第26話 招かれざる客
昼下がりのギルドは、酒と油と紙の匂いで満ちていた。
依頼札の前で言い争う声、奥の酒場から笑い、梁の上で鳴く古い木のきしみ。
――いつも通り。少なくとも、扉が開く“その瞬間”までは。
軋む蝶番。
入ってきたのは、旅の途中で寄っただけの老人……に見えた。
灰の外套。磨きすぎて光沢を失った革靴。節くれだった手には、先端が摩耗した木の杖。
背筋は少し曲がり、視線は低い。腰は低いというより、こちらを立てるように低くしている……そんな所作。
なのに、広間の空気が一拍、凍った。
(……いやな ひかり)
胸元のリムルードが小さく震え、内側で声を落とす。
フードの陰で金の瞳が細くなる。ガルドも足を半歩、無意識に引いた。
識別の眼が、反射で走る。
――【 ??? 】
――【識別不能】
(……見えない)
視界に“名”も“等級”も浮かばない。
Lv70の暗殺剣士を相手にした時と同じだ。
全身の皮膚が、微かな冷気で引き締まる。
「失礼するよ」
老人は最初に、受付のミランダへ深く頭を下げた。
(その角度、その間の取り方……礼法が体に染みついている。舞うみたいに自然だ)
「場を乱すつもりはない。二、三、言葉を交わしたいだけだ。――ドウマ君」
俺の名を、正確に、柔らかく呼ぶ。
広間の視線が一段と集まった。
ミランダが一瞬こちらを見る。
「……短く、お願いします」
「感謝を」
老人は杖を胸の前で軽く横にし、まるで剣を納める仕草で礼を返す。
その“無害さ”の演出が、逆に不気味だった。
老人はテーブルのひとつに腰をかけ、膝に杖を渡した。
指先にできた硬い茧が、剣士のそれだと告げている。
足の置き方――重心は踵でもつま先でもなく、いつでも“踏み替えられる”真ん中。
(ただの老人じゃ、ない)
「まずは自己紹介からだね」
穏やかな声。
「わたしは“外の者”。名乗りは多く持つが、この街では“シオン”と呼ばれている。――職能は……古い呼び名で言えば“剣を学び、影を束ねる者”だ。
本題に入ろう。ドウマ君。君を“誘い”に来た
当然、先日の私達の組織の者との戦闘については
不問とさせていただくよ。むしろ、危害を加えようとしてすまなかった。申し訳ない。」
ミランダの指が、帳簿の上でぴたりと止まる。
奥の卓で昼をつまんでいたハンターたちも、飲み込む音を忘れた。
老人――シオンは、こちらだけを見る。
目は柔らかい。けれど、瞳孔の奥はまったく動かない鏡だ。
「君はアヴェルネの出だ。
この街では珍しくない言葉かもしれないが、君にとっては重い。
出自だけで仕事を奪われ、肩書きで命の値段を決められ、『穢れた血』と吐かれる。
――そうして削られていく心を、わたしは嫌というほど見てきた。私もアヴェルネの出でね。気持ちはよく分かる。」
胸の奥で、糸を引くような痛みが走る。
リムルードが、そっと膜を震わせる。ガルドの金眼が、一瞬、微かに揺れた。
シオンは淡々と続ける。
「君は今、ギルドに認められかけている。カードを持ち、評価を積んだ。
だがね、ドウマ君――制度は、個人の努力だけでは変わらない。
君が一歩進めば、次の誰かが十歩分の壁に押し戻される。
君は強い。だが、君だけが強いままでは、何も変わらない。
だから、“枠組み”を与えよう、と申し出に来た」
「……枠組み」
「うむ」
シオンは指を一本だけ立て、丁寧に数えるように言葉を置く。
「保護だ。
君と君の眷属に対する市内の不可侵――わたしたちの印の下で、誰も手を出さない。
依頼は選べ。危険は管理し、成果は保証する。
資金、情報、療法師、工房。
君たちが今、欲しているものの多くは、こちらで最短で揃う」
ミランダが無言で顔を上げる。
広間の空気が、少しきしんだ。
「アヴェルネの者たちの保護も約束しよう。
この街での狩りを抑え、迫害を止める。
“金眼”の子らに対する不要な狩猟も、われわれの領域では許可しない。
――誤解のないように言えば、わたしたちは聖人ではない。
理想のためではなく、“秩序”のためにやる。
支配は時に、説得より早い」
“支配”。
その一語が、舌の上で苦い。
「見返りは?」
