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第4話 ぬばたまの核、膨らむ灯

日陰の路地、薄いあたたかさ


 レヌスの朝は早い。荷車の軋み、行商の掛け声、焼きたてのパンの匂い。

 けれど、その温度はいつだってドウマの指先を素通りしていく。ギルドで拒絶されてから、彼が受けられるのは裏通りの張り紙にあるような私依頼ばかりだった。


「瘴気が溜まってるという古い祠を見てきてくれないかね」

 顔馴染みになった露店の婆さまが、干し肉の端を小袋に押し込んでくれた。

「報酬は少ないけど……あんた、手先が器用で優しいからね。森の獣も、あんたが近づくと静かになる」


 胸元でリムルードが小さく揺れ、粘膜越しにぬるい励ましが伝わった。

「行こう、リムルード。俺たちの仕事だ」



沼祠ぬまほこら


 森の南端、湿地に埋もれかけた小さな祠があった。石段は苔で滑り、半ばは泥に沈んでいる。風はぬめりを含み、鼻腔に古い水の匂い。


 水面がはじけ、緑がかった背が跳ねた。

 【マッドフロッグ Lv3】

 ぬらつく皮膚、膨れた喉袋、黒玉のような目。さらに、後ろの草叢が割れてもう一体が現れる。


「正面は避けよう。リムルード、右から――」


 言い終える前に、泥弾が飛んだ。祠の石にぶつかって、どろりと弾ける。リムルードが前へ躍り出て、膜を広げるように体表を伸ばした。

 泥が面で受け止められ、重みが散らばる。ドウマの頬をかすめた冷たさが、すぐに引いた。


(今の……守ってくれた?)


 【識別の瞳】を開く。数字の代わりに、淡い注釈が浮いた。

 ――属性:寄生的保護〈伸展〉(微強)

 ――備考:主の皮膚温・脈動に同期


 微弱だった“保護”が、すこし伸びる。名を得てから、確かに何かが育っている。


「頼む」


 ドウマが囁くと、リムルードは跳ねて左のマッドフロッグに張りついた。

 スライムの体が皿のように広がり、蛙の鼻と口を覆う。バタバタともがく四肢、泥だらけの跳躍。だが、柔らかな体は形を変えて離れない。

 十数拍。蛙がぐたりと沈む。もう一体が喉袋を鳴らして近づく。ドウマは祠の石片を投げ、注意をずらす。その一瞬に、リムルードが二匹目へ滑る。

 結末は同じだった。


「……よし」


 湿地が静まり、やがて小さな水泡だけが弾け続けた。

 祠の縁に沿って泥を掻き出すと、苔むした石の隙間から寒天質の苔が糸を引くように現れた。指でそっと摘まみあげると、リムルードが興味深そうに近づく。


「食べるか?」


 透明な体がふるりと震え、苔は吸われていった。

 そのとき、わずかな光がリムルードの核で明滅する。

 ――核欠損:補填進行

 ――質量:+12%

 ――形態:流動安定化


「少し、埋まってきたんだな」


 ドウマは胸の前で小さく笑う。

 瘴気を飲み込み、泥にまみれ、零れそうな命を少しずつ満たしていく。

 それは彼自身の、これからの姿に似ていた。



沼道の荷車


 帰り道、湿地の外れで人の悲鳴が上がった。

 荷車が車輪ごと泥に沈み、御者台で若い農夫が肩を落としている。脇には怯える少女。

 泥の破れ目から、ぶ厚い首がのそりと現れた。


 【スワンプボア Lv4】

 水気を吸って肥えた牙豚いのしし。皮膚は泥で鎧われ、目の白が濁っている。


 ボアは荷の匂いに鼻を鳴らし、少女の小さな泣き声に首を振った。


「下がって!」


 ドウマは泥に足を取られながら前へ出る。

 リムルードが胸元から滑り落ち、薄い膜を彼の腕に沿わせて纏う。

 寄生的保護が、皮膚に重さを与えた。骨が折れる感覚はない――守られている。


 ボアが突進してきた。

 地面がうなり、泥が弾ける。

 ドウマは一歩だけ横へずらし、受け流すように手を押し当てた。衝撃の刃が滑り、肩口をかすめる。膜が震えて熱を散らす。


「――今だ、リムルード!」


 スライムが弾丸のように跳び、ボアの顔面へ張り付いた。

 鼻孔と口腔を覆い、粘膜に吸いつく。

 ボアは狂ったように頭を振り、牙で荷車を砕きかける。ドウマは少女を抱えて転がり、農夫の腕を引いた。


「こっちへ!」


 しばしのあいだ、世界はむせる音と泥の飛沫だけだった。

 やがて、巨体の動きが鈍り、泥に半ば沈んで止まる。

 リムルードがしゅるりと離れ、ドウマの足元に戻った。


 【識別の瞳】が短く光る。

 ――対象:鎮圧完了

 ――同調:安定

 ――進化判定:閾値到達


(進化……するのか?)


