16.炎花は何を焼いて咲いたか
白。
世界から、色が消えた。
エルミナの絶叫と同時に、彼女の痩せた体から迸ったのは、もはや『聖癒の波動』などという生易しいものではなかった。
彼女の純粋すぎる「拒絶」と「怒り」によって暴走した、純度100%の『聖性』そのもの。
それは、癒しではない。
焼き尽くす、光の暴力だった。
「――がっ……あ……?」
集落の小屋で、魂魄病に苦しんでいた患者たちが、その光を浴びた。
だが、彼らの魂は、そのあまりにも強すぎる「聖」の力に耐えきれず、まるで強酸に触れたかのように、内側から焼き切れた。
「ぎ……あああ……」
癒されるどころか、彼らは声もなく、次々と黒い炭の塊へと変わっていく。
エルミナの理想が、彼女自身の力によって、最も残酷な形で踏みにじられた瞬間だった。
「……あ……あ……」
ゼフィルスは、その光景に、声も出なかった。
バルトロメオは血反吐を吐きながら防壁から転落し、動かない。
シルヴィアは、喉に矢を突き立てられ、馬の上で、か細い息と共に血の泡を吹いている。
そして、エルミナが、目の前で、人を殺している。
全部。
(……俺の、せいだ)
彼が、あの『円盤』を、バルトロメオに向けなければ。
いや、彼が、コルネリウスの命令に従い、最初からエルミナを殺していれば?
いや、彼が、そもそも『星の御子』などという、嘘をつかなければ。
思考が、回らない。恐怖と罪悪感で、脳がショートした。
「……て、てめえ……! よくも、親分を!」
防壁の上から、傭兵隊長のボルグが、血走った目で弩を構えた。
部下たちが、動かないバルトロメオを必死に引きずっていく。
「あの女もだ! 化け物め! 聖女なんぞ、嘘っぱちじゃねえか!」
傭兵たちが、一斉に弩を構える。
その矛先は、ゼフィルスと、そして、光の中心で呆然と立ち尽くすエルミナの両方に向けられていた。
「殺せ! あの二人を、殺せぇぇっ!!」
無数の矢が、雨のように降り注ぐ。
ゼフィルスは、恐怖で硬直し、馬の上で目を閉じた。
(……ああ、ここで終わりか。クソみてぇな、人生だったな……)
だが、死は訪れなかった。
シルヴィアが、ゼフィルスのマントの裾を掴んでいた。
「……に……げ……ろ……」
彼女は、血の泡を吹きながら、ゼフィルスを睨みつけた。
「……お前は……『偽物』の、まま……死ぬな……」
それは、侮蔑ではなかった。
最後に見た、騎士の、哀れみと……命令だった。
「……!」
ゼフィルスの全身に、電気が走った。
嘘で塗り固めた人生。
クズで、臆病者で、女を騙し、友を売った。
そんな自分のために、今、目の前で、騎士が死にかけている。
光の中心で、自らが炭化させた患者たちの亡骸を見て、エルミナが、壊れた人形のように喘いでいる。
「あああああああああああああああああっ!!」
ゼフィルスは、獣のように咆哮した。
彼は、初めて、自らの意志で、『星の円盤』を、天にではなく、エルミナにでもなく、矢を放ち続ける傭兵たち(ボルグ)にでもなく―― その、中間にある、乾いた大地に、叩きつけるように向けた。
「――やめろぉぉぉぉっ!!」
彼は、叫んだ。
「やめろ! お前も、俺も! 俺たち全員、コルネリウスに踊らされてるだけじゃねぇか!」
「うるせぇ! 化け物が何か喚いてやがる!」
ボルグが、次弾を装填する。
「やめろって、言ってんだろぉがぁぁぁっ!!」
ゼフィルスは、自らの命が削れるのも構わず、円盤に、ありったけの意志を込めた。
殺すためではない。
この地獄の連鎖を、止めるために。
ゼフィルスの意志に応え、円盤は、先程の無差別な不協和音とは違う、指向性を持った『衝撃波』を放った。
ズドオオオオオオオオンッ!!
