結 世界は色を変える
「今日もありがとうございました。家まで送ってもらっちゃってすみません。」
「これくらい何でもないですよ。こちらこそありがとうございました。」
夏も終わりに近づいてきた日の夜。
綺麗なマンションの前で車を降りた雛乃と別れの挨拶を交わす。
桔平が仕事以外で彼女と会うのもこれが五度目、こうして家に送るのは二度目のことだった。
「その、またご一緒できたら嬉しいです。」
「勿論です。今度は俺からお誘いしますね。」
「ありがとうございます!お待ちしてますね!」
「はい…それじゃまた今度。」
「はい、お気をつけて!」
律儀に一礼する雛乃に手を振り、桔平はブレーキから足を離した。
「お楽しみでしたね、桔平くん。」
後部座席から乗り出し、意地悪そうな笑みを浮かべる沙華。
その楽しげな声音に桔平は苦笑するしかない。
「こんな時まで着いてこなくても良いんだぞ?」
「むっ、それは私がお邪魔虫という事ですかな?」
「そんな事はないさ。俺が気付かないようなことも気付かせてくれるし、感謝してるよ。」
「そこは"そろそろ雛乃さんと二人きりで過ごしたい"くらい言ってくれて良いんだけど?」
「一瞬でもお前と離れたくないからな。」
「っ…そ、そう……全く桔平くんはいつまで経っても甘えん坊なんだからっ!」
沙華は思わぬ反撃に顔を赤らめた。
雛乃という存在に何を見出したかは沙華のみぞ知るところだが、自分が消えた後の世界で彼女に桔平の人生を託そうとしているのは間違いない。
しかしそれでも、沙華が桔平の元妻であり今でも彼を心から愛しているのも、これまた揺るぎない事実であった。
桔平が沙華を蔑ろにせず、未だにこうして愛を囁いてくれる事を、一人の女として喜ばずにはいられなかった。
だがそれはそれとして、沙華は桔平が早く自分だけでなく雛乃を想うようになってはくれないかとも思っている。
「ねぇ桔平くん。雛乃さんのこと、どう思ってるの?」
「…唐突だな。それに直接的だ。」
単刀直入な言い方が沙華らしい、と桔平は苦笑した。
「嫌いではないんでしょ?」
「そりゃ勿論。私的に五回も会うくらいだしな。」
「なら、好き?」
「それは……」
桔平はうまく言えずに口籠る。
実際、彼は既に彼女のことが気になってはいた。
既に三十歳を迎え、そう簡単に人を好きになったりはしない。
しかし何とも思っていない人間とわざわざ時間を合わせて会うほど彼は暇ではないし、女性の心を弄ぶような男でもない。
雛乃の気持ちをそれとなく察しているのだから尚更であった。
「雛乃さんはウェルカムだと思うけどなー。」
「そう…かもしれないな。」
桔平には何となく伝わっている程度だが、沙華からすれば雛乃はわかりやすく好意を前面に出していた。
ただ助けられたからというわけでもなく、会う回数を重ねるごとに彼女は桔平に惹かれていった。
そしてそれは、桔平の方も同じかもしれない。
「雛乃さん良い人だよね。優しいし、真面目だし、話し上手だし、綺麗だし、スタイル良いし、お仕事もバリバリだし。」
雛乃が取引先の会社にいるとわかって以降、何度か桔平は彼女と仕事でも関わっているが、雛乃は確かに仕事のできる人間であった。
「確かにな…沙華より話すの上手いし、沙華より歳下なのに落ち着いてるし、スタイルも……うん。」
「どこを見ているのかな桔平くん。」
「い、いや、何でもない。」
どちらかというと平坦な沙華の胸部をチラ見していると、底冷えのするような声が発せられ、桔平は慌てて前を向く。
笑って誤魔化す桔平に、沙華は頬を膨らませて"まったくもう!"と言いつつ、すぐに呆れたように笑った。
運転中でその笑顔をしっかりと見られない事を、桔平は残念に思った。
沙華は雛乃より物事を順序立てて話すのが苦手だし、歳を取っても子どもっぽいところがあるし、スタイルは悪くないが色気のある体かというと決してそうではない。
だが桔平は彼女が人の話を聞く時の楽しげな微笑みや、いくつになっても変わらず天然で可愛いところや、ほっそりとして守りたくなるような華奢な体つきを愛しく思っていた。
「……沙華は、随分と雛乃さんを気に入ってるよな。」
信号待ちのタイミングで、桔平は空気を変えるようにそう言った。
「うん、まぁね。」
あっさりと彼女は頷く。
「それ、何か理由とかあるのか?」
「んー…わかんない。普通に良い人だと思うし、桔平くんともお似合いだと思う。でもそういうの抜きにして、"この人しかいない!"って思っちゃったんだよね。」
「そうか……沙華は俺が雛乃さんと一緒になっても良いのか?」
「当たり前じゃん。そうじゃないと二人をくっつけようなんて思わないよ。」
「そりゃそうだけどさ。」
