第9話 報告という名の門
雨の匂いと下水の色
石段を上がるたび、靴底から黒い水が滴り落ちた。
ギルドの厚い扉を押し開けると、酒と油と紙の匂いに混ざって、下水の悪臭が一気に広がる。
その瞬間、空気がざわりと揺れた。
椅子に座っていたハンターが鼻をつまみ、若い従者は「うっ」と声を漏らして後ずさる。
笑いをこらえる者、唇を歪める者、無言で視線を逸らす者。
いずれも「穢れた血」と「奴隷崩れ」という烙印を知っているがゆえの反応だった。
ドウマはそのまま真っすぐ受付へ向かった。
胸のリムルードが小さく跳ね、核の光を抑えるように震える。
目立たぬように、と言わんばかりの合図だった。
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窓口の手順
「……塩漬け依頼の報告だ」
声は乾いていた。
受付嬢は顔を上げ、冷え切った声音で定型の言葉を返す。
「内容を。証拠物件は?」
「水門三番の先、崩落区画の手前で瘴気源を発見。大型個体を討伐した。証拠はこれだ」
麻袋を机に置くと、金属のような重い音が響いた。袋口から覗いたのは、灰色に濁った巨大な牙。
根元には黒い苔のような瘴痕がびっしりとこびりついている。
受付嬢は眉ひとつ動かさず、長い鋏で牙を持ち上げた。
欠損、瘴痕、歯の深さを一通り確認すると、淡々と口を開く。
「確認。……個体名は?」
「クロコダイル・アバス。瘴気に侵食された凶獣だ。下水の深部を棲家にしていた」
その名が口にされた瞬間、周囲がざわめいた。
「下水にクロコ?」「あんな狭さで?」と声が飛び交い、誰かが息を呑む。
帳面を持った書記が盗み見る視線は、恐れと好奇に揺れていた。
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上司の裁定
奥から出てきたのは、支部の上席係官ラガードだった。
髭を蓄えた顔で牙を検分し、冷ややかに言い放つ。
「……報酬は基準額の五割のみ。辺獄国籍ゆえ、増額規定は適用しない」
空気が一瞬ざわつく。塩漬け依頼は本来、危険度の高さから五割増しで支払われるのが慣例。
だが彼の言葉は「逆」に削る宣告だった。
ドウマの拳が震えた。
命を賭けて瘴気の怪物を倒した結果が、差別による減額。
胸のリムルードがぽんと震え、怒りを代弁するかのように光を揺らす。
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Ωの介入
「待て」
低い声が割り込んだ。
監査官バロウ――そう名乗っていた男が、冷ややかな眼差しをラガードに向けていた。
「報酬は規定通りだ」
ラガードが驚いたように振り返る。
「なっ……しかし、この支部での裁定権は私にあります!」
「確かに、通常ならそうだろう」
淡々とした声が続く。
「だが、そもそもギルドの規定を忘れてはいないか? 辺獄国アヴェルネ出身者にも依頼を受ける権利はある。塩漬け依頼を押しつけ、報酬を削るなど……それ自体が規則違反だ」
バロウ――いや、Ωの眼差しが鋭く突き刺さった。
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暴かれる悪習
ギルドの中枢はすでにラガードの悪事を把握していた。
アヴェルネ出身者を人柱にして塩漬け依頼を消化させ、報酬をピンはねする。
だが、ラガードの実家は大貴族。手を出せば派閥抗争を招く。
そこで――大陸最強の個人戦力、Ωに白羽の矢が立ったのだ。
絶対者である彼が動けば、誰も逆らえない。
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大陸最強の異名
「――私はΩだ」
普段は冷徹な監査官として規則を司る存在。だが一度列強とのいざこざが起これば、Ωは“特級戦力”として牙を振るい、大陸の均衡すら揺るがす。
王にとっては守護神であり、列強にとっては絶対に敵に回してはならない存在――。
その二面性こそが、Ωという名を伝説にした。
ドウマは思わず息を呑む。
Ωが辺獄国アヴェルネの出身だという噂は、子供の頃から耳にしていた。
だが――監査官として目の前にいたこの男が、そのΩ本人だったとは。
しかも識別の瞳で〈ギルド監査官:バロウ〉と映っていた。
本来、絶対に真実を映すはずの瞳を欺き、偽りの名を見せていたのだ。
(……名前すら欺けるのか。これが――力の差……!)
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圧倒的な証拠
ラガードは声を震わせながら叫んだ。
「あなたが本当にΩだという証拠は? ただ名乗るだけなら、誰にでもできる!」
その瞬間、場の空気が一変した。
重圧。呼吸が止まるほどの圧倒的な威圧感が空間を支配する。
まるで山脈そのものが頭上にのしかかったかのように、膝が勝手に折れ、背骨が軋んだ。
ドウマは歯を食いしばったが、全身が震えた。
(これが……本物の力……!)
そして――地鳴り。
ギルドの外に、巨大な影が覆い被さった。
開け放たれた扉の先、漆黒の鱗に覆われた巨体が翼を広げ、石畳を砕きながら着地する。
――【古竜アヴァルグ Lv210】
その一挙一動で、大気は揺らぎ、砂塵が吹き荒れる。
圧倒的な気配は、識別の瞳を持たぬ者ですら「桁が違う」と直感させた。
巨竜アヴァルグは恭しく首を垂れ、外套を翻して現れたΩに頭を差し出す。
Ωはその漆黒の巨頭に片手を置き、まるで愛馬を撫でるようにゆっくりと撫でた。
「……まだ疑うかね?」
その声音は、雷鳴にも似た余裕と威圧を帯びていた。
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ラガードの絶望
「……じ、実家に報告します……! 大貴族を敵に回して、ただで済むと思わないことだ!」
ラガードの声は半ば悲鳴だった。
だがΩは一歩も動じない。
「大貴族、か。……たかが一貴族が、この私を縛れるとでも? しかも継承権を持たぬ七男ふぜいが」
静かな声が刃のように突き刺さり、ラガードの顔色が変わった。
彼は踵を返し、逃げようとした。
だが――地が震えた。
次の瞬間、ギルドの周囲を黒い影が埋め尽くした。
大小さまざまな異形の魔物が地を這い、空を覆い、建物を囲う。
Ωが片手をかざしただけで、世界そのものが従うかのように。
ラガードの膝が崩れ落ちた。
声はもはや、出なかった。
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味方の証
Ωはただ淡々と、机の上の銀貨袋をドウマに押しやった。
その仕草は「取れ」と命じるのではなく、「これは正当な対価だ」と保証するようだった。
そしてもう一度、ドウマに視線を投げる。
今度は合図ではなく、はっきりと「お前を見ている」という意思。




