15.血潮はどの歯車を動かしたか
その緊迫は、引き金にかかった指先の、ほんのわずかな震えで決壊する。
南の荒野。
ゼフィルスは、地獄の天秤にかけられていた。
右には、エルミナの純粋な信仰の眼差し。
左には、バルトロメオの殺意が込められた弩。
背後には、シルヴィアの断罪の剣。
そして脳内には、コルネリウスの「殺せ」という冷酷な命令。
「……どうした、星の御子様よぉ」
バルトロメオが、黄金の歯を剥き出しにして嘲笑う。
「聖女様が、あんたの『奇跡』を待っておいでだぜ? それとも、そのガラクタ(星の円盤)、使い方が分からなくなっちまったか?」
「……黙れ、下衆が」
ゼフィルスは、脂汗を流しながら、必死で虚勢を張る。
「神の御業を、金勘定でしか測れぬ貴様などに、理解できるはずもない」
「ああ? やれるもんなら、やってみな」
バルトロメオが、弩の引き金にかけた指に、ぐっ、と力を込めた。
「……やめてください!」
エルミナが、ゼフィルスとバルトロメオの間に、両手を広げて立ちはだかった。
「バルトロメオ様! この方は、王都から私たちを『お守り』に来てくださったのです! なんという無礼を!」
「……チッ。聖女様は、おめでてぇ頭で羨ましいこった」
「そして、星の御子様!」
エルミナは、今度はゼフィルスに向き直り、その場に深く膝を折った。
「どうか、お怒りをお鎮めください。彼も、この『ノア』を守りたい一心なのです。……この通り、どうか、武器を……」
純粋な、あまりにも純粋な祈り。
その清らかさが、ゼフィルスの罪悪感を、熱した鉄のように抉った。
(……俺は、この女を、殺しに来たんだぞ……?)
(この、俺を信じきっている、本物の『聖女』を……!)
ゼフィルスの指が、懐の『星の円盤』に触れる。冷たい金属の感触。
(……やるしか、ないのか? ここでコイツを殺らなきゃ、俺が、シルヴィアに、コルネリウスに、殺される……!)
だが、エルミナを、あのオークどものように、内側から破裂させる光景を想像した瞬間、強烈な吐き気がこみ上げた。
「……う……」
ゼフィルスの指が、痙攣した。
◆ ◆ ◆
同時刻、王都。
夜の帳が下りる直前、黄昏の刻。
西の大鐘楼。
リリアンデとレオナルドは、カサンドラの手引きで、聖騎士団の目を盗み、鐘楼の最上階、巨大な鐘の真下に潜り込んでいた。
「……ここが、鐘の『調律室』。あの歯車があれば、一時的に、鐘を鳴らす順番を……」
案内役の時計職人セルゲイが、義手の指先で、複雑な機構を指し示した。
彼は、カサンドラの父の旧友であり、この鐘楼の管理者。
そして、王都の『律』に密かな疑いを抱く、抵抗者の一人だった。
「……カサンドラの親父さんは、気づいちまったんだ。この鐘が、ただの時報じゃなく、王都の人間どもの『魂の向き』を、ほんの少しずつ、聖教会の都合のいい方角へ『調律』してるってことにな」
「……やはり」
リリアンデの目が、狂的な光を宿す。
「鐘の音(周波数)で、無意識に刷り込みを……。コルネリウス、あの老狐……!」
「だが、今夜は、その調律を乱させてもらう」
セルゲイは、義手を機構の奥深くに差し込んだ。
「リリアンデの嬢ちゃんが解読した『逆順』。……中、小、大。これを、日没の鐘と同時に、強制的に鳴らす。ほんの数十秒だが、『律』の観測網に、致命的な『穴』が開くはずだ」
「……頼む」
レオナルドが、ゴクリと喉を鳴らす。
「父上……いや、この国が、あの老人の玩具にされるのは、もうたくさんだ」
「よし……。日没まで、あと三十秒……!」
リリアンデは、鉄格子の窓から、王都の地下へと続く、ある一点を見つめていた。
(……ガリウス。あの老兵も、この『穴』に気づいているはず。……あなたも、動くのでしょう? この、神の目が眩む、一瞬に)
セルゲイが、義手に力を込める。
◆ ◆ ◆
王都、大聖堂地下。
禁断の祭壇。
ガリウスは、汚泥の匂いを纏ったまま、その場所に立っていた。
そこは、コルネリウスの私室とは比べ物にならないほど、濃密な『淀み』に満ちていた。
壁や床には、血管のように、青白い鉱石が張り巡らされている。
(……『第一調整塔』と同じだ。いや、それ以上に、ここは『律』の根幹に近い……)
祭壇の中央には、黒い水晶が、不気味な心音を立てて脈動していた。
ガリウスが、それに近づこうとした、その時。
「――待ちわびておりましたぞ、三十年ぶりに、な。ガリウス・ヴァンドール」
祭壇の闇の中から、コルネリウスが、音もなく姿を現した。その手には、あの禍々しい『魔浄の短剣』が握られている。
