断され、僕という「囮」によって集められたところを、側面から叩かれたのだ。
戦いは、すぐに終わった。
僕の足元には、三十を超える魔族の死骸と、 そして、それを上回る数の、村人たちの亡骸が転がっていた。
「……ひどい……」
サラが、顔を青ざめさせ、負傷者の治療に走り回っている。
ヴァルド技師は、壊れた村の防壁を調べ、何かをブツブツと記録していた。
僕は、血と泥にまみれたまま、広場の中央で立ち尽くす。
セリスが、血塗れの剣を布で拭いながら、僕の元へ来た。
「……作戦は成功です。
敵は全滅。
こちらの被害は、騎士一名が軽傷。
村の生存者は、二十三名」
彼女は、淡々と、「結果」を報告した。
僕は、彼女のその無感動な声に、心の底から沸き上がる、熱い何かを抑えきれなかった。
「……成功? これが?」
僕は、足元の、母親の亡骸を指差した。
僕が受け取った赤ん坊が、今、ガリウスの腕の中で、母親を求めて泣き続けている。
「彼女は死んだぞ! 村の半分が死んだ! これが、君の言う『成功』か、セリス!」
「はい」
セリスは、僕の激昂を、柳に風と受け流した。
その氷の瞳は、僕の怒りにすら、何の感情も映さない。
「アラン様。
あなたは、感情で動きすぎた。
あなたが待機命令を無視して突入したせいで、作戦は変更を余儀なくされた。
……結果、救えたはずの命が、いくつか失われた」
「なっ……僕の、せいだと……!?」
「いいえ」
と、セリスは首を振った。
「これは『戦略』です。
救うためには、捨てる命もある。
それが戦場の『正義』です」
「捨てる……?」
「あの母親は、東の納屋にいました。
あそこは、敵の退路だった。
私の当初の計画では、あの一帯は『切り捨て』、敵主力を広場で叩くはずでした。
あなたは、その『捨てる』べき場所へ、真っ先に飛び込んだ」
何を、言っているんだ、この女は。
切り捨てる? 命を?
「どうして、そんな酷いことが言える!?」
「私は、より多くを救うための『最適解』を提示しただけです。
感情は、その計算を狂わせる。
……アラン様、あなたのその優しさは、英雄としては、あまりにも、脆い」
セリスはそう言い残し、次の作戦指示のため、負傷した騎士の元へ行ってしまった。
僕は、その場に立ち尽くす。
聖剣が、まるで僕の怒りと悲しみを吸い取るかのように、重く、冷たくなっていた。
僕の理想。
僕の正義。
それは、この本物の戦場では、「計算を狂わせる」だけの、邪魔な「感情」でしかなかったのか。
◆ ◆ ◆
その夜。
僕は、野営の火から離れ、一人、月明かりの下で聖剣を磨いていた。
赤ん坊の母親の血は、光の力で浄化されたのか、刀身にはもう残っていない。
だが、僕の手には、あの時の生温い感触が、こびりついて離れなかった。
「……まだ起きてたのか」
ガリウスだった。
彼は、僕の隣に、どか、と音を立てて腰を下ろした。
「……眠れないんだ」
「だろうな。
初陣がこれじゃ、寝覚めが悪い」
彼は、僕が磨いていた聖剣を、無遠慮に取り上げた。
「……こいつが、お前を英雄にする。
だが、こいつが、お前を人じゃなくす」
「ガリウス……」
「セリスの言葉は、気にするな。
あいつは、ああいう生き方しか知らねぇ、不器用な女だ。
……だが、間違ってもいねぇ」
「……」
「アラン。
お前は、全部背負いすぎだ」
ガリウスの、無骨で、温かい手が、僕の肩に置かれた。
「お前が『勇者』だってんなら、俺は『剣』だ。
セリスは『盾』だ。
サラは『癒し』だ。
……お前一人で、全部やる必要はねぇ。
俺たちにも、背負わせろ。
そのために、俺たちはここにいる」
彼の言葉は、凍えきっていた僕の心に、小さな火を灯してくれた。
ああ、そうだ。
僕は一人じゃない。
「……ありがとう、ガリウス」
僕は、心の底から礼を言った。
ガリウスは、ニヤリと笑うと、聖剣を僕に返し、焚き火の方へ戻っていった。
一人残された僕は、再び、月明かりの下で聖剣を見つめる。
ガリウスの言葉は、嬉しかった。
でも、と僕は心の内で呟く。
(背負わせろ、か。
……違うんだ、ガリウス)
(僕は、背負わせたくない。
君たちに、この地獄を)
(セリスの言う『切り捨てる』痛みも、ガリウスが言う『背負う』重みも、全部)
(僕が、やらなくちゃいけないんだ)
セリスは、僕の優しさを「脆い」と言った。
まだ、痛みを知らない優しさだ。
その通りだ。
(だから、僕は、知るんだ)
(誰かが泣くなら、それを俺が見ていたい。
背を向けたくない)
(切り捨てられる命の、その最後の瞬間を、僕のこの目に焼き付ける)
僕は、聖剣の、祈りの文様が刻まれた柄を、強く、強く、握りしめた。
指の間から血が滲むほどに。
(ごめん、ガリウス。
僕は、君が望むようには、なれない)
(僕は、この世界のすべての痛みを、背負うと決めた)
(たとえ、その重みで、いつか僕が、僕でなくなってしまうとしても)
月明かりが、僕の足元に、英雄の、あまりにも濃く、長い影を落としていた。
僕は、まだ、本当の「絶望」の匂いを、知らなかった。




