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第17話 歴史の一枚

帰還


 瘴気沼を抜ける風は、生ぬるい泥の匂いをまとっていた。

 巨獣クラガンが沈んだ泥湖の縁に立ち尽くしてから、俺たちはほとんど言葉を交わさず歩いた。足取りに残るのは疲労と、体の芯にじんわりと灯った熱――勝利の余熱だ。


 背でリムルードが小さく震える。核が生むほのかな脈動は、相棒の鼓動と同じリズムで俺の背骨に伝わってきた。

(……やれたな)

 言葉にしなくても伝わる。うっすらと温かい返答が返ってきて、自然と口角が上がる。


 街門が見えた頃には、空は赤黒く染まり始めていた。

 門兵がこちらを見て鼻を鳴らす。「討伐の帰還か」

 ヴォルグが短く頷き、肩の大剣をずらす。「証の分は充分にある。通すぞ」


 石畳の硬さが足裏に戻ってくる。大通りを抜け、冒険者ギルドの獣の紋章が視界に現れた。建物の内から聞こえるのはいつもの喧噪で、酒と油の匂いと笑い声と罵声が混ざり合っている。


 ――ただ、その喧噪が、扉を押し開けた瞬間、一拍だけ止んだ。


 十二人で、真正面から帰ってきた。

 誰も欠けていない。それだけで、空気が変わる。



受付


 カウンターの向こうでミランダが目を見開いた。すぐに仕事の顔に戻り、淡々と首を縦に振る。

「合同依頼、帰還確認。上席係官のライネルに報告、討伐証明の提出をお願いします」


 ヴォルグが前に出る。彼が言葉を選ばず淡々と戦況を述べていく間、俺は自分の胸の奥で波立つ鼓動を整えていた。

 隣でカイルが小声で囁く。「……なあ、ドウマ」

「なんだ」

「さっきから、リムルードがやたら誇らしげに跳ねてるぞ」

 苦笑が漏れる。「そう見えるか」

「見える。……いや、実際、誇っていいさ。俺も助かった。ありがとう」


 そのやり取りを、ミランダは横目でちらりと見た。

 以前は俺を見るたび、彼女の眼差しにはどこか凍った色が混じっていた。それが今は――仕事の冷静さの奥に、わずかな安堵の温度が宿っている。


「続きは上で」ミランダが短く指示する。「ライネルが待ってる」



上席係官室


 重たい扉の向こう、書類の匂いと蝋の灯が沈む部屋。

 上席係官ライネルは変わらない姿勢で机に肘をつき、俺たちの入室と同時に視線を上げた。


「まずは、全員生還――見事だ」

 言葉は簡潔で、声の調子に余計な熱はない。だが、机に置かれた羽ペンの先がわずかに揺れたのを俺は見逃さなかった。彼なりの安堵だ。


 ヴォルグが討伐の流れと証を提出する。鱗片、折れた牙、膝の腱を抉った矢尻に、焦げた甲殻の破片――クラガンが確かに“ここ”で倒れたことを示す断片が机の上に並ぶ。

 ライネルはひとつひとつを検め、最後に静かに頷いた。


「報酬は規定上限。合同依頼規定に基づき、等分割に追加調整。……そして――」


 そこで彼は一拍置き、俺を見た。

「ドウマ。君については別件がある。座ってくれ」


 椅子が軋む音。室内の空気がほんの少しだけ硬くなる。

 ヴォルグも、カイルも、エリナも黙って俺の背を見ている。

 ライネルは机の引き出しから、薄い金属板と濃い藍の革を取り出した。カードの素材だ。


「ギルドカードの発行を許可する」


 心臓が跳ねた音が、自分にもはっきり聞こえた。

 ミランダの指がわずかに止まり、視線がこちらへ向く。

 部屋の隅にいた書記官が小さく息を呑んだ。

 ――ここでは、アヴェルネ出身の者にギルドカードが発行された前例はない。


「誤解のないように言う」ライネルの声は淡々としている。「Ω監査官の『試す価値がある』という意向は、合同依頼の編成判断であり、発行の直接要因ではない。カードは“功績”によってのみ発行される。今回は、合同依頼での貢献と、過去の塩漬け依頼体の討伐実績を統合評価した結果だ。――君自身が勝ち取った」


