知ろうとしなくていい事もある
ただ、二十五階に到着した時には、終わっていた。
戦いは終わっていた。
しかしご安心なされ。『終わっていた』という表現は、完了形ではなく進行形だ。
まさにその時、終わる最中だったのだ。
「あっ!あ……」
「いた!?……ああ」
「…………」
二十五階の一室。
周りの部屋では、その部屋だけを孤立させるかの如く、その部屋を囲む壁だけを残して殆どの壁や床が破壊されていて、ビルの骨組みだけの状態になっていた。ビルが崩壊しないかが心配だけれど、その辺はちゃんと考えて皆やってくれたんだろう。
そうして見事にその袋小路に『コーラー』を追い込んだのであろう隆谷寺さんが、壁を破壊し、その壁の中にいた何か…恐らくはコーラーに向かって、身体を突っ込みながら打撃技を打ち込み、まさにとどめを刺している瞬間を、わたしは見た。
角度的に壁の中までは見えなくとも音で判る……とんでもなく強力な打撃技だ。人間が打撃を打っただけのことでこんなに大きな爆音が鳴るのかと、驚愕するくらいの。
この人の打撃って、ここまで強かったっけと思うくらいの。
待てよ……思い返せば宇都宮市のあの時、馬垣くん相手に彼は『俺も本気を出さないと勝てないね』とか言っていたが、実際にはあの直後も、本気を出してはいなかった可能性だってあるのだ。
『今から本気を出すよ』とは一言も言っていなかった。
あそこで隆谷寺さんに股間を蹴り上げられた馬垣くんは、蹴り上げられた部分の大切な物が両方とも潰れたらしかったけれど、しかし隆谷寺さんが本当に本気で蹴っていたならば、その上にある恥骨まで骨折していたんじゃないかと思う。
そもそもあれは隆谷寺さんにとって負けることを前提にした戦いだったから、あそこで負けるためにわざと手を抜いたんじゃないかとも。
尤もその場合だって、隆谷寺さんを相手に生殺与奪の権を握るところまで行ってしまった馬垣くんは、死なないように敗北しようとしていた隆谷寺さんにとってはマジの大誤算だったのだろうけれど。
ともかく、そんな隆谷寺さんの本気の打撃を食らって、壁の中のコーラーは一撃で絶命したらしく、恐らくはそのコーラーの体液であろう黒い液体が、どろどろと壁の中から流れ出てきた。
そして、その血液なのか何なのかよくわからない墨汁のように黒い液体で身体が汚れることにも構わず、ゆっくりと鈍い足取りで、隆谷寺さんも出てきた。
「ん、隆谷寺…?」
「え?あの、隆谷寺さん……」
出てきた、のだが……
「……あんた、なんで泣いてんの?」
何故だろう。
隆谷寺さんは左目から、ほんの一滴、涙を垂らしていた。
「え!?『泣いてる』って……うわ!ほんとだ!いやあ参ったなこりゃ…!歳かな?いやいや、歳を取ると涙脆くなってしまって困るなほんとに…!」
一滴ばかりこぼれた涙を拭き上げながら、隆谷寺さんはいつもの調子で喋って、わたし達に言う。
「とりあえず、奴は始末した。親玉がいなくなれば、もうこのビルは大丈夫なんじゃない?」
「あ、はい……」
隆谷寺さんの顔は、いつも通りだ。顔は赤らんでなどいないし、もう目も潤んでなどいない。
でも……
「いや、何だったのよ今の涙は」
荻原さんが訊く。
確かに隆谷寺さんは、なんかどっかのタイミングで『泣きたい気分だ』とか言い出してたし、それがコーラーの気配を感じることに伴う現象ならば、あの時コーラーを直接目視したのであろう彼は涙の一つくらい流しても不自然ではないけれど……あ、荻原さんはそれについて知らないんだっけ。
「少し前から隆谷寺さんは、なんか泣きたい気分になってきたとか言ってたんですよ」
「そうなんだよねー……なんかこのビルに入って上の階に上がって来た辺りから、変に泣きたくなっちゃってたんだよ。まあ、涙が出ればそれは泣いているということになるのかということについては、議論の余地があるけど……それでさっきは、あんな土壇場なのにタイミング悪く涙が出ちゃったんだ」
「そうなの?よくわからないけれど……」
「…………」
