20.誰が盤面に駒を並べたのか
蓋は開かれ、解き放たれたのは、誰も望まなかった世界の「本当の姿」だった。
南の荒野。
ティオは、壊れた人形のようになったエルミナを必死に背負い、夜の荒野を逃げ惑っていた。
「………みんな……ごめんなさい……ごめんなさい……」
エルミナは、暴走のショックで、ただ虚ろに謝罪を繰り返すだけ。
「エルミナ様! しっかり! 追手が……!」
ティオが、絶望に顔を歪める。
エルミナが放った、あの暴走した『聖性』の光。
それは、魂魄病の患者を炭化させただけではない。
その強すぎる「光」は、最も邪悪で、最も淀んだ魔素を、大陸全土から惹きつける、最悪の「狼煙」となってしまったのだ。
地平線の向こうから、無数の影が、月明かりに照らされる。
『成り果て』の、大群。
その先頭を、傷ついたバルトロメオを担架で運ぶ傭兵たちが、必死の形相で逃げている。
だが、彼らの運命はもはや風前の灯火だった。
「……エルミナ様……!」
ティオは、足がもつれて転倒する。
背後から迫る、数千、数万の『成り果て』の、腹の底から響くような飢えた咆哮。
ティオは、壊れたエルミナを抱きしめ、ただ、目を閉じるしかなかった。
◆ ◆ ◆
王都、王立アカデミー。
リリアンデが起動させたゴーレム「アダム」が、聖騎士団の残骸を廊下に撒き散らしていた。
「フフ……アハハハ! 見たことか、レオナルド! これが私の『知性』! コルネリウスの『律』の外側にある、本物の『力』よ!」
リリアンデは、自らが神となったかのように、狂的な恍惚に浸っていた。
だが、その時。
「「「グアアアアアアアア!!」」」
廊下の窓ガラスが、外側から一斉に叩き割られ、『成り果て』の群れが飛び込んできた。
「なっ……!?」
『成り果て』は、聖騎士団の死骸を貪り始め、次なる獲物として、リリアンデたちに、その濁った目を向けた。
「……アダム!」
リリアンデは、焦りながらも、ゴーレムに命じた。
「あの『汚物』どもを、排除しろ!」
ゴーレムは、その巨大な鉄腕を持ち上げた。
だが、動かなかった。
その紫電の目が、聖騎士団の「死骸」と、『成り果て』という「未知の存在」を交互に見比べ、混乱したように、カタカタと音を立てている。
「……なぜ……!? 動け! 命令よ! 敵を、排除しろ!」
「……リリアンデ!」
レオナルドが、絶望的な声で叫んだ。
「そいつの『敵』は、コルネリウスの『律』に従う者(聖騎士)だけなんだ! ……『律』から外れた、あの化け物(成り果て)は……『敵』として、認識できないんだ!」
『成り果て』の一体が、リリアンデに向かって、その顎を獣のように裂き、飛びかかってきた。
◆ ◆ ◆
王都、大聖堂地下。
ガリウスは、砕け散った黒い水晶の前に、よろめきながら立っていた。
左半身は焦げ付き、失った左眼窩からは、まだ煙が燻っている。
彼の足元には、コルネリウスが、血の泡を吹きながら倒れていた。
『律』の心臓部と接続していた精神が、その破壊によって、完全に焼き切られていたのだ。
ガリウスは、『魔浄の短剣』を拾い上げ、コルネリウスの喉元に突きつける。
三十年の憎悪。
友の仇。
「……フ……フフ……」
コルネリウスは、血反吐を吐きながらも、不気味に笑った。
「……盤は、壊れた……。だが、盤上の駒は、まだ、残っている……。ガリウス……貴様の『呪い』は、終わってなど、いない……」
「……何?」
「……聞こえんか? 貴様の『仲間』の、悲鳴が……」
コルネリウスは、最後の力を振り絞り、祭壇の、砕け残った水晶の破片に触れた。
ガリウスの目の前に、映像が浮かび上がる。
