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第33話 古代闘技場の影王

 三か月が過ぎた。

 あの夜の誓いから、季節が一つ変わるほどの時間だ。割れた窓は新しいガラスに替わり、抉れた床は磨かれて艶を取り戻した。街の通りで黒衣の一団を見かけても、もう誰も身構えない。荷車が止まれば手を貸し、雨が強ければ軒先を貸す。子どもは「盾のお姉ちゃん」「矢のお兄ちゃん」と指をさし、十人は驚いた顔をして、それから照れたように礼をする。


 俺自身も変わった。

 レベルは七十。紫の気配はもう暴走じゃない。意志で立ち上げ、意志で消せる。出せば空気が低く唸り、引けば風と同じになる。ダロスには何度も「無駄に見せびらかすな」と言われたが、そのたびにわざとらしく大きく息を吐いてオーラを沈める練習を続けた。出すより、引くほうが難しい。けれど、弱い者を先に守るなら、出さずに済ませる力のほうが大事だと知ったのだ。


 十人とリムルード、ガルドの距離も縮まった。稽古のあとは同じ鍋をつつき、夜の見回りでは背中を預け合う。言葉は多くないが、誰がいつどんな足音で近づくか、誰がどんな呼吸で危機に気づくか、もう体が覚えている。そういうものは、たぶん信頼と呼ばれる。


 その日も、いつもと同じ朝だった。

 帳面に向かうミランダの前に、使いの少年が封筒を差し出した。黄ばんだ紙、黒い封蝋。紐は三重結びで、結び目が左に二分だけずれている。些細なことだが、シオンはそこで動きを止めた。


「……待ってくださいませ」


 シオンは封筒を受け、光に透かす。紙の繊維に細い格子。普通の紙ではない。角をなで、指先に残る香の筋を確かめる。夜に咲く花の香り。封蝋の黒の中央、二時を指す位置に、肉眼では見えないほど細い切り痕。わざとだ。切り痕の向きと位置は差出人の部署を表す、裏の合図。


 掌でそっと温めると、封蝋の黒が薄くなり、埋もれていた印が浮かんだ。王冠。だが王冠の中は空洞で、先端が三つに割れている。


「……古い職場の、最上位印です」

 シオンの声は静かだった。

「この印を使えるのは三人だけ」


「三人?」


「はい。上の三つ。“影王”“香妃”“牙侯”。今日は、そのうちの一人です」


 封を開ける前に、シオンは紙の折り目と余白を見た。右上の余白が三分広い──東域案件。折りは三つ折りで、最初の折り返しだけが逆。表向きの依頼に見せ、目的は別、という意味。文面に目を落とす前に、すでに嫌な汗が背中ににじむのが分かった。


 そして文の言い回し。「腕試し」。

 この世界で模擬戦を求めるなら「実演」や「試技」が普通だ。だが、あの組織で「腕試し」は素行の確認を指す。忠誠、反応、見せ方。何より「逃げないか」。

 最後の句点が二つ、間を空けて縦に置かれている。拒絶は掃除の合図──つまり、断った時の段取りはもう決まっている。


 シオンの喉が一度鳴った。


「“影王”です。年若い少年。ですが、命令も裁きも速い。灯の中にいても輪郭が薄く、影に立てば足跡が残らない。……わたくしは、一度だけ遠目に」


 ミランダが顔を上げる。「依頼の内容は?」


「古代闘技場での腕試し。四日後の正午。観客不要、審判はこちらで用意。——誠意を示せ」


 その一行で十分だった。

 誠意を示せ。組織において、これほど重い言葉はない。逃げるな、嘘をつくな、形だけで済ますな。もし逃げれば、街を掃除する。ギルドだけでは終わらない。


「断れば?」


 俺が問うと、シオンは紙から目を離さずに答えた。


「街全体が危うい。“掃除”のやり方は、知っています」


 静けさが落ちた。ガルドの金の瞳が細く細くなる。ダロスは腕を組み、封筒の封蝋を睨むように見て、短く吐く。


「迷うな。受けるしかねえ」


 俺はうなずいた。

「受ける。ただし俺たちのやり方でだ」


 シオンが顔を上げる。十人の背筋が、自然に伸びる。


「避難線を今夜のうちに通す。子どもと非戦闘が先。鐘は鳴らさない。理由は言わない。見張りは薄く広く。外周はダロス、内側はガルド。偵察は二組。目印は三角、丸、横一線。合図は三拍、返事は二拍。間違えるな」


