第28話 紫の暴走
ドウマの喉から、獣じみた咆哮が噴き上がった。
紫。音まで染めるような、ねっとりした色だった。
床石が一斉に震え、梁がきしみ、空気が重たく沈む。配下の十名は反射で身構えたが、次の瞬間、見えない金槌に殴りつけられたように――全員、床へ叩きつけられて動かなくなった。
【ザイエル(Lv62)】も、【レギン(槍・Lv60)】も、【トゥバ(Lv57)】も。
息はある。だが立てない。意識の芯ごと、紫の圧に抜き取られている。
立っているのは二人だけ――ドウマと、暗殺剣聖シオン。
ドウマの瞳孔は金に反転し、右腕は半ばスライムのように膜質へと変貌。多重詠唱の火花が肩口で明滅し、空間の継ぎ目がぎゅう、と軋む音がする。理性は薄い。歯列の隙間から涎が伝い落ち、靴先へ糸を引いた。
「……これは――」
老人の貌のシオンが、初めて目を見開いた。
次の瞬間、彼の声はふるえ、ほとんど祈りのような響きになる。
「リムロード様……」
ただの噂、寓話だと笑い飛ばしてきた名だ。
だが、目の前の光景――金眼、空間の捩れ、膜質の右腕、そして紫の権能。
どれもが、彼の記憶にある古い書の記述を、えぐるように一致させていく。
――ゆえに、呼び方が変わる。
「……いいや、違うな。王よ」
シオンの声音がしずかに沈む。
腰が低い老人の影は消え、研ぎ澄まされた剣聖の輪郭が戻る。
だが、まず彼が向かったのはドウマではなかった。
ミランダだ。床に倒れ、胸元から溢れる血に顔面を白くしている。
シオンは外套の内側から、深緑の輝きを放つ小瓶を取り出した。蓋を噛み切り、迷いなく傷口へ注ぐ。
最高級ポーション。ギルドでも滅多に回らない上澄みが、赤を洗い、ひどい切り口を内側から縫い合わせていく。ふわりと白い蒸気が立ち、血の匂いが薄れた。
「……っ、はぁ……!?」
ミランダの喉が鳴り、色が頬へ戻る。呼吸が荒く上下し、やがて落ち着いた。
シオンはドウマに向き直り、深く一礼した。
「王。あなたの御心を曇らせる血は、ここで絶やしました――」
返答は、咆哮だった。
ドウマのつま先が床を抉る。空間が歪み、一挙一動が瞬間移動に近い加速をまとう。右腕の膜が伸び、紫の雷と氷と炎――三属性が同時に束ねられた槍が、音もなくぽっかり現れる。
(《多重魔法――雷・炎・氷:合成》)
リムルードが涙のように震え、ガルドが「主!」と叫ぶ。
だが止まらない。暴走は、もう歯止めを忘れている。
槍が奔る。
シオンは滑るように側壁へ。足裏は床を離れ、影を踏んで跳ねる。空気の綻びを淡い線で縫い、紙一重で雷炎氷槍を通過させる。
「暗殺剣技――無刃円舞」
刃が見えない。
だが、音があった。空気が一瞬だけ真空になり、次いで爆ぜる。
紫の槍が輪切りにされる。切断面から蒸気と霜が同時に立ち、床へ霰のように降った。
追撃。
ドウマは金眼で空間の継ぎ目を掴み、横へ「捻る」。
正面から放った斬撃が、九十度曲がってシオンの背後へ出る。
――常識外れの軌道だ。
シオンはわずかに顎を引く。
「冥影――抜き足」
影が入れ替わった。そこにいたはずの老人は消え、二歩先の柱の影から現れる。
曲がった斬撃は柱を斜めに切り裂き、梁が悲鳴を上げた。
一合、二合――十合。
目には見えない剣と、見えるはずのない軌道。
ドウマの多重魔法は連打で色を変え、雷が炎を抱き、氷がそれを締め、膜の腕が難なく「保持」して投げ返す。
シオンの暗殺剣は距離の概念を滑らせ、影から影へ、線と点だけで生き延びる。
だが、差はじわじわと出た。
紫の圧に、影が潰され始める。
