第10話 虚しき英雄、限界の壁
静かな帳
ギルドの騒乱が収まり、人々が散っていった後の静けさ。
ドウマはまだ胸の鼓動を抑えきれずにいた。
あの古竜を従える姿――そして人間の常識を超える圧倒的な力。
それを見せつけたΩは、いまはただ椅子に腰掛け、報告書に目を落としている。
その姿が、どうしても理解できなかった。
「……ひとつ、聞いていいか」
沈黙を破ったのはドウマだった。
「なぜ、アヴェルネの英雄が……監査官なんて仕事をしてるんだ」
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力を抑える理由
Ωは筆を止め、視線を上げた。
瞳は澄んでいたが、どこか遠い。
「英雄、か。……そう呼ばれるのは好まぬな」
「でも、あんたは……大陸最強だろ。誰も逆らえない存在で、列強ですらあんたを恐れて……」
「その“恐れ”こそが、私を縛る鎖だ」
静かな声が石壁に響いた。
「力を振るえば、誰もが跪く。勝利も、栄光も、やがて同じに霞む。
だからこそ私は監査官を選んだ。ただの人間として、規則に従い、人の営みを計る立場でいるためにな。
剣ではなく言葉を、力ではなく理を使って秩序を守る。……そうしなければ、自分が人であることすら忘れてしまうからだ」
ドウマは言葉を失った。
Ωほどの存在が“ただの人間である自覚”を守るために、監査官を選んだ――。
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名乗りの意味
ドウマはふと、先ほどの光景を思い出す。
ラガードを前に「Ω」と名乗った瞬間。あれは力を振るうのと同じではないか――。
「……あの時、なぜ“Ω”と名乗った? 力を見せつけたのと変わらないだろ」
Ωは静かに笑った。
「わかっている。名を明かすことは、力を使うのと変わらん。だが、あの場では必要だった。
もし剣を抜けば、ギルドも街も崩れる。だが“Ω”という言葉ひとつで止まるなら、それは最も穏当な手段だ。
力の代わりに、名で抑えた――そう考えれば理解できるだろう」
ドウマは頷いた。確かに、あの場を血で濡らさずに済んだのは、Ωが名を明かしたからだった。
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救えぬ祖国
だが胸の奥の叫びは抑えられなかった。
「……力を使いたくないと言っていたが、アヴェルネの現状を見て、何も思わないのか?」
ドウマは言葉を強める。
「俺なら――あの惨状を、何とかしたいと思う」
Ωの表情がわずかに陰った。
「私は王に恩がある。拾われ、信じられ、役を与えられた。その恩を裏切り、私情で国を揺るがすことはできん」
その声音は揺るぎなかった。
同時に、そこには深い悲しみが潜んでいた。
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限界の理
Ωはしばし沈黙し、それから淡々と続けた。
「それに――私は百人に勝てる。千にも勝てる。万であっても変わらん。だが十万には? 百万には? 勝てる道理はない」
ドウマは息を呑む。
だがΩはさらに続けた。
「人間種の限界はレベル二五〇。建国王たちが辿り着いた究極の壁だ。それを超えぬ限り、軍勢という“数”には必ず押し潰される。私がどれほど強くとも、世界は変わらん」
その言葉は冷たくも真実だった。
力だけでは救えない。個では、国という仕組みに勝てない。
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挑む者の眼
ドウマは唇を噛みしめた。
頭では理解している。だが胸は燃え上がる。
「……それでも。俺は、あんたとは違う答えを見つけたい」
リムルードが小さく震え、同調するように脈打つ。
「俺は弱い。けど、この世界で虐げられているのは俺だけじゃない。あんたが“理”を選んだのなら、俺は“抗う”を選ぶ」
Ωはしばし沈黙し、やがてほんのわずかに口元を緩めた。
「……そうか。ならば進め。だが覚えておけ。数の理は残酷だ。必ずその壁に突き当たる」
「突き当たったら――壊すだけだ」
その言葉に、リムルードがぽんと跳ねた。
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英雄の眼差し
Ωの瞳が鋭く光った。
それは英雄の眼差しではなく、ひとりの先達としての眼差しだった。
「……そうは言ったがな」
声が少し柔らかくなる。
「お前に親近感を覚えているのも事実だ。出身も同じ、職も同じ。私もモンスターテイマーだった。だからこそわかる。お前がこれから歩む道が、どれほど困難かも」
ドウマは息を呑んだ。
Ωは続ける。
「今後は好きに依頼を受けろ。私の名の下に保証する。誰であれ咎めはせぬ」
その言葉は、重い鎖を断ち切るように響いた。
だが同時に、冷たい現実も投げかけられる。
「勘違いするなよ。私とてアヴェルネの惨状を思わぬわけではない。だが力を振るいすぎれば、必ず反感を買う。結果、差別は逆に強まるだろう」
その声音には苦い真実が宿っていた。
救いたいものを救えない無力――いや、強すぎるがゆえに縛られる力の矛盾。
ドウマは拳を握りしめた。
彼は知った。
Ωですら完全には救えぬ世界で、自分が挑むべき壁がどれほど高いのかを。
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終わりなき問い
――力を抑えて理を選んだ者と、力を求めて抗う者。
二つの意志は交差し、夜明け前の空に重く刻まれた。




