第5話 石畳の嘲笑、薄青の誓い
雨漏りの部屋
レヌスの城壁の外れ、革なめし場に近い湿った一帯に、借り物の小さな小屋がある。
屋根はところどころ抜け、雨が降れば桶で滴る場所を受け止めて回らねばならない。窓は片方が割れて布で塞いであり、床板の隙間からは夜風が泣く。寝床は藁と古い毛布。壁際には拾い集めた縄と木箱、そして、祠で老人から譲り受けた粘菌刃の柄が布で巻かれて置かれている。
それでも、ここは――自分で選んで閉める扉がある。
夜明け前、ドウマは桶の並びを直し、軒先に吊った水袋に拳をそっと当てて、膜の震えを確かめた。
胸の奥で、ビッグスライムとなったリムルードが薄く脈打つ。粘膜が皮膚の下で**寄生的保護〈被膜化〉**となって広がり、骨に届く前に力を散らしてくれる。
(……昨日より、受けられる)
彼は【識別の瞳】を自分に向ける。
――ドウマ Lv2
――同調:安定(反射微強化/疲労回復微増)
――備考:被膜化の迅速展開/“窒息拘束”連携適合
「ありがとな、リムルード。お前が強くなって、俺も少しだけ前に出られる」
ぬるい鼓動が掌へ返ってくる。小屋の扉を押し開けると、朝の湿った空気と遠い鐘の音が入ってきた。
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市場のざわめき
市の朝は油とパンの匂いで満ちる。
祠の私依頼を片づけた礼だと、露店の婆さまが余りパンをくれた。代わりに荷台を持ち上げてやると、婆さまは目を細める。
「腕の芯が変わったねぇ。……いい目になったよ」
リムルードの膜が背筋を支え、以前なら膝が笑った重さにも耐えられる。
そのとき、向こうの酒場脇から鼻につく笑い声が跳ねた。
「よう、奴隷崩れ。まだ街にいたのかよ」
灰色の外套を揃えた三人組――灰鷹の爪の連中だ。胸の安っぽい鷹の徽章が油に濡れて鈍く光る。
先頭の男に【識別の瞳】が淡く反応した。
――【ハンター Lv4】
街で威張れるだけの腕はある。だが、中堅以上に上がれず、弱い者にしか牙を向けない種類の小物だ。
ドウマは視線を逸らして通り過ぎようとした。だが彼らの目は、胸元の透明な存在へ吸い寄せられる。
「それが噂の“泥袋”か? はは、ビッグスライムに名まで付けて抱いて歩くのかよ。可愛いことだ」
笑いの輪が油に火を投げたみたいに広がった。リムルードが胸の内で小さく震え、薄膜がわずかに厚みを増す。守ろうとする反応だ。
「やめておけ。こいつは俺の仲間だ。お前たちが思うようなおもちゃじゃない」
「調子に乗るなよ、辺獄」
先頭のハンターが肩でぶつかってくる。別の男が指でリムルードを突こうと手を伸ばした。ドウマは一歩踏み込み、手首を払う。膜がぴしりと鳴り、相手の指先が弾かれた。
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石畳の小競り合い
石畳に音が集まる。野次馬の視線が円を描き、空気が重くなる。
先頭の【ハンター Lv4】が口笛を鳴らし、短剣を抜いた。刃に朝の光が跳ねた。
「血は見たくねえ。非致死で終わらせる」
自分へ言い聞かせ、ドウマは呼吸を深く整える。
「リムルード、合図で」
ぬるい鼓動が胸の裏打ちをくれる。
男の突きが一直線に喉を狙って来た瞬間、ドウマは半歩前へ。膜が喉元で厚みを増し、刃を滑らせる。金属と膜が擦れる嫌な音。相手の手首がふっと浮いた。
「今!」
リムルードが弾丸のように跳び、男の手首に張り付く。柄ごと鞘に縫い付けるみたいに絡め取り、短剣の軌道を止めた。
横から二人目が拳を振るってくる。視界の端で肩が上がる。ドウマはあえて頬で受けた。膜が震え、衝撃が首から肩へ逃げる。痛むが、骨は折れない。
そのまま相手の肘を軽く押し上げ、足を払う。男は石畳に派手に転んだ。
三人目が怒声を上げて突っ込んだ、その瞬間――路地の影から小さな影が走った。木箱と木箱の間、黒い尾が閃いて男の足首をかすめる。
