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11.栄冠はどの屍を踏んで輝いたか

屠殺場から生還した豚は、英雄として迎え入れられた。


王都は、沸騰していた。


『星の御子ゼフィルス、単騎にて人喰い砦を神の雷で滅ぼす!』  


そんな見出しが、号外となって王都中を駆け巡った。

砦から逃げ帰った騎士たちが、恐怖と興奮がない交ぜになった状態で語った「奇跡」は、尾ひれがついて民衆の狂信に火をつけた。


「「「我らが星の御子! ゼフィルス様、万歳!」」」


再び行われた凱旋パレード。

だが、その様相は前回とは全く異なっていた。  

ゼフィルスは、泥と吐瀉物で汚れたままの鎧で、虚ろな瞳のまま馬に揺られていた。

民衆は、その「死闘の証」を見て、さらに熱狂する。


「おお……! あれほどのお姿になられても……!」

「我らのために、地獄と戦ってくださったのだ!」


(……違う……俺は、何もしてない……)


ゼフィルスの耳には、民衆の歓声は届いていなかった。  

今も、あの『音』が、脳髄の奥で反響している。

オークどもの断末魔。

仲間同士で殺し合う、あの地獄絵図。

そして、自分の無力さ。  

彼は、自分が起こした奇跡の、そのあまりの暴力性に、魂の芯まで凍え切っていた。


パレードの道すがら、一人の母親が、人垣をかき分けて飛び出してきた。

その腕には、魂魄病で肌が土気色に変色し始めた、幼い赤子が抱かれている。


「ゼフィルス様! どうか、どうかこの子に、星のお恵みを!」  


女は泣きながら、ゼフィルスの足元に赤子を差し出した。  

ゼフィルスは、ビクリと肩を震わせた。


(やめろ……俺に触るな……俺は、偽物だ……)  


彼が後ずさろうとした、その時。


赤子の虚ろだった瞳が、ゼフィルスを捉えた。

そして、ふにゃり、と笑ったのだ。  

まるで、彼が本物の救世主であると、疑いもせずに。


「……あ……」


ゼフィルスの心臓が、奇妙な音を立てて軋んだ。  

生まれて初めて向けられた、嘘偽りのない、純粋な信頼の眼差し。  

それは、どんな女の媚態よりも、どんな権力者の賞賛よりも、彼の心を強く揺さぶった。  

彼は、震える手を伸ばし、気づけばその赤子の額に、そっと触れていた。


(……俺は、偽物だ)  


脳がそう叫ぶ。


(……だが、こいつらの、この想いは、本物だ)  


心がそう応える。


(……なら)  


彼の虚ろだった瞳に、初めて、狂気とも覚悟ともつかない、鈍い光が宿った。


(……俺が、本物になってやればいいじゃねぇか)


いつかバレる恐怖。

死地への怯え。

それらすべてを、この瞬間に彼を捉えた、甘美な「支配欲」と「存在意義」が塗りつぶしていく。


「……案ずるな。星は、汝らを見捨てない」  


彼は、集まった民衆に向かって、完璧な救世主の笑みを浮かべてみせた。  

もう、震えはなかった。  

この嘘が自分を殺すその瞬間まで、この世界で最も偉大な詐欺師として、すべてを演じきってやろう。  

彼は、そう決意した。


◆ ◆ ◆


ゼフィルスが凱旋したその日、ガリウスたちは、王都の地下から、まるで亡霊のように這い出てきた。  

だが、彼らを待っていたのは、ゼフィルスへの熱狂に浮かされた王都と、大司教コルネリウスの冷酷な罠だった。


「――第三王子レオナルド・フォン・アルストリア。及び、王立アカデミー所属、リリアンデ・アシュフィールド」  


王宮に戻るや否や、彼らは聖騎士団に取り囲まれた。


「禁書庫への不法侵入、及び、国家機密指定区域『第一調整塔』への無断侵入の容疑により、身柄を拘束する」

「なっ……! 待て、コルネリウス! 我々は、世界の危機に関する重大な情報を……!」

 

