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1.誰が盤面から駒を盗んだか

その日、王都の誰もが同じ夢を見た。

空から、すべての星が、ひとつ残らず堕ちてくる夢だ。


音もなく、ただ静かに。

瑠璃色の涙のように尾を引きながら、無数の星屑が地上へと降り注ぐ。

それは終末の光景のはずなのに、不思議と恐ろしくはなかった。

むしろ、あまりにも美しく、人々は手を伸ばし、その冷たい光に触れようとする。


だが、触れた瞬間、星は砂のように砕け散り、指の間からこぼれ落ちていく。

掌に残るのは、二度と輝きを取り戻せない、ただの『星の灰』。


そんな夢だった。


◆ ◆ ◆


「――神は、沈黙された」


地鳴りのような祈りが支配していた大聖堂に、大司教コルネリウスの冷徹な声が、一本の氷柱を打ち込むように突き刺さった。


一瞬、時が止まる。

ステンドグラスに描かれた歴代勇者の武勇伝が、集まった民衆の顔に色とりどりの絶望を映し出した。

祭壇に鎮座する聖遺物『神の揺り籠』は、七日七晩の祈りを吸い込んだというのに、ただの石ころのように冷たいままだった。


「う、そだ……」


誰かの小さな呟きが、巨大な伽藍の空虚さを際立たせる。

側近の神官が、すがるようにコルネリウスの袖を引いた。

その顔は紙のように白い。


「猊下っ、何かのお間違いでは……! 神託が途絶えるなど、歴史上、一度も……!」

「黙れ」


コルネリウスは、神官を視線だけで黙らせた。

その瞳は、凍てついた湖面のように何の感情も映さない。


「神は間違いなど犯されぬ。ただ、事実を告げたまで。……『この時代、勇者の魂は生まれず』、とな」


その言葉が、引き金だった。


「ああ……ああああ……!」


最前列で祈りを捧げていた老婆が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

それを皮切りに、絶望は音を立てて伝染した。

嗚咽が、嘆きが、やがて怒号の渦となって、コルネリウスへと叩きつけられる。


「我らを見捨てられるのか!」

「魔王が来たらどうするのだ!」


その地獄絵図を、コルネリウスは祭壇の上から、まるで出来の悪い芝居でも鑑賞するように眺めていた。


(愚かな羊どもめ。一人の役者が舞台に上がらぬだけで、芝居そのものが終わったと喚き散らすか)


彼の思考は、常にこの世界の『ことわり』の一歩先を読んでいた。

勇者と魔王の戦い。

それは、淀んだ魔素を浄化し、この世界を延命させるための壮大な『大儀式』。

そして勇者とは、その儀式を起動させるための、最も純粋で、最も御しやすい『魂の鍵』に過ぎない。


(鍵が生まれぬのなら、別の鍵を探すか、錠前そのものをこじ開けるまで)

(嘆いている暇など、どこにある)


彼はゆっくりと両腕を広げた。

その姿は、まるで絶望する民衆すべてを抱きしめるかのようだ。


「静まれぃ、我が子らよ!」


威厳に満ちた声が、混沌を切り裂く。


「これは試練! 神が我らに与えたもうた、大いなる試練なのだ!一人の英雄に依存する脆弱な信仰を捨て、我ら自身の力で立ち上がる時が来たのだ!」


言葉は、麻薬だ。


彼はそれを知り尽くしている。

絶望の淵にいる者ほど、甘い言葉はよく効く。

民衆の顔に、怒りと悲しみの代わりに、狂信的な光が宿り始めたのを見て、コルネリウスは内心でほくそ笑んだ。


 ゴォン……。


その時、大聖堂の鐘楼が、まるで世界の訃報を告げるかのように、重く、長く、鳴り響いた。


――星が堕ちた日の、弔いの鐘が。


◆ ◆ ◆


北の果ての村。

ガリウス・ヴァンドールは、古びた長剣を手入れしていた。

使い古した布で刀身を拭う度、そこに刻まれた無数の傷が、鈍い光を反射する。

一つ一つの傷が、彼が殺めてきた命の記憶だ。


「じいさん、またそんなオンボロ磨いてんのかよ。それ、ちゃんと斬れるのか?」


背後から声をかけてきたのは、村の若者リオ。

その肩には、訓練用の木剣が担がれている。


「……ガキの腕じゃ、こいつの重みは支えられねぇな」

「うっせ! 俺だって、いつか本物の勇者様みたいに……!」

 