言いたいことはわかるが、もう少し嫉妬やらしてくれても良いのではないか、と釈然としない様子の桔平。
沙華はそんな桔平の不満を汲み取ったのか、曖昧に笑いながら言った。
「私だって他の人に桔平くんを渡したくないよ。私と桔平くんで幸せになれたら、こんなに嬉しいことはないって思う。でも仕方ないじゃん。」
死んじゃったんだもん、と、かつて彼女はそう言った。
こうして傍にいて、話して、笑い合う事はできる。
しかし触れることも、唇を重ねることも、愛を交わすこともできない。
おまけにいついなくなるのかもわからない。
「誰にも桔平くんを譲りたくない。でも桔平くんを一人にはできない。私が死んでからの三年間でそう思ったの。そして、雛乃さんなら任せられる。ううん、彼女しかいないの。」
「………」
沙華の言うことはわかる。
しかし桔平は肯定したくなかった。
「桔平くんだって雛乃さんに惹かれ始めてるはずだよ。見てたらわかるもん。」
「それは…」
「急がなくても良いよ。たぶん私がいなくなっても、雛乃さんなら桔平くんを支えてくれるから。でも、できれば……できれば、桔平くんが幸せになるのを横で見てから、消えたいな。」
「そんなこと……言うなよ。」
「…ごめんね。」
沙華は悲しげに笑った。
家に着くまで、車内には沈黙が続いた。
一月ほどが経ち、夜になると金木犀の濃い香りが漂うようになってきたある日。
桔平と沙華は、寂れた公園のベンチに座って中秋の名月を眺めていた。
「……お前が戻ってきて、もう一年か。」
「そーだねぇ。この一年、早かったなぁ。」
「だな。でも、色んな事があった。」
「桔平くんもすっかり変わっちゃって……ふふっ、あの時の桔平くんったら、腐った毬藻みたいだったもんね。」
沙華は意地悪そうにニヤニヤと笑う。
「腐った毬藻って…まぁ否定はできないけどな。」
「それが今やすっかり爽やかで筋肉質な料理男子になっちゃって。」
「誰かさんのお陰でな。」
「桔平くんが頑張ったからだよ!お仕事も順調だし、周りの人とも仲良くできてるし。」
「それも、誰かさんのお陰だな。」
「ううん、全部桔平くんの力だよ。私はただ、ほんの少し背中を押しただけ。」
「……誰も沙華の事だとは言ってないけど。」
「こーら!お姉さんを揶揄うんじゃないの!」
「誰がお姉さんだっての。俺の方が一つ上だろうが。」
「ざんねーん、私は二十六歳のままなのでもうすぐで五つ下ですー!」
「…笑えない冗談だよ、本当に。」
力なく項垂れる桔平。
その横で沙華はクスクス笑いながら大きな月を見上げた。
「……ねぇ、桔平くん。」
「ん?」
桔平が顔を上げ沙華を見ると、彼女も桔平の顔をしっかりと見据えた。
その綺麗で大きな瞳には、不安や悲しみや希望や諦念や安堵など、様々な感情が渦巻いていて、彼女の中でどれが一番大きいのか、窺い知る事ができなかった。
しかし、確固たる意志と覚悟があるのだけは理解できた。
桔平は無意識に息を呑む。
「………告白、されちゃったね。」
「……うん。」
「どうするの?」
「……………」
「雛乃さんとなら、桔平くんは幸せに暮らせると思うよ。」
「…俺も、そう思うよ。」
「なら何を迷ってるの?桔平くん、もう雛乃さんのこと好きだよね?」
「そう、かもしれない。」
「誤魔化さないで。」
「……あぁ、そうだな。俺は、雛乃さんに惹かれている。」
沙華の瞳が僅かに揺れる。
覚悟していたのに、自身が望んだことなのに、わかっていたはずなのに、いざ言葉にされると。
「なら、やっぱり迷うことないよ。なるべく早く会って、返事してあげて。あまり先延ばしするのは失礼だし、可哀想だよ。」
「…………」
「桔平くん?」
「俺は………」
桔平は俯き、膝の上の拳をギュッと握りしめた。
そしてややあって顔を上げる。
沙華は目を見開き息を呑んだ。
彼は、泣いていた。
「どうして…どうして沙華じゃないんだ。俺は沙華が良かったのに、お前と一緒にいられたらそれで良かったのに。」
「それは…だって仕方な…」
「そんな言葉は聞きたくない!」
桔平の悲痛な叫びが沙華の言葉を断ち切る。
「わかってるさ!最初から全部わかってたんだ!沙華はもう死んで、俺は一人で、自分の人生を生きなきゃいけないって!お前がいつか消えてしまうことも、俺が沙華以外の人に惹かれてしまったことも、全部本当のことで……でも、でも……」
桔平の嘆きは誰に向けられたものなのか。
自分か、沙華か、世界か。
彼は怒りの矛先を知らない。
何に怒っているのかさえ整理できない。
最愛の人の死。
そして新たな恋。
かつての愛を裏切ってしまったという罪悪感。
たとえそれが、彼女自身が望んだ事であったとしても。
「桔平くん…」