大地が抉れ、傭兵も、ゼフィルスの護衛騎士も、馬も、すべてが凄まじい爆風と土煙に飲み込まれた。
戦場は、一瞬にして、混沌の渦に叩き込まれた。
「……今だ!」
ゼフィルスは、土煙の中、自らも吹き飛びそうになるのを堪え、シルヴィアの、血に濡れた体を、無理やり馬上に引きずり上げた。
「退却! 退却だ! 聖女様を……エルミナを、回収しろォッ!」
彼は、もはや英雄ではなかった。
ただ、この地獄から、これ以上死人を増やさないために、壊れた聖女と、瀕死の騎士を道連れにして、戦場から逃げ出す、一人の男だった。
◆ ◆ ◆
同時刻、王都、大聖堂地下。
『逆順の鐘』がもたらした『律』の乱れは、収束しつつあった。
「……チッ」
ガリウスは、コルネリウスとの距離を取り、荒い息をついていた。
老獪な聖職者の守りは、想像以上に堅い。
「……フフフ」
コルネリウスは、祭壇の黒い水晶に触れ、まるで甘美な音楽でも聴くかのように、目を閉じた。
「……聞こえますぞ、ガリウス。南の地から、素晴らしい『絶望の産声』が。……ああ、なんと美しい不協和音か」
彼は、南で起きた惨劇を、『律』を通じて正確に「観測」していた。
「聖女は、自らの手で民を焼き、光の化け物となった。偽物の星は、騎士を殺し、聖女を攫って逃亡した……。完璧です。これで、民衆の『祈り』と『憎悪』は、制御不能なまでに高まる」
「……てめぇ、正気か。そのために、シルヴィアを……!」
「駒の一つや二つ、惜しむものですか」
コルネリウスは、ガリウスに向き直った。
その目は、もはや人間のそれではなく、自らが神の『調律師』であると信じて疑わない、狂信者のものだった。
「貴様の仲間は、盤上から消えた。さあ、三十年前の続きを始めましょうぞ、友殺しの『裏切り者』よ」
◆ ◆ ◆
王都、地下水道。
リリアンデは、レオナルドの腕を掴み、汚泥の中を疾走していた。
背後からは、聖騎士団の追手の声が響いている。
「……ハァ……ハァ……! セルゲイが、死んだ……!」
レオナルドは、涙と汚水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、足を止めようとする。
「彼の、義手……あれは、古代の『脈動コア』だった……! 私が、あんなものを知らなければ、彼は死なずに……!」
「――うるさい!」
リリアンデは、立ち止まり、レオナルドの顔を、ありったけの力で平手打ちした。
「泣いてる暇があるなら、脳を動かせ、クズ王子!」
彼女の目は、恐怖ではなく、セルゲイの犠牲を「燃料」にした、冷徹な怒りに燃えていた。
「あの人が死んで、私たちが手に入れたものは何!? 『自由』よ! コルネリウスの観測網が乱れた、ほんの数分の『自由』! ……ガリウスも、南の偽物も、今、同時に動いたはず!」
リリアンデは、レオナルドの胸倉を掴み、無理やり立たせた。
「あの老狐の計画を、私たちが、この手で、根元から叩き潰すのよ。……セルゲイの死を、無駄にする気?」
「……!」
レオナルドは、リリアンデの狂気じみた「意志」に圧され、唇を噛み切った。
王子としての彼が、完全に死んだ。
◆ ◆ ◆
魔王城、『調律の間』。
玉座に縛り付けられていた魔王アズラエルが、ゆっくりと、立ち上がった。
『律』の観測網が、鐘の音と、南の惨劇の共鳴によって、致命的な『穴』だらけになっている。
それは、彼を縛り付けていた鎖が、一時的に緩んだことを意味していた。
「……リチェルカ」
「はっ。御前に」
いつの間にか、リチェルカが、彼の背後に跪いていた。
「コルネリウスが、狂ったな」
アズラエルの声は、地響きのように重かった。
「はっ。自ら『律』を乱し、聖女を汚し、世界そのもののバランスを崩壊させようとしております」
「……愚かな。あれでは、世界が滅びる。我らも、人間も、共に」
アズラエルは、玉座の間から、一歩、踏み出した。
彼が、その場所から動くのは、復活してから、これが初めてだった。
「『対話』の時は、終わった」
「リチェルカよ。人間どもの『駒』が、すべて盤上に出揃った。……ならば、我らも、我らの『王』を、盤上に進めるとしよう」
魔王は、人間界への介入を、ついに決意した。
「目標は二つ。……コルネリウスに奪われる前に、暴走した『聖女』と、あの『星の円盤』を持つ偽物を、確保せよ」




