10.何の代価で奇跡は売られたか
必然の奈落の縁に立ち、彼は地獄の門を見つめていた。
『人喰い砦』から漏れ聞こえる音は、もはや悲鳴ですらなかった。
肉が引き裂かれる湿った音。
骨が砕ける乾いた音。
そして、オークどもの腹の底から響く、満足げな咀嚼音。
ゼフィルスは、豪華な軍馬の上で、全身の筋肉が硬直するのを感じていた。
膀胱が限界まで圧迫され、熱い尿が太腿を濡らす感触があったが、もはや羞恥を感じる余裕もなかった。
「……ひ……あ……」
屠殺場に引かれる豚のように、意味のない声が喉から漏れる。
「さあ、お行きください、星の御子様」
背後から、監視役の騎士が槍の柄で馬の尻を突く。
その声には、隠そうともしない嘲笑が滲んでいた。
「神の奇跡とやらを、我々に見せていただけると、大司教猊下も喜ばれましょう」
進めば、オークに八つ裂きにされ、内臓を引きずり出され、生きたまま喰われる。
退けば、偽物として、この場で騎士たちに斬り殺される。
(……どっちも、死ぬじゃねぇか……)
絶望が、彼の思考を鈍らせる。
だが、その鈍った思考の、さらに奥底。
詐欺師として生き延びてきた彼の本能が、最後の悪あがきを叫んでいた。
(……死ぬのは同じだ。だが、ただ殺されるのは、俺の流儀じゃねぇ……!)
ゼフィルスは、震える手で、懐からあのガラクタ――『星の円盤』を取り出した。
これが成り果てに効いたのは事実だ。
だが、相手は武装した魔王軍の正規兵。
万に一つも、勝ち目はない。
それでも。
「……ああ……」
彼は、涙と鼻水と失禁でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
そして、役者人生のすべてを懸けて、天に向かって絶叫した。
「――来たれ、星よッ! 我が呼び声に応え、不浄なる者どもを滅ぼせッ!!」
もちろん、何も起きない。
砦の上の見張りが、その滑稽な姿を指差し、腹を抱えて笑っている。
「ヒヒヒ! 人間の小僧が、何か喚いてやがるぞ!」
「神にでも祈ってんのか? 間に合うといいなァ!」
オークたちが、巨大な棍棒を担ぎ、地響きを立てて砦の門からぞろぞろと出てきた。
その目は、新鮮な獲物を見つけた獣の欲望でギラついている。
(……ああ、ここまでか……。クソみてぇな、人生だったな……)
ゼフィルスがすべてを諦め、馬の上で目を閉じた、その瞬間。
キィィィィィィィィィンッ!!
『星の円盤』が、彼の掌を灼くかと思うほど、高熱を発した。
それは、砦から溢れ出る、おびただしい数の死者の怨念――濃密すぎる『淀んだ魔素』に、アーティファクトが強制的に共鳴させられた結果だった。
「――なっ!?」
次の瞬間、ゼフィルスが発したのではない、もっと純粋な『音の暴力』が、砦全体を叩き潰した。
絶対的な不協和音。
空間そのものが歪み、空気がゼリーのように震えた。
「グ……ガ……アアアアアアアッ!?」
砦から出てきたオークたちが、一斉に頭を抱えて苦しみ出した。
目や耳、鼻から、血が噴き出す。
脳髄を直接、熱した鉄の棒でかき混ぜられるような痛み。
「ぎ、ぎぎ……アニキ……? なぜ……」
「ウゴアアア!」
彼らは、その苦痛の原因が分からず、隣にいる仲間こそが敵だと誤認した。
砦の内部は、地獄の釜が開いたような大混乱に陥った。
オークがゴブリンの頭を噛み砕き、リザードマンが仲間の腹を槍で貫く。
狂気に駆られた彼らは、ただ目の前の動くものを破壊し、殺戮し始めたのだ。
「……は……?」
ゼフィルスは、目の前で起きている惨状が理解できなかった。
「な、なんだ……これ……」
その音波は、彼自身にも容赦はなかった。
脳が内側から圧迫され、強烈な吐き気がこみ上げる。
「お……おえええええっ!」
彼は馬の上から転げ落ち、胃の中身をすべて泥水の中にぶちまけた。
背後で、彼を監視していた騎士たちも、その超常的な光景に腰を抜かしていた。
「……ば、馬鹿な……」
「砦が……砦が、内側から……崩壊していく……」
「……まさか、本当に……奇跡、なのか……?」
ゼフィルスは、泥の中に突っ伏しながら、遠のく意識の中で、彼らの驚愕の声を聞いていた。
(……クク……。ハッタリが……通じやがった……)
彼は、人生最大の大博打に勝利したのだ。
その代償として、自らの魂が、あの冒涜的な音色に深く傷つけられたことも知らずに。
◆ ◆ ◆
一方、第一調整塔の地下空洞。
リチェルカが消えた後、残されたのは、重い沈黙と、互いへの剥き出しの敵意だけだった。
「――アランッ!!」
最初に動いたのは、ガリウスだった。
彼は、リチェルカが消えた空間に向かって吼えると、そのまま拳で、近くの壁を殴りつけた。
ゴッ、という鈍い音と共に、壁が砕け、彼の拳から血が滴る。
「……あの女狐……! なぜ、アランの名を知っている……! なぜ……!」
彼の隻眼から、老人のものとは思えぬ、熱い涙がこぼれ落ちた。
友をその手で殺めた、あの日の悪夢が、鮮明に蘇る。
「……答えろ、ガリウス」
シルヴィアが、冷たく、研ぎ澄まされた剣先を、ガリウスの背中に突きつけた。
「貴様、一体何を知っている。先代勇者アランの死には、騎士団の記録と違う、別の真実があるのか!」
「……どけ。お前ら騎士団に、あいつの名を呼ぶ資格はねぇ」
「何だと!?」
一触即発。
「二人とも、やめなさい!」
レオナルドが、震える声で、しかし、王族としての威厳を振り絞って叫んだ。
「今は争っている場合ではない! 我々は、とんでもないものを知ってしまったんだぞ! それに……」
彼の視線が、空洞の隅で蹲るリリアンデへと向けられる。
彼女は、リチェルカに触れられた自分の頬を、まるで聖遺物にでも触れるかのように、うっとりと撫でていた。
「……すごい……。あれが、魔族……。あの知性、あの魔力……。脳が、沸騰しそう……」
その表情は、恐怖に怯える乙女のものではなく、禁断の果実を口にしてしまった、背徳的な恍惚そのものだった。
「……もっと知りたい。あの女のこと……ううん、この世界の『律』のこと、ぜんぶ……!」
「――正気か、小娘!」
ガリウスが、彼女の肩を掴み、無理やり現実に引き戻す。
「あの女が言っていた『メフィア』とは何だ! お前が読んだ記録に、他に何が書かれていやがった!」
「……分からないわよ! でも、それが、この世界の『律』を歪めた、何かの『名前』だってことだけは確かよ!」
四者は、互いを睨み合った。
三十年の罪を背負う老兵。
秩序と真実の間で揺れる騎士。
狂気に片足を突っ込んだ天才。
そして、自らの無力さを痛感する王子。
彼らは、敵意と疑念、そして「世界の真実」という共通の呪いを抱えたまま、ひとまず、この光の届かぬ遺跡からの脱出を図るしかなかった。
外の世界では、偽りの星が、本物の地獄を一つ、飲み込んだことなど、まだ知る由もなく。