自分の声が、思っていたより落ち着いていた。
「力を貸してくれればいい。
君の目、君の眷属、その成長の速度。
君がこのまま孤独に積み上げるより、遥かに早く“形”にできる。
金眼の本質――空間と心への干渉、その鍛え方も知っている。
マジックスライムの“複合魔法”、属性融合の体系化もだ。
わたしが見てきた“術”を、惜しみなく渡す」
隣で、ガルドの指が膝の布を小さくつまんだ。
(……本質、空間……)
リムルードの核が、ぴ、と一瞬灯る。
――ダロスの言葉が、記憶の底でうっすらと泡立った。「金眼は、空間をもつかめるはずだ」「複合は重ねじゃねえ、“組む”んだ」
シオンはさらに続ける。声は低く、穏やかだ。
「君の“正しさ”は否定しない。
ギルドの中で証明する道もまた、ひとつの正しさだ。
だが、正しさに時間が追いつかないことがある。
時間だ、ドウマ君。
君が変えたいと思う“差別”や“構造”は、君が生きているあいだに変わらないかもしれない。
――力を持とう。枠を持とう。
君が動けば、十人が動く。百人が従う。
わたしたちの“印”の下でなら、できることがある」
無理やり、ではない。
甘言、でもない。
聞けば聞くほど、論理が整っている。
“現実”と“時間”を突きつける言い方は、俺のような人間の急所を、正確に撫でてくる。
広間の隅で、若いハンターが唾を飲む音がした。
ミランダは、何も言わない。
ただ、見ている。
俺じゃなく、俺の“選択”を。
シオンは最後に、静かに笑んだ。
「君は善良だ。
善良さは、刃の前ではよく折れる。
折れぬよう、鞘をやろうと言っているだけだ」
俺は息を整えた。
背で、リムルードがぽんと跳ねる。
(どーま)
金の瞳が、布の陰でこちらを見上げる。――主、と呼ぶ眼。
俺はその視線を受け止め、ゆっくり口を開いた。
「……ありがたい話だ。
欲しいものを、ずいぶん正確に言い当てる。
たぶん、今までの俺なら、揺れてた」
シオンは、頷く。否定しない。
「だが――違う。
俺はギルドで始めた。
この街で、名前で呼ばれるようになって、飯を分け合うようになって、守りたい場所ができた。
誰のために剣を振るうかを、最初から決められるのは、俺の戦いじゃない」
シオンの目が、わずかに細くなる。
怒りではない。興味だ。
「理由はそれだけかい?」
「もうひとつ」
俺は視線をそらさずに言った。
「アヴェルネを持ち出した。
“守る”とも言った。
――けど、守ると支配は、似ていて、違う。
あなたたちが“秩序”と呼ぶものの中に、俺の故郷は吸い込まれていく気がする。
俺は、俺の足で“変えたい”。
――だから、断る」
シオンは長く息を吐き、杖を軽く撫でた。
一見すると落胆の溜息――だが、その瞬間、広間の空気が凍りついた。
雰囲気が、変わった。
さっきまで“腰の低い老人”だった。
だが今、立ち昇る気配は刃そのもの。
杖の影が、床に映るより速く揺らぎ――殺気が広間全体に広がる。
ただ腰を上げただけなのに、全員の背筋に刃が突き立てられたかのように冷たくなる。
「……そうか。断るか。ギルドは大きな組織だが、我々の組織は勝るとも劣らない力を有している。
辺境の支部を潰すなど、我々からしたら造作もないんだがね。」
声色は同じはずなのに、耳が拒絶する。
優しげな声に乗った“氷”が、皮膚を刺す。
広間の空気が揺れ、数名のハンターが思わず武器に手を伸ばす。
しかし、誰も抜けない。――抜けば、その瞬間に首を刎ねられると全員が理解していた。
シオンの背筋は、曲がっていない。
腰も低くない。
全てが“偽りの皮”だったことを、一瞬で突きつけられる。
杖の先がわずかに動く。
その軌跡だけで、空気が裂ける音がした。
(……速い。まだ何もしていないのに、“死”の像だけが頭に浮かぶ……!)
リムルードが縮こまり、ガルドの金眼が反射的に細まる。
「主……! こやつ、拙者の目にも“流れ”が映らぬ!」
シオンはただ微笑んでいた。
「残念だ。だが、わたしたちの選択は変わらない。
君が仲間にならぬのであれば――消す。組織の判断は、それだけだ」
その言葉に、広間の温度が一気に氷点下まで落ちた。