レオナルドが抗議するが、コルネリウスは冷ややかに笑うだけだった。


「ほう? 星の御子様がもたらした『奇跡』以上の、重大な情報が、おありかな?」  


彼は、もはやレオナルドたちを必要としていなかった。

ゼフィルスという、より御しやすい『偶像』を手に入れた今、中途半端な真実を知る者は、邪魔でしかない。


「シルヴィア、ガリウス。貴様らも、王子を唆した共犯者として、厳重な監視下に置く。次に不穏な動きを見せれば、即刻、異端者として処断する」


情報は、完璧に分断された。  

リリアンデとレオナルドは、塔の最上階に軟禁された。

ガリウスとシルヴィアは、互いに監視し合う形で、行動の自由を奪われた。  

彼らが命懸けで掴んだ『メフィア』という鍵は、誰にも届くことなく、王都の熱狂の底へと沈んでいった。


◆ ◆ ◆


場面は変わって、南部の荒野。  

そこは、戦火と魂魄病から逃れてきた、行き場のない避難民たちが集う、無法地帯だった。  

弱った者が死ねば、その死肉を巡って殺し合いが起きる。

女子供は、わずかな食料のために、その純潔を獣のような男たちに差し出す。

それが、ここでの日常だった。


だが、その地獄の中心に、一つだけ異様な場所が生まれつつあった。  

共同体『ノア』。  

エルミナ・クレストが、あの日の「耐呪麦」の種を元に、人々をまとめ始めた、小さな集落だ。


「……痛い……熱い……うう……」  


掘立小屋の中で、魂魄病に侵され、『成り果て』へと変貌しかけている男が、苦しげに呻いていた。

周囲の者たちは、恐怖のあまり、彼を殺そうと棍棒を握りしめている。


「やめて! まだ、間に合うから!」  


その前に立ちはだかったのは、エルミナだった。  

彼女の服は汚れ、頬は痩けていたが、その瞳だけは、あの日の絶望を乗り越えた、聖母のような慈愛に満ちていた。


「……大丈夫。あなたは、まだ、人間よ」


エルミナは、苦しむ男の、土気色に変色した額に、そっと手を置いた。  

すると、信じられないことが起きた。  

彼女の手のひらから、淡く、温かい光が溢れ出す。

それは、彼女の無意識の力――『聖癒の波動』。  

男の荒い呼吸が、次第に穏やかになっていく。

肌の淀みが薄れ、濁っていた瞳に、わずかな理性の光が戻ってきた。


「……あ……。天使、様……?」  


男は、涙を流しながら、エルミナの手を握った。  

その奇跡を目の当たりにした避難民たちは、一斉にその場にひれ伏した。


「聖女だ……!」

「俺たちにも、どうかお恵みを!」  


エルミナは、ただ困ったように微笑むだけだった。


だが、彼女のその力は、祝福であると同時に、呪いでもあった。  

淀んだ魔素を浄化するその波動は、同時に、より濃く、より邪悪な魔素を惹きつける性質を持っていたのだ。


その頃、商業ギルド「金獅子」の長、バルトロメオの元に、二つの報告が届いていた。


「……ほう。王都じゃ『星の御子』が砦を一つ消し、南じゃ『聖女』が病人を癒してる、か」

 

彼は、金貨を指で弾きながら、爬虫類のような目で天秤にかけていた。


「猊下、どちらに『投資』を? 『星の御子』は聖教会の後ろ盾があり、確実なリターンが見込めますが……」

「……いや」  


バルトロメオは、金貨の回転をピタリと止めた。


「その『聖女』とやらに、ありったけの物資を送れ。食料、薬、武器。ギルドの輸送網を総動員しろ」

「なっ!? あのような、いつ潰れるとも知れぬ集落にですか!?」

「ああ。青臭い理想論は、腹が膨れねぇ。だがな……」


彼の脳裏に、妹の最後の笑顔が蘇る。


「……腹が膨れねぇ理想ほど、高く売れるもんはねぇんだよ。あの娘が本物の『聖女』なら、いずれ、世界中の『祈り』が、あそこに集まる。その価値は、黄金なんぞじゃ計れねぇ」


偽りの星が、嘘を覚悟に変えた。  

真実の探求者たちは、籠の中の鳥となった。  


そして、本物の聖女が、その意図とは関係なく、新たな『希望』という名の火種を、地獄の荒野に灯し始めていた。

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