「拝命いたします」


 俺はオーラをほんのわずかだけ立て、封筒の地紋を浮かせた。王冠の内側に、空の三角形。影王の私印。逃げられない形だ。

 ミランダは受領印を押し、文を封じ直した。「受けるわ。けど、こっちの段取りは私にやらせて。鐘も隊も、表向きは“通常運用”」


「助かる」



 準備は淡々と進み、四日目の朝、俺たちは街を出た。

 空は高く、風は乾いている。道は緩くうねり、草の匂いが強い。先頭の斥候は足跡の深さを見て、通り過ぎた野営の数を数える。後ろの斥候は風下に立ち、香りの筋で追跡者の気配を探る。十人の背は軽く揺れ、余計な音は一つも出ない。


 昼過ぎ、古代闘技場が見えた。半円の石段。崩れた冠木。入口のアーチには、かつての栄光を誇るような彫りが薄く残っている。砂の円は広く、風が砂粒を細かく走らせる。……なのに、音が戻らない。風の音も、足音も、ここに入った途端に深い井戸に落ちるように小さくなる。


「静かだな」


「静かすぎる」


 シオンが指先で空気を撫で、目を細める。「人が作った静けさ、でございます」


 俺たちはアーチをくぐった。

 反対側の陰影がゆっくり形になり、少年が現れた。年は十になるかどうか。黒い上着、背筋は伸びていて、目は灰色。昼なのに、足元に影が落ちない。


「来たね」


 少年は笑う。顔に笑いの形だけを貼り付けたみたいな、温度のない笑い。


「初めまして。いや、“初めて”じゃないかもしれない。君の中の誰かは、僕を知ってる」


 シオンが静かに片膝をつく。少年は手をひらひら振った。


「立って。君が礼をするのは、昔の“僕”にだ。今は別の仕事」


 目が俺に向く。軽い視線だ。けれど、重い。息が止まる一歩手前の重さ。


「依頼の確認。“腕試し”。——逃げないで来た。誠意、合格」


「お前の“試し”は、街を巻き込む」


「やめないよ。君がどっちへ進むかを見るために、ここを用意したから」


 少年が砂の円を指す。

 砂がざわめき、二体の像が立ち上がった。鎧武者と大盾の巨人。砂のくせに歩けば重い音がする。


「始めようか。最初は、基礎から」


 シオンが俺を見る。俺はうなずいた。「やるのはお前ら。俺とダロスは見てる。いつも通り、短く、確かに」


「拝命いたします」


 十人が円を囲み、同時に一歩引く。いるべき場所に、いるべき角度で自然に散った。


 鎧武者が踏み込む。斬りは速い。

 盾の女が体ごと受け、槍が柄で肘を叩く。斥候が足の甲を滑らせ、符が関節に札を貼る。動きが止まる。砂が固まり、肩から崩れた。

 巨人が盾を振る。地面が唸る。

 術の女が指を立て、空気の層を一枚足す。衝撃が柔らかくなり、その間に工兵が足元に楔を打つ。巨人の足が沈み、弓が矢を二本、縦に撃つ。砂の目と喉に音もなく刺さり、形が崩れかける。療の女は倒れた味方の呼吸を整え、動きを戻す。

