13.聖衣の裾を濡らすのは血か涙か
豚は、別の豚を屠るため、再び屠殺場へと送り出される。
南へと向かう街道は、地獄への一本道だった。
王都の民衆は、熱狂していた。
「星の御子、聖女を救うため、魔王軍の残党討伐へ!」
――コルネリウスが流した情報は完璧に機能し、ゼフィルスとシルヴィアの部隊は、英雄の凱旋さながらに見送られた。
だが、部隊の空気は鉛のように重い。
「……」
先頭を行くゼフィルスとシルヴィアは、出発から三日、必要最低限の言葉しか交わしていなかった。
ゼフィルスは、馬上ですら、あの『音』の反響に怯え、夜は悪夢にうなされていた。
聖女を殺す?
あの音で?
自分がオークどもにしたように、あの狂気の音波で、人間の女を、内側から破裂させる?
(……無理だ。無理だ。無理だ……!)
だが、彼の首には、コルネリウスという主人が付けた、見えない黄金の首輪が食い込んでいる。
「――震えているぞ、星の御子」
隣を並走していたシルヴィアが、吐き捨てるように言った。
その瞳は、凍てついた湖面のように、何の感情も映していない。
「……武者震いですよ。南の荒野には、魔王軍の残党が潜むとか」
「ほう。貴様は、あの『人喰い砦』を一人で滅ぼしたのではなかったのか? 今更、オークの残党ごときに震えるとはな」
シルヴィアの言葉は、鋭い氷の針だった。
(……この女。分かってやがる。俺が偽物だってことに、とっくに気づいてやがる……)
シルヴィアは、ガリウスの衝撃的な告白によって、自らが信じてきた「正義」と「騎士団の誇り」の土台そのものを破壊されていた。
(先代勇者は、友に殺されるほど壊れていた。今代の勇者は、聖女殺しを命じられる傀儡。……ならば、私の剣は、何を守るためにある?)
彼女は、ゼフィルスという哀れな詐欺師と、彼に「聖女殺し」を命じたコルネリウスと、そして、その命令に黙って従おうとしている自分自身に、強烈な嫌悪感を抱いていた。
◆ ◆ ◆
その頃、南の荒野。
共同体『ノア』。
そこは、地獄の釜の底に咲いた、一輪の蓮の花だった。
周囲の荒野では、野盗が横行し、魂魄病で倒れた者は、仲間に食われるか、あるいは『成り果て』となって仲間を食う。
だが、エルミナが引いた境界線の内側だけは、奇跡的な秩序が保たれていた。
「……あ……あ……熱い、助けて……」
掘立小屋の中で、魂魄病に侵された男が、獣のように呻いている。
その肌は土気色に変わり、瞳は白濁し始めている。
「大丈夫。あなたは、まだ、人間よ」
エルミナが、その痩せた手で、男の額に触れる。
淡く、温かい光――『聖癒の波動』が、彼女の掌から溢れ出した。
男の荒い呼吸が、次第に穏やかになっていく。濁った瞳に、わずかな理性の光が戻る。
「……あ……。聖女、様……」
「よかった……」
エルミナが安堵の笑みを浮かべた、その瞬間。
彼女は、自らの胸元に走った、針で刺すような鋭い痛みに、小さく顔を歪めた。
服の下、彼女の清らかな胸の谷間に、まるで墨を垂らしたかのような、小さな黒い鱗が、一枚、また一枚と増えていることを、彼女以外、まだ誰も知らない。
人々を癒せば癒すほど、彼女は世界の淀みをその身に吸い上げ、確実に、人ならざるものへと近づいていた。
「――聖女様ァ! お届けモンだぜェ!」
その時、集落の外から、場違いな声が響いた。
現れたのは、大陸最大の商業ギルド「金獅子」の紋章を掲げた、巨大な輸送隊だった。
率いているのは、金色の髪をなびかせた男、バルトロメオ・ガッツォ。
「よぉ、聖女様。テメェの『お祈り』じゃ、腹は膨れねぇだろうと思ってな。極上の小麦と、とっておきの薬を運んできてやったぜ」
次々と降ろされる食料と医薬品の山に、避難民たちが歓喜の声を上げる。
「あ、ありがとうございます、バルトロメオ様!」
エルミナが深々と頭を下げる。
「ああ? 様はやめろ、気色悪ぃ。俺は『投資』してるだけだ。……おい、そっちのも降ろせ!」
バルトロメオが顎でしゃくった先、最後の荷馬車の幌が外される。