『成り果て』に襲われる、レオナルドとリリアンデ。
『成り果て』の大群に追いつかれる、エルミナとティオ。
そして――
「……こ、これは……」
ガリウスは、息を呑んだ。
そこには、魔王城で、魔王アズラエルと、偽物の勇者が、手を握り合っている、あり得べからざる光景が映し出されていた。
「……ほ、ら……見ろ……。貴様が、壊した『律』の、その先だ……」
「貴様は……この地獄の、盤面に……『魔王』という、最悪の駒を……並べてしまったのだ……!」
ガリウスは、短剣を握りしめたまま、凍りついた。
◆ ◆ ◆
魔王城、『調律の間』。
ゼフィルスは、アズラエルの手を、力強く握り返していた。
「……乗ってやるよ、魔王様。その、世界の『リセット』とやらに」
「……賢明な判断だ」
アズラエルは、ゼフィルスの『星の刻印』と、彼が持つ『星の円盤』、そして、祭壇で眠るシルヴィアの命を見比べた。
「リセットの場所は、この世界の『律』が生まれた場所、『天の揺り籠』。そこでお前の『鍵』を使えば、すべての『律』は停止し、この世界を縛る、呪われた『大儀式』の環を断ち切ることができる」
「……律を、断ち切る?」
ゼフィルスの顔から、血の気が引いた。
「……おい、待てよ。リセットってのは、やり直すって意味じゃねぇのか? 律を壊したら、世界は、どうなるんだ?」
「分からん」
アズラエルは、苦悩に満ちた瞳で、静かに告げた。
「だが、少なくとも、このまま緩やかに滅びるよりはマシだ。……ゼフィルス。この『律』こそが、諸悪の根源だ。律は、世界の淀みを浄化するため、定期的に『魔王』という名の『負の魔素の受け皿』を生み出す。歴代の魔王は、その苦痛に耐え、ただ世界に憎まれ、勇者に殺されるためだけに、存在させられてきた」
「……」
「そして、それは『勇者』も同じことだ」 アズラエルの声に、初めて怒りとも哀れみともつかぬ熱がこもった。
「三十年前の勇者が、どうなったか知っているか? 奴もまた、『律』の道具として魂を燃やし尽くされ、最後は友の手によって殺されるという地獄を味わった。奴もまた、この世界の『犠牲者』だ」
「……!」
「お前が『偽物』だと知っている。だが『律』は、お前を、次なるアランに仕立て上げようとしている。コルネリウスも、そうだ。俺は、この地獄の連鎖を終わらせたい。俺たち歴代魔王の苦痛も、アランのような勇者の犠牲も、すべてだ」
「……ふ、ふざけるな!」 ゼフィルスは、そのあまりの真実に、思わず手を振り払おうとした。
「お前の都合で、世界を巻き込むな! 律がなくなったら、人間は……!」
だが、アズラエルの手は、鋼の万力のように、ゼフィルスの手を掴んで離さない。
「……お前が、望んだのだろう? 『嘘にウンザリした』と」 アズラエルの瞳が、ゼフィルスを射抜く。
「これは、嘘のない『真実』だ。このまま『律』が続けば、王都は『成り果て』に沈み、聖女は『燃料』にされ、お前はアランと同じ末路を辿る。俺のリセット(破壊)だけが、唯一、盤面をひっくり返せる『希望』だ」
リチェルカが、祭壇のシルヴィアの喉元に、音もなく氷の刃を突きつけた。
「さあ、選べ、偽物の星よ」
アズラエルが、ゼフィルスを、その苦悩に満ちた瞳で、まっすぐに見据える。
「――この女一人と共に、コルネリウスの道具として、アランと同じ『地獄』で消滅するか。あるいは、俺と共に、このクソったれな『律』を、お前のその手で、終わらせるか」
ゼフィルスは、自らが握りしめた、悪魔(魔王)の手の中で、絶望的な、最後の「選択」を、突きつけられた。