 胸の奥で何かがほどける音がした。

 “許される”のではない。“認められる”。

 薄い金属板が俺の前に置かれ、ライネルが印章を支度する。


「手を」

 言われるまま、右手をカードの上に置く。冷たい。

 ライネルが古語を紡ぎ、蝋印の熱が走る。魔的な紋がうっすらと浮かび、俺の掌紋と微細な血の情報が吸い込まれる。

 ――ギルドの認証術式。

 薄い金属板に淡い光が走り、名前が浮かび上がった。


 〈冒険者ギルド認可カード〉

 氏名:ドウマ

 出身:辺獄国アヴェルネ

 職能:モンスターテイマー

 認可区分:特例発行・功績準拠


 ライネルがカードを翻して俺に差し出す。

 受け取った瞬間、指が震えた。

 重くはない。けれど、指先に、今まで持ったどんな荷よりも重みが宿る。


「……ありがとう、ございます」

 声が掠れた。思っていたよりもずっと、喉は乾いていた。


 ライネルは軽く首を振る。「礼は不要だ。これは規程だ。――ただし」

 そこで、彼は前のめりに身を寄せ、視線をわずかに強くする。

「カードは“道具”であり、免罪符ではない。今日の功績が、明日の安全を保証することはない。わかるな」

「……ああ」


 そのとき、コンコンと扉がノックされた。

「入れ」

 扉の隙間から、分厚い肩と太い腕が覗く。

 ――ダロスだ。



ダロス


 ギルド最古参にして、この支部の実力ナンバーワン。

 あのとき、俺をけちょんけちょんに地に叩きつけ、上級ポーションをぶっかけた男が、無骨な笑みを浮かべて立っていた。


「邪魔しねぇ範囲で顔見に来ただけだ」

 彼の視線がカードへ落ち、次いで俺の目に戻る。

 ため込んだ言葉を、ひと呼吸で押し出すように、短く言った。

「――やったな」


 それだけで、胸が熱くなる。

 ダロスは照れを隠すみたいに後頭部をかき、「上で待ってっからよ」とぶっきらぼうに言って踵を返した。



酒場の卓で


「来い」

 ダロスに袖を引かれて、俺は酒場側の角卓に座った。木目が刃でえぐられ、古い酒の染みが黒く沈んでいる。

 ダロスは酒を二つ頼み、パンと煮込みと干し肉の盛り合わせをどさりと置いた。


「今日くらい、奢りだ」


「……いいのか。前も奢ってもらったが」

「良くなきゃやらねぇ」

 彼は杯を持ち上げ、俺の前で止める。

「言っとくが、俺は感傷に浸るタチじゃねえ。だが――あの時のお前は“倒れなかった”。今日のお前は、仲間と共闘できることを証明した。一緒に依頼を受けた連中の態度の変化を見りゃ……お前が役に立ったのは間違いねぇ」


 杯がぶつかる。

 粗い酒が喉に落ち、胸に渋い熱を残した。


「なあ、ドウマ」

「うん」

「お前の“これから”はどうする。カードを手に入れた。――つまり、もう他の街でも依頼を受けられる。ここに残るのか、それとも別の場所へ行くのか。どう考えている?」


 一瞬、返す言葉が出てこなかった。

 ギルドカード。それはただの金属片ではない。アヴェルネ出身の俺にとっては、これまで決して手に入らないと思っていた“証”だった。

 それを持ったという事実は、ただのハンターとして認められたこと以上の意味を持つ。確かに、これからは形式上どの街でも依頼を受けることができるだろう。


 だが同時に、思い出すのは突き刺さるような視線。

「穢れた血」と吐き捨てられた言葉。

 その偏見が他の街で消えるわけではない。


 胸の奥でリムルードが小さく震えた。

(……ここに、いる?)

 問いかけるような感触。

 俺は小さく息を吐き、うなずいた。


「……しばらくは、この街で歩むつもりだ。

 まだ力は足りない。けれど、もっと強くなりたい。

 アヴェルネの者でも胸を張って生きられると、証明してみせたいんだ」


 自分でも驚くほど、言葉は自然に口をついて出ていた。

 それは迷いではなく、決意の形だった。


 ダロスは黙って俺を見つめ、やがて口の端をわずかに上げた。

「……なるほどな。だったら俺たちも、見届けるしかねぇ」

 その声音は、認めざるを得ないという響きを帯びていた。

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