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12.沈黙はどの駒を進めるための手か

屠殺場から生還した豚は、今や黄金の首輪をつけられた。


大聖堂の最奥、コルネリウスの私室。

そこは、祈りの場というより、高圧的な尋問室の空気が漂っていた。

焚かれた高価な香の匂いが、ゼフィルスの冷や汗の酸っぱい匂いと混じり合い、不快な芳香を放っている。


「――実に見事であった、我が『星の御子』よ」


コルネリウスは、ゼフィルスの頬に、まるで貴重な陶器でも検分するように、皺だらけの冷たい指を這わせた。

ゼフィルスは、その爬虫類のような感触に背筋を凍らせながらも、完璧な聖者の笑みを顔に貼り付けている。


「神の御力と、猊下のご指導の賜物です」

「ほう。神、か」


コルネリウスは、その指をゼフィルスの唇まで滑らせ、その柔らかい肉を、侮蔑するように押し潰した。


「思い上がるなよ、小僧。貴様は『奇跡』なのではない。貴様は、民衆が奇跡を信じるための『道具』だ。そして、道具は、持ち主の意のままに動けばよい」

「……はい」

「よい返事だ。ならば、次なる『神事』を授けよう」


コルネリウスは、ゼフィルスの耳元に冷たい言葉を囁き込んだ。


「南の荒野で、病人を癒すなどと謳う『聖女』を名乗る小娘がおる。神の奇跡は、聖教会と、この私を通した『星の御子』だけにあればよい。……分かるな?」

「……」

「その偽りの聖女を、神の雷で『浄化』してこい。民衆の前でな」


それは、エルミナを公開処刑せよという、紛れもない指令だった。


「……御心の、ままに」


ゼフィルスは、もはや後戻りのできない、血塗られた嘘の道を、受け入れるしかなかった。


◆ ◆ ◆


豚は、別の豚を屠るため、再び屠殺場へと送り出される。


コルネリウスの私室から退出したゼフィルスは、大理石の冷たい廊下で、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死で支えていた。


(……聖女を、殺せ……? あのジジイ、正気かよ……!)  


砦のオークどもを殺したのとは訳が違う。

今度は、民衆に「聖女」と呼ばれている、か弱い少女を、大衆の目の前で、あの『音』で、八つ裂きにしろというのだ。


(……無理だ。できねぇよ。だが、断れば、俺が『偽物』だとバレて、ここで浄化ころされる……)  


彼の脳裏に、コルネリウスの、唇を弄んだあの冷たい指の感触が蘇る。

吐き気がした。

あの老人は、自分を人間として見ていない。

ただの、便利な「道具」としてしか。


「――顔色が悪いな、星の御子」  


声に振り返ると、そこには、鋼の鎧を身に纏ったシルヴィア・ブレイズが、氷のような無表情で立っていた。


「……シルヴィア、殿。あなたも、南へ?」

「ああ。猊下直々の命令だ」  


シルヴィアは、ゼフィルスから目を逸らさず、その言葉に、隠しようのない侮蔑を込めた。


「貴様が、『神事』をしくじることなく完遂できるよう、万が一の事態に備えて、な」  


『万が一』。

それは、ゼフィルスが逃亡するか、あるいはエルミナ殺害を躊躇った場合、シルヴィア自身の手で、二人まとめて処断するという意味だった。


「……それは、頼もしい限りです」  


ゼフィルスは、顔を引きつらせながら、完璧な笑みを返した。


(クソが……。監視役かよ。それも、騎士団最強の女狐と来た……)  