 胸が跳ねた。

 少女がすすり泣きながら礼を言う。農夫は泥まみれで何度も頭を下げ、銅貨を押し付けようとする。

 ドウマは受け取らず、荷車の残りを押し出すのを手伝った。

 彼らが森沿いの道へ去ったあとも、湿地にはまだ、リムルードの微光だけが残っていた。



進化の儀ではないけれど


 祠のひさしに雨粒が落ち始めた。細い霧雨だ。

 ドウマは濡れないよう石の影へ入り、リムルードを掌に載せる。

 核が震え、呼吸のように膨らむ。

 緊張で喉が渇く。儀式も魔法式も知らない。ただ、確かなのは――名だ。


「リムルード。大丈夫だ。ここにいる」


 核が返事のように明滅した。

 透明な体がほどけ、微細な糸の束になって、ふたたび集まる。

 形が丸く、大きく。縁が厚みを帯び、中心の核が深い黒みを纏う。


 【識別の瞳】

 ――形態:ビッグスライム(初期)

――質量:+38%(祠苔由来成分固定)

 ――属性:寄生的保護〈被膜化〉/窒息拘束

 ――備考:名保持/主認識強化


「……成功、したのか」


 掌からこぼれそうになり、慌てて抱きとめる。

 弾力はさっきよりも確かな重みを持ち、たぷんと揺れた表面には淡い光の模様が走っていた。

 リムルードが体を伸ばし、ドウマの頬にそっと触れる。ひんやりとしたその温度が、今だけは火よりもあたたかい。


「ありがとう。よく、戻ってきてくれた」


 雨が少し強くなる。祠の庇を叩く音に合わせて、核がほんの少し鼓動を早めた。

 二人の呼吸が重なる。

 ここから先、もっと強いものが現れるだろう。もっと多くの拒絶も。

 けれど、いまはただ――小さな進化を祝えばいい。



雨上がりの足跡


 夕刻、雨が上がると湿地は鏡のようになった。

 帰路の途中、レヌスのはずれで古い納屋の扉が軋む。中から、杖を引く老人が顔を出した。


「お前さん、森で騒がしい音がしとったな。瘴気のあしを踏む音も」

「祠の泥を少し払った。ついでに、ボアも一頭」


 老人は目を丸くして、それから頷いた。

「なら、これを持って行け。昔の狩人が使った、粘菌刃の柄だ。刃は失せたが、柄の内に凝固の符が残っておる。そいつがいれば、お前の……そのスライムの体も、形を保ちやすい」


「大事なものだろう。受け取れない」

「形あるものは巡る。わしの手で朽ちるよりは良いさ」


 柄は軽く、手の中で乾いた木の匂いがした。

 リムルードが興味を示すように揺れ、柄の先に触れる。たちまち、表面に薄い硬膜が走った。

 【識別の瞳】

 ――付与:凝固符(弱)

 ――連動:被膜化の持続+


「……助かる」


 老人は「気をつけてな」とだけ言い、納屋の影に消えた。

 街道へ戻る道で、ドウマは柄をリムルードのお守りのように胸の袋へ仕舞った。



いつか、街の正面で


 レヌスの灯がともる。

 ドウマはギルドの前を通り過ぎ、扉の影から中を一瞬だけ覗いた。

 賞賛の笑い声、金の音、掲示板の紙の白さ。

 ……いまはまだ、正面からあの扉を押せない。


 けれど、いつか。

 誰もが笑い飛ばす「外れ職」とLvの低いスライムで、正面から受けて、正面から達成する。

 そうして、外から貼られた名前ではなく、自分の名で自分を呼ぶ日を取り戻す。


「帰ろう、リムルード」


 胸の中で、ビッグスライムが満ちた水袋のように、静かに弾んだ。

 その重みは、鎖の重さではない。

 共に生きるための、灯の重さだ。


 夜風が頬を撫でる。

 彼らの影は、昨日よりまた少しだけ、濃く長く伸びていた。

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