いじけた子どものように嘆く桔平を見て、沙華もいつの間にか涙を流していた。
だが彼女は、妻として、彼を叱咤する。
「桔平くん…甘えないでよ。」
「え…?」
冷たい言葉に顔を上げる。
沙華は大粒の涙をポロポロと溢しながら、それでも厳しい目で桔平を見据えていた。
「いつまで死んだ人間に縋っているつもり?私は、そんな情けない人のお嫁さんになった覚えはないよ。」
「沙華…」
「私だって…私だって辛いに決まってるじゃん。」
彼女のそんな顔を、彼は初めて見た。
「桔平くんの隣にいられないのも、桔平くんが私以外を好きになっちゃうのも、その人と一緒になっちゃうのも…全部全部全部全部嫌だよ!」
沙華もまた、慟哭する。
「他の人と幸せにするのなんて見たくない!他の人に桔平くんが笑顔を見せるのなんて見たくない!他の人に桔平くんが優しくするのなんて見たくない!…でも…でもね……!」
桔平も、沙華も、溢れ出す涙を止められない。
「でも、もっと嫌なのは、桔平くんがずっと一人ぼっちで、寂しく生きていくこと。桔平くんがずっと思い出に囚われて前に進めないこと。桔平くんが幸せになれないこと。」
「沙華…俺は……」
彼女の嘆きに、彼女の怒りに、彼女の優しさに……桔平は己の甘えをこれ以上なく理解した。
「桔平くん、素直になって。そして少しだけ大人になろう。変わらないものって美しいかもしれない。変わってしまうのって怖いかもしれない。でもね、変わることは、変わらないものを否定することにはならないよ。」
彼女はもう変わることができない。
変わらないものである彼女は、桔平に変わることを望む。
それがとても残酷なことだとしても、それが彼女の愛だから。
そして、桔平は彼女の愛に支えられて、少しだけ大人になる。
「沙華……俺は、沙華が好きだ。」
「うん。」
涙を拭い、桔平は彼女を見る。
彼女も、目を潤ませながら微笑んだ。
「この世界の誰よりも、沙華を愛してた。」
「うん。私も…この世界の何よりも、桔平くんを愛してるよ。」
「お前が死んで、俺は全てを失ったと思った。沙華の言葉だけが、俺をこの世界で生かしていた。」
「だとしたら、あの時の私の言葉はこれ以上ないくらい正しかったね。」
「幸せになんてなれるわけないって、沙華以外との幸せなんて考えられないって、そう思ってた。」
「うん…悲しいけど、嬉しいよ。」
「でも……沙華が戻ってきて、俺を支えてくれて、そして……雛乃さんに出会った。」
「運命的な出会いだったよね。私のお陰だけど。」
「そうだな。本当にその通りだ。俺はいつも、沙華に支えられてばっかりだ。」
「でもこれからは、違うよね。」
「……あぁ。」
沙華は笑っていた。
とても悲しいはずなのに、悔しいはずなのに、虚しいはずなのに。
彼女の強さに、桔平は応えなければいけない。
そうでなければ、嘘だ。
「俺は、もう大丈夫だ。これからは怠けないし、料理もちゃんとする。仕事も真面目にやるし、周りの人ともうまくやっていける。」
「信じてるよ。」
「悲しくなる事もきっとあるけど…でも、もう全てを諦めたりしない。過去に囚われたりしない。沙華に縋ったりは…しない。」
「……うん。」
「沙華……俺、好きな人ができた。」
「………うん。」
「綺麗で、真面目で、落ち着いてて、話が上手で……そして優しい。」
「私とどっちが綺麗?」
「そんなの選べないさ。」
「良かった。ここで私を選んでたら怒ってたよ。」
「だろうな。」
桔平は笑った。
沙華も笑っていた。
悲しみを誤魔化すように。
二人の間にある、どうしようもない溝を乗り越えたくて、それでも乗り越えられないと知っているから。
この時間が、いつまでも続かないと知っているから。
「………俺は、雛乃さんとこれからを生きていきたい。あの人となら、きっとそれができると思う。」
「…私も、そう思うよ。」
手が届きそうなほど大きく、そして悲しいほど遠い月が二人を照らしていた。
「桔平くん、最後に一つだけ、良いかな。」
「……うん。」
これが、本当に最後なのだと、二人にはわかった。
わかってしまった。
それでも彼女は笑う。
だからこそ、笑うのだ。
桔平が、何よりも好きだった優しい笑顔で。
「桔平くん、これからも生きて。幸せになって。約束だよ。」
かつて桔平を縛りつけた呪い。
あの時は、何も返せなかった。
「あぁ、約束するよ。必ず、幸せになる。」
きっと彼は生涯彼女への愛を忘れない。
どれだけ新しい愛が大きくなろうとも。
彼女から与えられたものは、いつまでも彼の中で変わらないから。
優しい月の光が桔平を照らす。
彼は、一人で月を見上げた。
短いですがこれでこの物語は終わります。
読んでいただきありがとうございました。