 道具と手と目が、嘘をつかない速さで重なった。砂の像は崩れ、円は静かになった。


 影王は楽しくて仕方がない、という顔で拍手をした。音は小さいのに、やけに遠くまで響く。


「うん。いい。やっぱり、隠していたね。……じゃあ、次」


 少年が指を弾く。

 砂がまたざわめき、今度は人の形を十体作った。黒い兵。剣と短弓。砂なのに、立ち姿には癖がある。まるで、生きた人間の足腰。


 砂が渦を巻き、人の形を十作った。黒い兵たち。剣と弓を持ち、生きた人間のような癖のある立ち姿。


「俺が行く」

 ダロスが大剣を担ぎ出る。だが、その横にシオンが進み出た。

「私も共に。王の御前で、退けません」


 二人が並び立ち、影兵に突っ込んだ。

 大剣が振り下ろされ、同時にシオンの札が光を走らせる。


 だが、影兵たちは微動だにせずにそれを受け流した。

 次の瞬間、影が伸びて二人の足を絡め取る。


「な──」

 シオンが言葉を終える前に、黒い刃が胸元に迫った。

 ダロスが防ごうと剣を振るも、背後から別の影兵に肩を斬られ、膝をつく。


 わずか数呼吸。

 ギルド最強の男と十傑の末裔が、同時に地に叩きつけられていた。


「弱くはない。だが、君たちでは……足りない」

 影王の声は静かに響く。


 観客席に沈黙が広がる。

 誰もが悟った──ここで立てるのは、ただ一人。


「動くな」


 俺は一歩踏み出した。

 意識の底、静かな井戸に沈めていた紫を、上げる。

 ゆっくりと、だが迷いなく。


 紫のオーラが立ち上がった。

 ゴォォ、と低い唸りが闘技場の底から響く。砂粒が浮き、観客席に積もった埃が輪を描いて舞い、すぐに弾けて落ちる。黒い兵の動きが止まった。刃の線が、喉からほんのわずかに離れる。


