二つ。
はじめに、この文章は特定の誰かを攻撃する意図を持つものではありません。
ここに記すのは、私自身が日々の社会の中で感じてきた違和感を、ひとつの思想としてアウトプットした文字の集合体にすぎません。
「趨勢」。
言い換えれば「多数派の流れ」、「マジョリティーの方向性」と言うべきでしょうか。私はこれを単なる統計的多数としてではなく、社会が無意識に選び取ってしまう流行りだとか、空気として捉えています。
そして私は、この趨勢に身を委ねる受動的な器をどうしても好きになれません。
「受動的な器」とは難しく聞こえますが、要は、自分の頭で考えることを放棄し、“あたりまえ”に流されることで形成されるイデアの結晶のようなものです。
私はそうした在り方が嫌いなんです。
マジョリティーが正しく、マイノリティーは誤っている——これをデモクラシーの名のもとに肯定する空気は、世界中に存在します。しかし歴史を振り返れば、多数派の正しさが暴走した瞬間にこそ、悲劇が生まれてきたことも少なくありません。
そしてそれは、過去の出来事に限りません。
現代でも、SNSの空気、消費文化の流行、政治的風潮、道徳的な正しさの押し付けなど、さまざまな領域・空間で同じ構造が再生産され続けています。
その姿を見るたび私は、趨勢から距離を置き、恬淡として在りたい。と感じることが多くなっていきました。
しかし、それはマジョリティーの立場ではなく、むしろ意図せずマイノリティーに位置づけられてしまう。
気がつけば、今の世界ではそのように感じられる機会が増えているように強く感じています。
近年、私が特に強く感じたのは、多数派が少数派を刺激する光景が増えて見えるということです。
意図があろうとなかろうと、多数派が“常識”や“正しさ”を掲げると、それは結果的にマイノリティーへの刺激となる。
そしてその刺激は、考える力を持った者ほど鋭く感じられる。
それが繰り返されることこそが、私が趨勢を嫌いな最大の理由なのです。
とはいえ、私たちの生活は趨勢が生み出す「あたりまえ」を土台に成り立っています。
社会造りも、モラルも、科学の常識も、カルチャーの基盤も、すべては“多数派が共有した価値”を通じて維持されています。
つまりは、マイノリティーとマジョリティーは常に共存する運命にあるということ。
どちらか一方だけでは世界は成立しない。
このバランスこそが重要なのです。
だからこそ、私はこの話を単なる二元論として語るべきではないと考えています。
「多数派が悪い」「少数派が正しい」という単純な対立ではないんです。
私が本当に伝えたいことは、これだけです。
どんな人であっても、自分の内側に「趨勢を受け入れる思考」と「反趨勢主義を掲げる思考」の両方を飼ってほしい。
多数派に参加することで生まれる安心と、一歩引いて見ることで保てる健全な批判性。
この二つが共存してこそ、社会も個人もバランスを保つことができます。
常識を享受しながらも、いつでも微かな違和感を大切にできる人であってほしい。
その中で感じた違和感は、間違いなく人々が耕してきた道なんだから。
耕す。




