第二話:死人が歩いた?→それ、二酸化炭素の仕業かと
後宮・西苑の夜は、静かで涼しい──はずだった。
けれど、今宵の苑内には妙な空気が流れていた。
西苑の奥にある「梅香の庭」で、**“死んだはずの女官が歩いていた”**という話が広まっていたのだ。
「白衣を着た女が、すうっと通り過ぎたの……! あれ、確か、紅蓮花の侍女じゃ──」
「あの子、死んだじゃないの! 舌から泡を吹いて……!」
「呪いだわ……花の呪い……」
女官たちは口々に怯え、下女の一人などは泣き出す始末だった。
煌璃はといえば、その話を聞いても微塵も動じなかった。
代わりに、庭の地面をじっと見つめていた。
「……ふーん。死体が歩くなんて、ありえない」
そして、ぽつりと。
「死人が動いたように見えたのなら──それ、たぶん空気のせい」
「空気……?」
女官長が眉をひそめる。
「はい、空気の“重さ”って、案外バカにできないんです。ここ、ちょっと低くなってるでしょう?」
煌璃は手に持っていた銀の小さな器──浅鉢のような器を、地面にそっと置いた。
中には石灰水が少量。水面はぴたりと静止している。
彼女はその器の周りで小さく火を灯した。
「じゃ、実験。火をつけますね」
「えっ!? 火なんて危な──」
ぱちっ、と焚いた瞬間、火は──音もなく“消えた”。
「……!?」
「どうです? これが二酸化炭素です。空気より重くて、こういうくぼ地には溜まりやすいんです」
煌璃は香袋から木炭の粉を取り出し、さらに手元の紙に書き込む。
「近くの部屋に“炭焼き香炉”があるんです。香料の中に含まれる樟脳と炭の不完全燃焼で、微量の一酸化炭素と二酸化炭素が発生してたはず」
「で、でも、それと死人が歩くのと、何の関係が……?」
煌璃は、小さく笑う。
「たとえば、こんな状況ならどうです?」
と、懐から取り出したのは──人形。
真っ白な布にくるまれた、首の揺れる作り物だった。
「布の中に、ちょっとだけ熱と空気があれば……中のガスが対流して、ふわっと動くんです。まるで“人が歩いた”みたいに」
「ま、まさか……!」
「はい。『死人が歩いた』のじゃない。『歩いてるように見えた』錯覚しただけ。
──ガスと熱と、光の屈折、そして恐怖。人の目は案外、だまされやすいんです」
煌璃は立ち上がり、梅香の庭を見渡す。
「きっとこの騒ぎも、誰かが意図的に“死人が歩いたように見せた”んでしょう?……何のためかは、まだわからないけど」
女官たちは呆然としながらも、何人かは安堵の息をついた。
煌璃は小さくあくびをすると、うんざりしたようにぼやく。
「はぁ……この後宮、ほんと、科学で解ける問題ばっかり。もっとこう、実験のしがいがある事件、来ないかな」
──だがそのとき。
遠くから、「皇太子様が刺客に襲われた」という報せが飛び込んできた。
煌璃の表情が、ほんの少しだけ真剣になる。
「へぇ……それは、面白いかもね」
──溶ける刃”と“消えた密書”、そして王子の口にできぬ秘密。
次の事件は、火薬と水銀が香る、危険な化学の謎――。”