 威圧。

 ただ立っているだけで、空気が押しつぶされる。

 ダロスの威圧が鋼の塊なら、これは面だ。目に見えない大きな面が、ゆっくりと前へ進み、触れたものの動きを鈍らせる。


 シオンが息を呑む気配。十人の視線が自然に落ち、頭がわずかに垂れる。

 影王だけが、口元を持ち上げた。


「いい。やっぱり君は、“リムロード”だ」


「お前の兵は悪くない」


 俺は短く言った。

「だが、ここは俺の面の中だ。動かすなら、許可がいる」


 黒い兵が、きしむ音を立てて、刃を下げる。動けないわけじゃない。動きたくなくなるのだ。心臓の鼓動と一緒に、体が重くなる。

 俺はダロスの前で立ち止まり、視線だけで黒影を退かせた。空いた隙間にダロスの腕を入れ、肩を引き起こす。


「立てるか」


「……問題ねえ」


 ダロスは顔をしかめ、吐き捨てるみたいに言い、転がった大剣を拾い上げて肩に担いだ。悔しさはある。だが、目は冷静だ。


「上等だ。今のは俺が悪い」


「悪いのは油断だ。次に生かせ」


「了解」


 俺は紫を一段、さらに上げた。

 黒い兵たちの輪郭がほどけ、砂の粒に戻っていく。砂は静かに円の中へ積もり、最初の凹みだけを残す。


 影王は両手を叩いた。今度はただの拍手の音だ。


「合格。君は、やっぱり“王”の立ち方をする。前に出るときは出て、出ないときは出ない。——面の使い方もいい」


 闘技場の砂が、影王の足元でざわめいた。

 少年の姿をした存在は、静かに首をかしげる。その灰色の瞳は、光を映していない。まるでこちらを「試験用の道具」として見ているだけのようだった。


「ここまでやれるとは思わなかったよ。……でも、本番はこれからだ」


 影王の声は軽い。けれど、その場にいた全員の背筋を氷の刃でなぞったような感触が走った。


「ドウマ様!」

 シオンが一歩出かけて、しかし踏みとどまった。

 十人も構える。だが全員分かっていた。──次は彼らの出番ではない。


 影王が一歩踏み出す。音はないのに、空気が裂ける。

 俺は紫の気配を胸の奥で丸め、吐息とともに立ち上げた。


「一騎打ち、か」

「そう。君と僕。……君が“王”かどうか、確かめる」



序盤──圧倒的な格差


 影王が消えた。

 一瞬、視界からいなくなったと思った次の刹那、俺の首筋に冷たい線が走る。剣の切っ先がかすめた跡だ。


「速いでござる!」

 ガルドが目を凝らしても追えない。金眼でさえ、影王の全ては映せなかった。


 影王のレベルは二百十四。俺との差は百四十以上。

 その差は、速さと重さで容赦なく突きつけられた。


 横薙ぎ、縦突き、踏み込み──すべてが「見えてからでは遅い」速度。俺は刀ではなく腕で受け、肩でいなし、砂を蹴って距離を取るしかなかった。


「どうした、リムロードの転生者。──そんなものか?」


 影王の灰色の瞳が、ほんの少し愉しそうに揺れた。

 攻撃を受けるたびに腕が痺れ、肺に溜まる息が浅くなる。

 紫のオーラをまとっていなければ、もう立ってすらいられなかっただろう。



紫の濃さ


 俺は深く息を吸った。

 胸の底から紫を強める。オーラが立ち上がり、周囲の砂がざわめく。


 その瞬間、影王の剣がほんのわずかに遅れた。

 目に見えるほどじゃない。だが、俺の体は確かに「追いつける」と感じた。


「……ほう」

 影王の口角が上がる。

「面白い。紫を濃くするほど、君の身体は速く、強くなるのか」


 攻防が続く。

 剣を受ける腕の痺れが少し和らぎ、避けきれなかった斬撃が浅くなる。

 十人が息を呑み、シオンが震える声で呟いた。


「レベル差が……縮まっている……?」



限界と突破


 だが、それでも影王の優勢は揺るがない。

 剣の軌跡が重なり、俺の肩口に血が滲む。足が鈍れば、すぐに倒される。

 それでも俺は引かない。ここで退けば、街も仲間もすべて失う。


「守る……!」

 思わず声が漏れた。

 弱い者を守ると誓ったあの日の気持ちが、胸の奥で再び燃える。


 紫がさらに濃くなった。

 空気が重く、視界の輪郭がはっきりする。

 影王の速さに、俺の目がようやく追いついた。


「まだだ」

 影王は笑う。

 次の瞬間、全身が影に溶け、十の残像になって俺を囲む。


「これでどうだ!」


 十の剣が同時に振り下ろされる。

 俺は歯を食いしばり、紫を──さらに押し上げた。



黒紫の覚醒


 ドンッ、と空気が爆ぜた。

 紫のオーラに黒が混じる。黒紫の炎が、地を這い、空を揺らした。

 闘技場全体が震え、砂が浮き、石が軋む。


 影王の残像が一つずつ弾け飛ぶ。

 速さは変わっていないはずなのに、俺の目にはすべてが「届く前」に見える。


「……なっ……!」

 影王の瞳が大きく見開かれた。

 その剣を俺は真正面から掴み、紫と黒の力で弾き飛ばした。

 剣は宙を舞い、石畳に突き刺さる。


 次の瞬間、俺の拳が影王の胸を捉える。

 少年の身体が宙を舞い、砂に叩きつけられた。

 灰色の瞳が震え、口元が血に濡れる。



屈服


 観客席にいたシオンも十人も、言葉を失って立ち尽くす。

 ダロスでさえ黙り込み、ただ拳を握りしめていた。


 砂を払いながら影王がゆっくりと膝をつく。

 笑っていた口元が、今度はかすかに震えている。


「……やはり」

 影王はうつむき、低く呟いた。

「やはり……あなたこそ、“リムロード様”……!」


 小さな体が、地に額を押しつけた。

 それは嘲りでも演技でもない。支配者としての傲慢を捨てた、真実の屈服だった。



終幕


 俺は黒紫のオーラをゆっくりと収める。

 空気が軽くなり、漂っていた砂が落ちる。

 静寂の中で、仲間の息遣いだけが響いた。


「立て。まだ終わっていない」


 俺の声に、影王は顔を上げる。その瞳には、恐怖ではなく──忠誠の色が宿っていた。


 俺は一歩近づき、低く問う。


「……なぜ、お前は俺を“リムロード様”と呼ぶ?」


 その言葉に、影王の表情がかすかに揺れる。

 やがて深く頭を垂れ、口を開いた。


「それは──かつての契約と、魂の誓いに由来します。初代国王リムロード様へ忠誠を誓った者は必ず頭を垂れ、従うよう魂から契約させられています」


 闘技場に残った足跡の隙間を、夜風が吹き抜けた。

 黒紫は消えたが、その余韻はまだ地に残り、誰もが言葉を失ったまま、ただひとつの事実を理解していた。


 ──王が、帰還したのだ。




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