「……くっ」
シオンの足取りが、一拍滞る。
ドウマの金眼がそこを針で刺した。
ほんの半瞬、世界が「止まる」。
踏み込み。
右腕の膜が拳の形を思い出し、骨ごと包んだ剛打が走る。
シオンが交差で受ける――が、受け骨そのものが軋み、嫌な音を立てた。
「――ッ!」
右腕が折れた。
肘から先が力を失い、冷たい汗がシオンの額を濡らす。
その顔に、しかし怯懦はない。
彼は折れた右を抱えつつ、左で鞘を握り、再び王へ向き直った。
瞳には、敬意と畏怖、そして決意。
「……私の王。あなたは、私の想像した『災い』のかたちではない。
あなたは、人のまま災いを受け止められると――先ほど、わかった」
低い、乾いた笑みがこぼれる。
「だからこそ、ここで証を示した。あなたが進む道の障りになる血は、私の手で拭った。
王。どうか、これ以上は――」
言い切る前に、紫が砲撃のように爆ぜた。
理性は、まだ戻っていない。
ドウマは叫ぶ。言葉にならない。
床が波打ち、梁が砕ける。多重魔法の矢が十重に重なって花弁のように開き、金眼が面で空間を押し潰す。
シオンは左手一本、125の技量の底をさらけ出して耐える。
刃のない剣舞、殺意を欠いた曲線、影と影の最短距離。
だが、紫はそれらを「理不尽」という名の一色で塗りつぶし、一手ごとに逃げ場を消す。
リムルードが震えながら膜を伸ばし、暴走した「主」の軌道を数ミリだけ逸らす。
ガルドの金眼が、シオンの足元に半拍の鈍りを置き、彼の退避に隙を与える。
――二人は、戦っていない。主を殺さないために、戦場を継ぎ合わせている。
それでも、決定の瞬間は来る。
ドウマの踏み込みが、これまでのどれより静かだった。
音が消え、紫だけが残る。
シオンは悟る。
左の肋に、死が触れている――と。
だが、その刹那。
「ドウマ——っ!」
ミランダの声が割り込んだ。
瀕死の色はもうない。胸元は塞がり、血は止まっている。
掠れながら、それでも前へ届く声だった。
「ここで……戻って。お願い——ドウマ!」
紫が明滅した。
金眼の針が、ほんの少しだけ鈍る。
シオンはその「わずか」を逃さない。
左手の剣を鞘に納め、膝を折り、頭を垂れた。
「王。私は、あなたに敵対しない。
私の右腕は折れた。配下は全員、倒れた。降る。」
その声には、作為がない。
ただの敗北ではない。選択の匂いがした。
ドウマはなお、荒く息を吐いている。
喉の奥で低く唸り、涎が落ちる。
だが、踏み抜く足は――動かない。
リムルードの膜がやわらかく、ドウマの拳を包んだ。
ガルドが金眼を伏せ、主の影に膝をつく。
長い、長い十数呼吸。
やがて、紫は薄れはじめた。
金色の焦点が、人の形を思い出す。
ドウマは一歩、二歩と後ずさり、壁へ背を預けると、糸が切れたように膝をついた。
「……は、ぁ……」
天井から砕けた石粉がはらはらと落ちる。
静かな塵の音の中で、シオンはなお頭を垂れたまま、短く告げる。
「王。あなたの道を阻んだこと、配下が刃を向けたこと――総ての責は私に。
どう処すも、御心のままに」
その呼び名には、もう迷いがなかった。
リムロード様と呟いた驚愕は過去形になり、そこにははっきりとした臣下の声音があった。
ミランダがよろめきながら近づき、ドウマの肩へ掌を触れる。
彼の荒い呼吸が、少しずつ落ち着く。
配下の十名は依然として意識がない。
だが、誰も死んでいない。
――この場で、血だけは止まった。
割れた窓の向こうを、夜の風が通り抜ける。
紫の匂いは、少しずつ、夜気に攫われていった。




