第35話 真っ向から香妃へ
闘技場の砂がようやく静まり返った。
黒紫の圧は消えても、胸に残る重さは簡単には抜けなかった。十人は武具を下ろし、ダロスは肩を鳴らして舌打ちする。影王は膝をついたまま、年端もいかぬ姿で深く頭を垂れている。
「……やはり、あなたこそ“リムロード様”」
その声はか細いが、確かだった。
俺は影王の前に立ち、問う。
「なぜ、そう呼ぶ」
灰色の瞳が揺れ、砂の上に手をついた。
「私は、ただの民の子でした。列強の兵に攫われ、見せしめにされかけた時……救ってくださったのがリムロード様でした」
声が震えている。
「その直後、“魂の匣”の副作用を受けました。歳を取らぬまま、ただ一つの掟に縛られたのです。『王が戻れば必ず従え。敵であっても、従者としても』。……それが、今の私を作った」
シオンは瞳を伏せ、十人も息を呑んだ。
影王は続ける。
「だから、誓ったのです。王が転生されるその時に、力となろうと。私は組織を作りました。列強に潰されそうになれば別の勢力を取り込み、生き延びるために。……けれどそのせいで、組織は三つの頂に割れました。私と、“香妃”、そして“牙侯”」
そこまで聞けば十分だった。俺は短く告げた。
「続きはギルドでだ。ここは目が多い」
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帰路
街へ戻る道は長かった。夕闇が石畳を濡らし、街灯の油がぱちぱちと燃える。
誰も余計な言葉を発しなかった。だが沈黙が重くならないのは、三か月で培った歩調のせいだ。
斥候は影を先に走り、ガルドは俺の背に影を重ねる。シオンは影王の歩幅に合わせ、ダロスは外を見張って大股で進む。十人は二列に並び、互いに短い合図を交わす。
「痛みはどうだ」
俺が問うと、影王は首を横に振る。
「問題ありません。……ただ、黒紫の圧は、忘れられません。あれほどはっきり“動けなくなる”力は初めてでした」
「一度で足りる」
「はい。心に刻みました」
街の灯りが見えた頃、影王はぽつりとこぼした。
「私の“王”の記憶は、断片です。救われた日の光、温度、声……『行け』と命じられた気がしました。
だから私は、行き続けたのです」
その横顔は、子どもに見えて、大人よりも深い影を持っていた。
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ギルドの夜
ギルドの扉を開けると、暖かな灯りが迎えてくれた。帳簿を抱えたミランダが立っている。
「おかえりなさい。……無事で良かった」
彼女は影王に視線を移し、驚きを隠せない。「その子が……?」
「影王だ。だが敵じゃない。話を聞け」
ミランダは頷き、帳簿を机に置いた。
応接室に集まり、長机を囲んだ。
ダロスは壁にもたれ、十人は左右に分かれ、影王は背筋を伸ばして座る。ガルドは俺の後ろに影のように立った。
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影王の過去
「最初に、私のことを」
影王は口を開く。
「私は名前も家もない子でした。ある日、兵に縄で繋がれ、広場に立たされました。泣けば殴られ、倒れれば引きずられ……。
その時です。“王が来る”と誰かが叫んだ。影が落ち、縄が切られた。手を取ってくださったのは……リムロード様でした」
その声は震えていた。
「王は私を起こし、『走れ』と。私は走りました。背後で兵が倒れ、火が上がる。……それが最後の記憶です。その後、私は“魂の匣”の副作用で歳を取らなくなり、制約だけが残りました」
影王は目を伏せる。
「孤独でした。けれど、あの日の『行け』という声が、私を支えました。だから私は歩き続けた。行き場をなくした子を集め、井戸の裏や空き倉庫に隠し……それが最初の組織です」
ミランダが小さく息を呑んだ。
「列強に潰されそうになれば別の勢力を取り込み……生き延びました。ですが、色が濁った。甘さで縛る“香妃”。正しさで締める“牙侯”。二人を取り込んだことで、私は頂点の一人でありながら、逆らえぬ立場になりました」
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対抗策
「香妃は香と宴で人を縛ります。恩を与え、拒めぬほど甘くしてから切る。孤児院や施療院にも金を出すから、人々は頭を下げる」
「牙侯は兵糧と街道を握る。正しさで人を縛り、見せしめで恐怖を与える」
影王の説明に、シオンは机に紙を広げた。
「ならば対抗策を。香妃には匿名の依頼と報酬を。孤児院や施療院に仕事を回し、代価を払う。恩ではなく“当たり前”を積むのです。牙侯には先回りを。倉庫を整え、街道を掃除し、橋を補修する。彼より“正しく”すれば、兵は迷います」
ミランダが頷く。
「帳簿は私が隠す。寄付ではなく仕事の対価に変える。それで香妃の鎖は薄れる」
ダロスが笑った。
「噂は俺が潰す。困ってる奴を目の前で助けりゃいい。派手にゃやらん。積み重ねるだけだ」
影王も言葉を足す。
「私は“内”を案内できます。香妃の倉の隠し机、牙侯の倉庫の鍵。扉の場所は私が示す」
対抗策は、どれも正しかった。
だが――。
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真っ向勝負
「全部、いい。全部やる価値がある。けど――先にやるのは別だ」
俺は立ち上がり、言った。
「真っ向から、香妃に会う」
部屋が静まり返る。
最初に反対したのはミランダだ。
「無茶よ!香妃は笑って近づいて、手を取らせてから鎖をかける。正面から行けば、全部“恩”に変えられる!」
「そうです!」シオンも声を上げる。「遠巻きに支援を回し、線を作ってから切るべきです!今は真正面は危険です!」
影王も低く言った。
「王を香妃に近づけるのは……おすすめできません。彼女はまず王を取り込もうとする。宴、名誉、同情、街の声……何もかもを贈り物に変える」
反対の声は当然だ。
だが俺は譲らなかった。
「避けて通るなら、誰が救える。俺は王じゃない。ただのテイマーだ。けど、“弱い者を先に守る”って決めた。街を縛る鎖の根元を、避けたまま切れるわけがない」
沈黙が落ちる。
ダロスが「はあ……」と天井を仰ぎ、笑った。
「ほんっと、お前は真っ直ぐだな」
俺は影王を見た。
「香妃に伝えろ。俺が会うと」
影王は息を呑み、深く頭を下げた。
「……命に代えても、お連れします」
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決意
その夜、作戦は整えられた。
香妃との会談中、街では匿名の支援を流し続ける。噂は潰し、倉庫は整え、孤児院には朝食が届く。十人は外周に立ち、刃は抜かないが線を守る。
明け方、影王が戻った。
「返答が届きました。明後日、白薔薇の間。茶会。『おひとりで』と」
「行く」
短く答える俺に、誰も笑わなかった。
けれど全員が分かっていた。
ここを避ければ、何も救えないと。




