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17.血潮は何のために滾ったのか

土煙と、血の匂い。


「――行け! 行け! 行けぇぇっ!」  


ゼフィルスは、馬の腹を蹴りながら、獣のように咆哮していた。  

彼の腕の中には、喉から血の泡を吹き、意識を失いかけているシルヴィアがいる。

鎧が、あり得ないほど重い。  

すぐ後ろの馬には、彼の護衛騎士の一人が、暴走のショックで虚ろな目をしたエルミナを、麻袋のように担いで続いている。


「……星の御子様! あの化けエルミナを、なぜ助けるのですか!」

「黙れ! 黙って走れ!」  


ゼフィルスは、もはや聖者の仮面を被る余裕などなかった。  

脳裏に焼き付いているのは、シルヴィアの、あの最後の言葉。


『……お前は……『偽物』の、まま……死ぬな……』


(……死んで、たまるか……!)  


生き延びるためではない。

この女を、シルヴィアを、死なせないため。

そして、あの光の柱の中心で、自らが殺した患者たちの前で壊れてしまったエルミナを、これ以上、地獄の真ん中に放置しておけないという、訳の分からない焦燥感。  

嘘つきの彼が、生まれて初めて抱いた、「責任」という名の重い枷だった。


「――逃がすなァッ! 親分バルトロメオの仇だ!」  


背後から、傭兵隊長ボルグの怒声が迫る。

彼らは、ゼフィルスが放った衝撃波で混乱しながらも、すぐに体勢を立て直し、最も憎い相手――ゼフィルスへと、殺意を集中させていた。


「クソッ、しつけぇ!」  


矢が、ゼフィルスの耳元を掠める。  

シルヴィアを抱えているせいで、馬の速度が上がらない。


(……ここまでか……!)  


傭兵の一人が、馬で真横に並び、ゼフィルスの首を狙って剣を振りかぶった、その瞬間。


「――聖女様に、近寄るなァッ!」  


藪の中から、鋭い矢が放たれ、傭兵の喉を正確に貫いた。


「なっ!?」  


ゼフィルスが横を見ると、そこには、農夫の服を着た、小柄な少年が、震える手で次の矢をつがえていた。


「……お前は……『ノア』の……!」

「ティオだ!」  


その人物――ティオは、エルミナが集落を作る前から、彼女と共に「耐呪麦」の種を守ってきた、最側近の一人だった 。


「あんたが、星の御子か、何だか知らない! でも、エルミナ様を、あんたたちの戦争に巻き込むな!」  


ティオは、ゼフィルスに対しても、剥き出しの敵意を向けていた。


「……!」  


ゼフィルスは、返す言葉もなかった。  

ティオの援護射撃で、傭兵たちの足がわずかに乱れる。


「クソが、邪魔者が増えやがった!」


ボルグが、ティオに向かって斧を投げつける。


「危ない!」  


ゼフィルスは、咄嗟に、シルヴィアを抱えたまま、馬ごとティオの前に割り込んだ。  

斧は、ゼフィルスが乗る馬の首に深々と突き刺さり、馬は甲高い悲鳴を上げて転倒した。


「ぐ……あああっ!」  


ゼフィルスは、シルヴィアを庇うようにして、地面を転がった。

全身を、強烈な痛みが襲う。


「……星の御子……!」


ティオが、息を呑む。


「……ハ……ハァ……。ざまぁ、ねぇな……」  


ゼフィルスは、泥だらけになった顔を上げ、迫りくるボルグたち傭兵団を睨みつけた。  


エルミナを乗せた護衛騎士は、すでに逃げ去っている。  

残されたのは、偽物の英雄と、瀕死の騎士と、非力な農夫。

絶望的な、詰み(チェックメイト)だった。


◆ ◆ ◆


同時刻、王都、地下水道。  


リリアンデとレオナルドは、下水の合流部にて、雨水の流入口付近に身を隠していた。


「あの老狐コルネリウスは、大聖堂の地下で『律』そのものを掌握しようとしてる! ガリウスがそこを叩いているはずだけど、あのジジイがそう簡単にやられるとは思えない!」

「……じゃあ、どうするんだ! 俺たちも大聖堂へ……」

「馬鹿! 真正面から行って、犬死にするだけよ!」  


リリアンデは、懐から「第一調整塔」で書き写した、あの古代文明の設計図の断片を取り出した。


「『律』は、王都全体に張り巡らされたネットワーク。大聖堂が『心臓』なら、私たちが今から向かう場所は……『脳』よ」

「脳……?」

「王立アカデミー……私の研究室よ!」  


彼女の瞳が、狂的な光を宿す。


「あそこには、私が集めた『律』の観測記録ログと、古代のゴーレムを再起動させるための理論が揃ってる! セルゲイが遺した『脈動コア』の理論……! コルネリウスが『律』の力で王都を支配するなら、私たちは、古代の『力』で、あのジジイの計画システムを、外側からぶっ壊すのよ!」

「……!」


◆ ◆ ◆


王都、大聖堂地下。  


ガリウスとコルネリウスの死闘は、ガリウスの劣勢へと傾いていた。  

コルネリウスは、祭壇の黒い水晶に触れ、南の惨劇から流れ込む、高純度の『負のエネルギー』を吸収し、その力を増していく。

コルネリウスが『魔浄の短剣』を振るうたび、ガリウスの眼帯の下――アランの聖剣の「欠片」――が、共鳴して激痛を放つ。


「ぐ……うおおっ!」

「どうしました、友殺しの大罪人よ。貴様の仲間は、盤上から次々と消えているというのに」  

コルネリウスは、もはや老人の動きではなかった。祭壇の力を得て、ガリウスの歴戦の剣技を、余裕を持って捌いていく。


(……クソが。このままじゃ、ジリ貧だ……!)  