わたしが前提知識の無い荻原さん達に説明してあげようとしたところ、隆谷寺さんがそれに乗じて、自分から弁明をした。
隆谷寺さんは独特な空気感を放つことがある。
彼の言うことがやけに尤もらしく感じてしまうような、妙に納得できてしまうような、それだけに口車に乗せられてしまいそうで何か怖くなってくるような、変な感じがあるのだ。
と言うか実際、宇都宮市ではそれで騙された。
そして今まさに、隆谷寺さんはその雰囲気を醸しながら、わたし達に一通りの説明をしたのだ。
言いくるめるように。
「こちら佐藤。コーラーの討伐に成功した。繰り返す、コーラーの討伐に成功した」
あの上官は佐藤さんって言うんだ。
「愁弥くん、怪我人はいる?」
「多分いない」
「なんだいないのか……よっこらせぇ」
こんな時でも掛け声に余念が無い目品ちゃんだったが、掛け声の直前に何か人として危うい発言が出たような気がするので、わたしは素早く自分の頭を全力で叩き、その記憶を消した。
という具合で話しているうちに砂原さんとかが駆け付けて来て、諸々の確認を行う流れになったので、わたしは何かモヤモヤとしたものを引きずりつつも、一旦死語を慎む。いや、『死語』も死語なのでやっぱり私語を慎む。
「どれ、コーラーの死骸は……うわっ」
皆で壁に空いた穴の中を覗こうとしたところ、床に広がる墨汁の如き黒い液体を上官がうっかり踏んでしまったようで、嫌そうな反応をした。
「なんだこれ……体液か何かか?」
その場にいる全員で穴を覗き込むが、ただ壁の中にはひたすら黒い液体が散乱しているだけで、別に死骸らしきものは見当たらない。
「これはまさかイカスミ?イカの貪食獣だったの?スプラ○ゥーンみたいに、壁や床の中を泳ぐイカの化け物……」
「荻原さん、あんたもゲーム好きかよ」
「この貪食獣には核みたいなのがあって、その核にこの黒い液体がくっついて吸着したような身体をしていたんだ」
「……何それ?」
隆谷寺さんによると、貪食獣『コーラー』は身体がほぼ液状であり、その液を一つの塊にまとめている核があって、核はビー玉くらい小さくて、ガラスのように硬く脆かったそうだ。
この床を濡らしている墨汁みたいなやつは、その液状部分だったものであるらしい。
「あ、ほら、なんかザラザラしたガラスの破片みたいなやつがあるじゃん。これ」
隆谷寺さんが壁の中に入って、一帯に広がる黒い液体で覆われた床に手を触れて色々と探った後、実際にガラスの破片のような物を見つけた。
……手が黒く汚れることにも構わずに、探って見つけた。
それは黒い液に濡れていてよく見えなかったが、そこで荻原さんの水筒の水をかけて洗ったことで、それが真っ白な破片だったことが判った。
ガラス片とかは鋭利な場合も多いので、怪我をすることの無いわたしに検分が任されたが、わたしがそれを摘んだり握ったりしてみても、特に変わったことは無い。ガラスに近い感じだと思う。
「なるほど、大部分が液体だから、壁の中を移動できたってことなのかな?」
「多分ね。液体って言っても、自由自在に形を変えたり維持したりできる液体だからね。例えるなら深海ちゃんの操る水か、もしくはターミ○ーターのT-1000か」
「いや、今時の若者はあんまり知らないですよそれ!」
わたしと目品ちゃん以外の皆が納得したような反応を見せるが、わたしはター○ネーターをよく知らん。
って言うか目品ちゃんは目品ちゃんで、一人だけ別の壁に向かって、右手に持った消毒液入りの袋を高く掲げるポーズを取っているし。
どういうポーズだよ。
生涯に一片の悔いも無さそうな格好しやがって。
この子、たまーにこういう奇行が見受けられるんだよな。
暫くして、砂原さんを追う形で大勢の上官が様子を見に来た。
基本的に日倭さんを始めとする上官ばっかりで、抵抗者メンバーは梨乃ちゃんとか馬垣くんとかぐらいしか来なかったけれど。
「あれ?二人とも、わたしのことを心配して来ちゃったのかな?」
「え?篠守さん、もう戻って来ていたんですか?」
「何だ、早いな……」
「う、うん」