現れたのは、陽光を鈍く反射する、おびただしい数の「弩」と「槍の穂先」だった。
「……!」
エルミナの顔から、血の気が引いた。
「……武器は、要りません! ここは、奪う場所ではなく、与え、癒す場所です!」
「ハッ」
バルトロメオは、心底可笑しそうに、黄金の歯を剥き出しにして笑った。
「聖女様よぉ。アンタのその『聖癒の波動』とかいう甘ったるい匂いが、どれだけ多くの獣(成り果てや野盗)を惹きつけてるか、分かってねぇのか?」
彼は、エルミナの耳元に顔を寄せ、囁いた。
「アンタの理想は、金になる。だが、その理想を守るためには、結局、血より汚ねぇモンが要るんだよ」
◆ ◆ ◆
王都、軟禁部屋。
リリアンデは、カサンドラが残した『鐘の音は、なぜ三度、鳴るのか?』というメモを睨みつけ、神経質に指で机を叩いていた。
「……鐘。鐘。王都の鐘は、朝、昼、晩の三回、時報として鳴らされる。当たり前じゃない。……違う。あの怯えたネズミ(カサンドラ)が、命を懸けて伝えてきた情報が、そんな当たり前のことな訳がない……」
レオナルドが、不安げに彼女を見つめている。
「リリアンデ、少し休んだらどうだ……」
「黙ってて! 私の頭脳は、追い込むほど冴えわたるんだから!」
その時、コン、コン、と扉がノックされ、カサンドラが再び食事を運んできた。
カサンドラが盆を置き、怯えたように退出しかけた、その瞬間。
リリアンデは、音もなく彼女の背後に回り込み、その細い喉に、食事用のナイフを突きつけていた。
「きゃっ……!」
「しゃべりなさい、ネズミ」
リリアンデの声は、氷のように冷たかった。
「あのメモの意味は何? あなた、誰に言われて、これを?」
「ち、違……私は、ただ……」
「嘘。あなたの瞳、泳いでるわよ。白状しなさい。さもないと、この場であなたの喉を切り裂いて、人体の構造を復習することになるわよ」
その狂気に、レオナルドもカサンドラも凍りつく。
「わ、分かりました! 話します!」
カサンドラは、涙ながらに、祭司見習いだけが立ち入ることを許される、古い祈祷書の保管室のことを話した。
「……父が、昔、そこの写字生でした。父は、何かに気づいて……古い祈祷書の余白に、私にしか分からない、鉛筆の書き込みを……」
「それを、見せなさい」
カサンドラは、震える手で、服の合わせ目から、古い祈祷書のページの写しを取り出した。
そこには、聖句の横に、子供のイタズラ書きのような、音符とも取れる奇妙な記号が、鉛筆で小さく書き込まれていた。
リリアンデは、その記号を見た瞬間、目を見開いた。
「……これは……音階じゃない。順番……? 『中』、『小』、『大』……? まさか……!」
彼女は、窓に駆け寄り、王都に点在する三つの大鐘楼を睨みつけた。
「……そういうこと。あの鐘、ただの時報じゃない。王都全体に張られた『観測』を調整する……音の鍵! そして、この順番は、通常の時報とは、逆!」
リリアンデの顔に、悪魔的な歓喜の笑みが浮かんだ。
「……見つけたわよ、コルネリウス。あなたの、黄金の鳥籠から抜け出す、裏口をね」
◆ ◆ ◆
その頃、ガリウスの軟禁部屋。
見張りの騎士が、扉の外で退屈そうに欠伸をした、その瞬間。
ガリウスは、ベッドの下の床板を、音もなく剥がしていた。
そこには、王都の地下水道へと続く、古い縦穴が、暗い口を開けていた。
(……シルヴィアの小娘、俺の告白に、芯まで揺らいでいやがった。コルネリウスの命令と、己の正義の間で、必ず、迷う)
彼は、小さな革袋に、干し肉と水筒を詰めながら、自らの左眼――眼帯の下の古傷に触れた。
(……アラン。お前の地獄は、まだ終わっちゃいねぇらしい。そして、俺の地獄もな)
彼は、眼帯の下に埋め込まれた、硬い異物の感触を確かめる。
(聖女殺し、ね。コルネリウスのジジイ、本気で『律』を私物化する気か)
ガリウスは、音もなく地下の闇へとその身を沈ませた。
(……偽物の星と、本物の聖女。どっちが死んでも、地獄は加速する。だが、その前に、俺が盤面をひっくり返してやる)