偽りの英雄と、彼を断罪の目で見つめる監視役。

二人の、破滅的な旅が始まろうとしていた。


◆ ◆ ◆


同じ頃、王宮の塔、その最上階。  

軟禁されたリリアンデとレオナルドは、まったく対照的な時間を過ごしていた。


「……もう、終わりだ。我々は、何もできなかった……」  


レオナルドは、鉄格子の嵌まった窓から、ゼフィルスの凱旋に熱狂する王都を見下ろし、力なく項垂れていた。


「黙っててくれる、無能な殿下。思考を停止した瞬間に、人間はただの肉塊よ」  


一方、リリアンデは、床に散らばった羊皮紙に、記憶だけを頼りに、あの地下遺跡で見た『天上の民』の文字を書き殴っていた。

その目は、獲物を見つけた肉食獣のように、ギラギラと輝いている。


「……おかしい。あの『メフィア』という単語だけ、他の文字と構成が違う。あれは、記録じゃない……。あれは、起動した『意志』そのものだわ……」

「何を言って……」  


レオナルドが、彼女の狂気に当てられ、後ずさった、その時。   

軟禁部屋の扉が開き、一人の小柄な祭司見習いの少女が、食事の盆を持って入ってきた。

そばかすの浮いた、怯えた小動物のような少女。


「……お食事、です……」  


少女――カサンドラは、リリアンデたちの緊迫した空気に怯えながら、そそくさと食事をテーブルに置いた。  

レオナルドが礼を言おうと口を開くより早く、カサンドラは盆の下から、一枚の小さな羊皮紙を滑らせ、リリアンデの前に置いた。  

そして、そそくさと部屋から出て行った。  

残された羊皮紙。そこには、ただ一言、こう書かれていた。


『鐘の音は、なぜ三度、鳴るのか?』  


リリアンデは、その謎めいたメモを見つめ、ニヤリ、と口角を吊り上げた。


「……面白いわ。ネズミが、籠の中に『鍵』を放り込んできた」


◆ ◆ ◆


王都の片隅、騎士団の詰所。  


ガリウスもまた、軟禁状態に置かれていた。

部屋の外には、シルヴィアの部下であろう騎士たちが、見張りとして立っている。


(……コルネリウスのジジイめ。俺とシルヴィアを分断し、あの偽物の小僧を、あの女狐につけて南へやったか……。狙いは、あの『聖女』とやらか)  


ガリウスが、三十年前の悪夢を反芻していた、その時。  

部屋の扉が開き、シルヴィアその人が入ってきた。

彼女は、南への出立前の、完全武装だった。


「……出立前に、一つだけ、貴様に聞かねばならんことがある」  


シルヴィアは、ガリウスから距離を取り、いつでも剣を抜ける体勢で、彼を睨みつけた。


「あの魔族のリチェルカが言っていた、先代勇者アラン・フォン・シルヴァード。……三十年前、あの旅の最後に、一体何があった? 騎士団の記録に記されていない、何を隠している!」  


ガリウスは、ゆっくりと振り返った。

その隻眼は、深い憎悪と、それ以上に深い哀しみで淀んでいる。


「……小娘が、知ったところでどうにもならん」

「答えろ! 私は、騎士団の誇りにかけて、不正を見過ごすわけにはいかない!」

「誇り、だと?」  


ガリウスは、嘲るように鼻を鳴らした。


「テメェらの誇りってのは、コルネリウスのケツを舐め、偽物の小僧の『聖女殺し』の介添えをすることか?」

「なっ……!?」  


シルヴィアの表情が凍りついた。

彼女は、今回の任務の真の目的を知らされていなかったのだ。


「アランはな……」  


ガリウスの声が、低く、重くなった。


「……呪われていたのさ。聖剣に。いや……あのクソったれな『勇者という役目』そのものに。あいつは、魔王を倒した後、英雄として死んだんじゃねぇ。……ただの、『抜け殻』になって壊れたんだ」

「……何を、言って……」

「俺は、友を救えなかった。いや……」  


ガリウスは、眼帯を押さえた。

その下の古傷が、焼けるように痛む。


「……俺が、この手で、殺した」


シルヴィアは、その衝撃的な告白に、息を呑んだ。


目の前の老兵が、ただの過去の亡霊ではなく、この国の最も神聖な歴史を汚した、大罪人であることを知った。

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