「もう少し休んでいて欲しかったのですが」
「全身にダメージが残ってんだろ?外で休んどけよ」
……えーと、何故だろう、言っていることは親切っぽいのに、この台詞だとあたかも、わたしが二人から嫌われているかのような感じになってしまわないだろうかと思いかけたけれど、そんなのは邪推だろう。
とにかく上官達がコーラーの死骸を確認してから、全員でもう一度ビル全体を索敵した。
ビル内に多少は残っている筈だったヒトガタ達は全く見つからず、更にはわたしと一緒に飛び降りて落下死した大量のヒトガタ達も、突然煙のようなものに変わって消滅してしまったという報告が入った。
こうして、恐怖の高層ビルは制圧された。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
……いやいや。そうじゃなくてさ。
そんなことだけ語ってめでたしめでたしで締め括る訳には、流石にいかない。大きな疑問が解決せずに残っているのだから、わたしはそれについて触れなければならない。
コーラーを仕留めた後、皆が手分けしてビル内をバラバラに索敵し回っていたものだから、ちょっとした油断もあって、それぞれが少人数で動いてしまっていたタイミングがあった。
もしこのタイミングで隆谷寺さんがまた裏切ったら壊滅しそうなくらいの油断だったし、実際に隆谷寺さんも単独行動をしていたし。
それで、わたしはどさくさに紛れてその油断につけ込んで、まさにその単独行動中の隆谷寺さんの後を尾けたのだった。
「ん、その歩き方に体重に呼吸……久凪ちゃんか」
背後から近寄るわたしにそう言いながら振り返った隆谷寺さんだったが、何故わたしの体重を把握しているのかが気になりすぎて、何を訊こうとしていたのか忘れそうになった。
「やっぱり変態だったんですか隆谷寺さん!」
「違うって!具体的な数値を知ってる訳じゃなくて、感覚的に、他の人と比べた時の相対的な重さを大体把握していただけだって!」
「『大体』!?わたしの体が大きいって言うんですか!?」
「どんな揚げ足取りだ!?揚げてもいない足を取るなんて、さてはレスリング経験者の小兵技巧派力士か!?宇羅か!?」
「冗談はさておき」
「なんだ冗談か……ってあのさあ!」
冷静さを取り戻したところで、わたしは尋ねた。
「隆谷寺さん、なんで泣いてたんですか?」
何の捻りも無く、直截的に尋ねた。
どうしても気になったのだ。
「……なんでって言われても」
「いや、さっきコーラーを仕留めた時に、ただ涙が出ていただけじゃなくて、何か心に一物ありそうな表情をしていたじゃないですか。わたしは読心術の使い手じゃありませんけれど、そんなわたしでもわかっちゃうくらい、あれはわかりやすい顔でしたよ」
「まじか。いやあ俺も老いたね、ははは……」
その年齢で言うと、含蓄がありすぎるが。
さておき、それから隆谷寺さんは答えた。
答えはした。
ただ……
それは簡潔な回答とは真逆で、解りやすさとは無縁の、はっきり言うと意味不明な答だった。
前にわたしに戦う理由を訊いてきた時なんかは、あれだけ誤魔化しを一切許さないと言わんばかりの訊き方をしてきたのに、自分が答える番になったら、そんな包み隠すような韜晦するような、遠回しですらなく答になっていない答を用意してきたのである。
少なくともこの時点でのわたしには、だから隆谷寺さんのこの言葉の意味はわからなかった。本当に、何を言っているのかわからなかった。そして読者の皆さんにも何を言っているのかわからないと思うし、また、別にそれで良いとも思う。
従ってこの場では、ただ機械的に淡々と、語り部というよりは単なる記録者として、事実だけを述べることにしよう。
ありのまま、隆谷寺さんの言葉を語ろう。
「いやはや……まあ、アレだよ」
わたしの問いを聞いて、しかしわたしの目も見ずに。
隆谷寺愁弥さんは、軽い口振りで答えた。
「家出は怖いなって思ってさ」
そしてポケットに手を入れたまま、へらへらと軽薄そうな足取りで独り、廊下を歩いて行った。