ガリウスは、コルネリウスの言葉(「燃料」)と、この祭壇の仕組みを、激痛の中で必死に分析していた。


(あのジジイ、南の『絶望』を、この水晶に集めてやがる。あれが、このクソったれな『律』の、新しい『燃料』か……)  


脳裏に、アランの最後の言葉が蘇る。


『……ガリウス……。この呪いを……終わらせてくれ……』


(……そうだ、アラン。てめぇを狂わせたのは、『律』そのものだ)  


ガリウスは、防御一辺倒だった構えを変えた。  

彼は、砕けた剣の柄を捨て、自らの左眼――眼帯へと、手をかけた。


「……ほう? ついに、その『呪い』を解放しますか」  


コルネリウスが、愉悦に口元を歪める。


「……ああ」  


ガリウスは、眼帯を引き剥がした。  

その下にあったのは、抉れた眼窩ではなかった。

そこには、三十年の時を経て、ガリウスの肉体と癒着し、黒く脈動する、聖剣の『欠片』が、まるで呪われた義眼のように埋め込まれていた。


「てめぇが『燃料』を集めるってんなら……」  


ガリウスの全身から、凄まじい闘気が迸る。


「俺は、その『燃料』に、火をつけてやるよ」  


彼は、コルネリウスが操る『律』のエネルギーの流れに対し、自らの魂と一体化した「聖剣の呪い」を、カウンターとして叩き込む、捨て身の構えを取った。

ガリウスは、この祭壇ごと、自爆することも厭わずに、三十年来の「呪い」を終わらせるため、最後の一撃にすべてを懸けた。


◆ ◆ ◆


南の荒野。  


ボルグが、血走った目で、倒れたゼフィルスたちに近づいてくる。


「……終わりだ、偽物野郎。聖女諸共、ここでミンチにしてやる」

「……く……そ……」  


ゼフィルスは、シルヴィアを庇いながら、懐の『星の円盤』に手を伸ばした。

だが、もう、起動させるだけの気力も、意志も、残っていなかった。  

ティオは、震える手で矢をつがえるが、多勢に無勢。  

ボルグが、巨大な戦斧を振り上げた。  

その、瞬間。


「――そこまでよ、獣たち」


天から、鈴の音のように、しかし、絶対零度の冷たさを持った声が、降ってきた。  

ゼフィルスたちが顔を上げると、いつの間にか、彼らと傭兵団の間に、一人の女が、音もなく立っていた。  

夜空を裁断したかのようなドレス。血のように赤い唇。  

〝深謀〟の魔将軍、リチェルカ。


「……な……。ま、魔族……!?」

 

ボルグの顔から、血の気が引いた。


「なぜ、魔王軍の幹部が、こんなところに……!」  


リチェルカは、その場に不釣り合いなほど優雅に微笑むと、ゼフィルス――正確には、彼が握りしめる『星の円盤』と、彼が庇う瀕死のシルヴィア、そして怯えるティオを一瞥した。  

そして、逃げた護衛騎士が連れ去った、エルミナの気配がする方角を、ねっとりと見つめた。


「……あらあら。盤上が、随分と賑やかになったこと」  


彼女は、ボルグたち傭兵団に向き直った。その瞳は、虫ケラを見るように冷たい。


「あなたたちには、もう用はないわ。……舞台から、お下がりなさい」  


リチェルカが、その白い指を、パチン、と鳴らした。  

直後、傭兵たちの背後の大地が、黒く裂け、そこから、無数の「影の手」が、彼らの足首を掴んだ。


「「「ぎゃあああああああああっ!!」」」  


ボルグたちは、抵抗する間もなく、次々と、森の奥へと引きずり込まれていく。  

阿鼻叫喚の地獄絵図を前に、ゼフィルスとティオは、声も出せずに凍りついた。  

リチェルカは、静まり返った荒野で、ゆっくりとゼフィルスに近づいた。


「……さて、と」  


彼女は、その美しい顔を、泥だらけのゼフィルスの目の前に寄せ、妖しく微笑んだ。


「ごきげんよう、『偽りの星』さん」  


彼女の視線が、ゼフィルスが庇うシルヴィアの、喉の矢に移る。


「……あら、騎士様。まだ息があるのね。……ちょうどいいわ」  


リチェルカは、ゼフィルスに向かって、悪魔の契約を、持ちかけた。


「――その女を、助けてあげましょうか? その代わり……あなたと、その『円盤』。そして、あの暴走した『聖女』を、私たちに、くれる?」

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