「……ジジイ。やはり、ここにいやがったか」
「貴様が、あの『偽りの星』を追って南へ向かわなかったことなど、お見通しです」
コルネリウスの目は、王宮で見た老人のそれではなく、狂信と、絶対的な権力への渇望に燃えていた。
「三十年前、貴様は『律』を裏切った。アランの魂ごと、聖剣の『器』を破壊しようとした。だが、しくじったな」
「……!」
「聖剣の力は、欠片となって、貴様のその眼帯の下に、今も残っている。……そうでしょう?」
ガリウスは、砕けた剣の柄を握りしめ、身構えた。
「アランを……友を狂わせたのは、貴様らか!」
「人聞きの悪い。我らは、ただ、『律』に従い、世界を維持してきただけ。そのために、勇者の魂が『燃料』として必要だった。それだけのこと」
コルネリウスが、短剣をガリウスに向けた。
「その『燃料』が尽きた今、代わりが必要なのです。……そう、聖女の『聖性』。あるいは、魔王の『魔性』がね。そのために、今、あの偽物の小僧が、南で『引き金』を引いているはずです」
ゴ――――――――ン……。
その瞬間、王都に、日没を告げるはずの、鐘の音が響いた。
だが、それは、いつもの荘厳な和音ではなかった。
中鐘が鳴り、 (三十秒の沈黙)
小鐘が、甲高く鳴り、 (一分の沈黙)
大鐘が、地響きのように唸った。
『逆順』の鐘。
王都の『律』の観測網が、一瞬、その同期を失い、世界に、あり得べからざる「ノイズ」が走った。
鐘を鳴らした後、セルゲイの義手が『律』の力に侵食され、黒く変色していく。
「これが…『律』に触れた代償か…」
彼は迫る追手を前に、二人を地下へ突き飛ばす。
「待っ……!」
二人は、自ら追手と共に崩落する鐘楼の床に消えていくセルゲイを、視界の隅で追うことしかできなかった。
◆ ◆ ◆
南の荒野。
ゼフィルスが、エルミナの祈りを前に、引き金を握りしめ、硬直していた、まさにその瞬間。
世界が、ぐにゃり、と歪んだ。
「……!?」
王都で鳴らされた不協和音が、時空を超え、この地の魔素の流れを、致命的に乱したのだ。
その「ノイズ」は、ゼフィルスが握る『星の円盤』にとって、予期せぬ「起動命令」となった。
「――っ、しまっ……!」
ゼフィルスが、円盤を投げ捨てようとするより早く、それは彼の掌の中で、灼熱の光を放った。
キィィィィィィィィィィィンッ!!
あの、忌まわしき『音』が、ゼフィルスの意志とは無関係に、最大出力で、放たれた。
だが、その矛先は、エルミナではなかった。
ゼフィルスが、エルミナの純粋な瞳に怯え、無意識に、その手を、最も敵意を向けてくる相手――バルトロメオ――へと、わずかに傾けていたからだ。
「――がッ……!?」
防壁の上で弩を構えていたバルトロメオが、音の直撃を受けた。
「グ……ガ……アアアアアアアッ!」
オークどもと同じ。脳髄を直接かき混ぜられる苦痛。
「……て、め……ぇ……」
バルトロメオの目や耳から、血が噴き出す。
彼は、その最後の力を振り絞り、握りしめていた弩の引き金を、引いた。
放たれた矢は、狙いを違え、音の発生源であるゼフィルス――ではなく、その隣で、あまりの事態に硬直していた、シルヴィア・ブレイズの、鎧の隙間――その喉元に、深々と突き刺さった。
「……かはっ……」
シルヴィアは、信じられないものを見る目で、自分の喉に刺さった矢を見つめ、そして、ゼフィルスを見た。
「……やはり、お前は……『偽物』……」
彼女は、血泡を吹きながら、馬から崩れ落ちた。
「……あ……」
ゼフィルスは、目の前で起きた、二重の惨劇に、声も出なかった。
バルトロメオは、血反吐を吐きながら防壁から転落する。
シルヴィアは、喉を掻きむしりながら、動かなくなる。
そして、エルミナは。
彼女は、血の海に倒れたシルヴィアの元に駆け寄り、その傷口に、震える手を置いた。
「……いや……いやぁぁぁぁぁっ!!」
彼女の『聖癒の波動』が、ゼフィルスの『奇跡』への、純粋な「拒絶」と「怒り」によって、暴走した。
淡い光ではない。
集落全体を圧するほどの、白く、焼き尽くすような『光の柱』が、エルミナの体から、天へと迸った。
その光は、周囲の魂魄病の患者たちを癒すどころか、彼らの魂を、そのあまりの「聖性」で、焼き切った。
「「「グアアアアアアアア!!」」」
聖女の光を浴びた患者たちは、癒されることなく、その場で黒い炭へと変わっていく。
偽りの星の暴力が、本物の聖女を、本物の『怪物』へと、変貌させた瞬間だった。