リオが勇者の名を出した瞬間、ガリウスの纏う空気が、スッと温度を下げた。


「……勇者、か」


その呟きには、常人には計り知れないほどの苦渋と、ほんのわずかな、殺意にも似た響きが混じっていた。


『ガリウス……俺たちは、この世界の大きな芝居を演じるだけの、哀れな役者だったんだ……』


脳裏に蘇るのは、三十年前に死んだ親友の最後の言葉。

勇者と呼ばれた男、アランが、血と涙に濡れながら、その魂を喰い散らかされて狂う寸前に吐き出した、あの日の声。


「勇者なんてのは、お前らが夢見るような、ピカピカのお飾りじゃねぇぞ」


ガリウスは、剣から目を離さずに言った。


「そいつは、誰よりも重い鎖をつけられて、世界の罪を一身に背負わされる、ただの生贄だ。舞台の上で、見事に血を流して死ぬのが仕事のな」

「な、なんだよ、縁起でもねぇ……。今日の儀式で、きっとすげぇ勇者様が生まれるって、都の商人も言ってたぜ!」

「……そうか」


ガリウスはそれ以上何も言わず、ただ黙々と剣を磨き続ける。

この若者に、英雄という名の悲劇をどう説明すればいい? 

友の心臓に、この手で剣を突き立てた男に、一体何が言える?


左目の眼帯の下、アランにつけられた古傷が、疼いた。

まるで、世界の歪みを敏感に察知しているかのように。


 ゴォン……。

遠く王都の方角から、風に乗って、弔いの鐘の音が微かに届いた。


「ん? なんの音だ?」


リオが不思議そうに首を傾げる。

だが、ガリウスは剣を磨く手を止め、ゆっくりと立ち上がった。その隻眼が、鉛色の空の、さらに奥にある何かを睨みつけていた。


「……地獄の、始まりの音だ」


◆ ◆ ◆


「――最高じゃないッ!!」


王立アカデミーの地下書庫。カビと古紙の匂いが充満する薄闇の中、リリアンデ・アシュフィールドの歓声が、埃を舞い上がらせた。

彼女は禁書棚の最奥で、一冊の古文書を胸に抱きしめ、恍惚の表情で身をよじっていた。

分厚い瓶底眼鏡の奥の瞳は、真理という名の獲物を見つけた狩人のように、爛々と輝いている。


「『天上の仕掛けの構造的欠陥と、魂魄摩耗の因果律』……! ああ、この背徳的なタイトル! ご飯三杯はいけるわ!」

「リリアンデ様! またそんなカビ臭い場所に! だからご縁が遠のくのですよ!」


年老いた司書が、提灯を片手に、息を切らしながらやってくる。


「ご縁より、この世界の構造式を解き明かす方がよっぽどスリリングよ。ねえ、司書さん。面白い仮説を思いついたの。聞いてくれる?」

「聞きません! さっさと戻ってください! ああ、もう!」


リリアンデは、司書の小言などBGM程度にしか聞いていなかった。

彼女は古文書のページを指でなぞり、そこに残された微かな魔素の痕跡を、まるで愛しい恋人の肌に触れるかのように感じ取っていた。


「この世界の『勇者と魔王の戦い』って、実は壮大な茶番劇なのよ。世界の巡りを保つための、古き『律』。そして勇者っていうのは、その律を起動させるための、『魂の鍵』……だとしたら?」

「さっぱり分かりません!」

「だとしたら、その鍵が生成されないなんて事態は、律そのものの崩壊を意味するの。あり得ないエラーなのよ。つまり――」


そこまで言った時、司書の顔が悲痛に歪んでいることに、リリアンデはようやく気がついた。


「……どうしたの? そんな、世界が終わったみたいな顔して」

「……終わり、なのかもしれません。リリアンデ様」


司書は、震える声で告げた。


「たった今、王都から伝令が……。勇者様は……お生まれにならなかった、と……」


「――なんですって?」


リリアンデの動きが、止まった。

彼女の頭脳が、秒間数億回とも言われる速度で回転を始める。

律の老朽化?

外部からの干渉?

それとも、前提そのものが間違っていた? 

可能性の枝葉が、一瞬にして思考の宇宙に広がっていく。


司書が、絶望に打ちひしがれる彼女を慰めようと、そっと肩に手を置こうとした。

だが、その手は空を切る。


「……ふふっ」


リリアンデの肩が、小刻みに震え始めた。


「ふふ、ふふふ……あはははははははっ!」


やがて、それは抑えきれない高笑いとなって、書庫の闇に響き渡った。


「そう来なくっちゃ! あり得ないことが起きてこそ、謎解きの始まりじゃない!」


彼女は眼鏡をクイと押し上げ、その瞳は狂気と歓喜の熱を帯びていた。


「勇者がいないんじゃない。何者かによって『消された』のよ!ああ、神様!なんて素敵な謎を、この私に仕掛けてくれるの!」


 ゴォン……。


弔いの鐘の音が、分厚い床を震わせ、彼女の足元まで届いた。

ある者にとっては絶望の始まりを。

ある者にとっては地獄の始まりを。

そして、この稀代の天才にとっては、世界で最も刺激的なゲームの始まりを告げる、祝砲の音だった。


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