舗道に散っていた小石が転がり、男の踏み込みがわずかに泳いだ。
「――助かったよ」
ドウマは路地鼠たちへ一言落とし、体勢を崩した男に向き直る。
「リムルード!」
透明が弾み、男の顔面に覆いかぶさった。
鼻と口を完全に塞ぎ、粘膜に吸い付く。男は壁に背を打ちつけて必死に引き剥がそうとするが、スライムは形を変えて離れない。
一拍、二拍、三拍――
ドウマの指が空中で離せの合図を切る。
リムルードはしゅるりと退き、男は膝から崩れて肺に空気をむさぼり込んだ。
短剣を封じられた先頭は、舌打ちと共に武器を放り捨てて後退する。
「ちっ……覚えてろよ、辺獄」
灰鷹の爪は汚い罵り言葉を残して散っていった。見物の円がゆっくりほどけ、誰かの「行こう」の声で市場の音が戻ってくる。
胸の内でリムルードが小さく跳ねる。ドウマは衣の上から軽くとん、とんと叩いた。
「上出来だ。ありがとな」
箱の陰から、さっきの小さな影がこちらを覗く。
ドウマは腰を落とし、声を落とした。
「さっきは本当に助かったよ」
路地鼠は鼻先をひくつかせ、音もなく暗がりへ溶けた。
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細い縁
「……大丈夫?」
控えめな声。振り向くと、ギルドの受付の彼女が立っていた。
彼女は周囲の視線を気にしながら、小さな包みを差し出す。清潔な布とアルコール。
「正面で何もできなくてごめんなさい。規則だから……でも、今のはあなたが正しい」
「助かります」
ドウマは頬の血をぬぐい、布をたたんで返す。
「その子、すごいのね」
「リムルード。俺の仲間だ」
彼女は小さく頷き、「裏口は使わないで」と囁いてから、人の波へ消えた。
その背が見えなくなるまで目で追い、ドウマは息を一つ吐く。
薄いけれど確かな縁。鎖ではない、自分で結ぶ糸だ。
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夕立前のしごと
雲が厚くなってきた。雨が来る。
露店の片付けを手伝い、裏通りの古い掲示から古井戸の清掃という私依頼を一枚剥がす。
街外れの井戸は誰にも見られずに済んだ。腐ったスライムの殻が臭気を放っている。
「頼む」
リムルードが細長く伸び、井戸の内壁に沿って腐膜を絡め取って引き上げる。ドウマは棒でまとめ、灰をかけ、土に埋めた。単調な作業――なのに、去年の自分より息が続く。視界が澄んで、手も足も思うとおりに動く。
(これが“同調”の力か)
作業を終える頃には、空から大粒が二つ三つ落ちてきていた。
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雨の匂い、薄青の誓い
小屋へ戻る道すがら、ドウマはギルドの正面を遠巻きに見た。
扉の向こうで歌と杯の音が響く。勇者を称える歌、金と硝子の音、歓声と、そしてまばらな嫉妬。
ドウマは傘のない肩に雨を受け、足を止めなかった。
「リムルード。いつか俺たちは――正面からあの扉を押す」
胸の核が二度、力強く脈打つ。
鎖で引かれていた時の鼓動ではない。選んだ鼓動だ。
小屋に戻ると、雨は本降りになった。
桶の配置を直し、藁の寝床に腰を下ろす。屋根の穴から落ちる滴がとん、……とんと一定に鳴る。
壁にもたれ、胸の上の重みを確かめる。
リムルードが満ちた水袋のように静かに弾んだ。冷たいのに、火よりも温かい。
「弱いからこそ、守る。弱いからこそ、折れない」
喉の奥でその言葉を温めて、目を閉じる。
石畳の上で笑った者たちの顔は、雨に流れて薄れていく。
けれど、助けてくれた目――路地鼠の黒いビー玉のような眼差し、受付の彼女の揺れる睫毛――それらは胸の内で灯のように残った。
夜更け、雨音が少し遠のく。
薄青い誓いは、闇の底で静かに膨らみ、二つ分の鼓動と歩調を合わせた。
明日、また外に出よう。
弱いものたちと一緒に、今日より半歩分、遠くまで。




