承 世界は色を取り戻す
「……大丈夫?」
ソファにぐったりと座り込んで目を泣き腫らしている桔平を、沙華は心配そうに見つめてそう言った。
随分長く泣いていた。
桔平がこれほど涙を流したのは、三年前のあの冬の日以来の事であった。
「あぁ、大丈夫……いや、大丈夫ではないかも。」
沙華の姿を見て、その声を聞いて、込み上げるものを我慢できずに吐き出した桔平だったが、頭が落ち着いてくるとその異常な現象に困惑し出した。
「沙華…なんだよな?間違いなく。」
「そうだよ。桔平くんの幼馴染で、奥さんで、三年前に死んじゃった柴田沙華です。」
戸惑いながら問いかける桔平に対し、沙華は暖かく笑った。
「これは夢か?沙華が蘇る夢?」
「違うよ。これは紛れもない現実。でも残念ながら蘇ったわけじゃないんだよね。」
困ったように苦笑する沙華。
桔平は嬉しさ半分悲しみ半分に首を捻った。
「なら俺の目の前にいる沙華は……幽霊?」
「うん、それが一番正しいかな。」
「どうして……どうして、今更…?」
悲しみ、怒り、戸惑い…あらゆる感情が渦巻いている。
だが絞り出されたようなその言葉に対し、沙華はむっとしたようにぷっくりと頬を膨らませた。
幽霊になっても子どもっぽいところは変わらないようだ。
「桔平くんのせいだよ!」
「えっ?」
何を言うのかと困惑するしかない桔平。
そんな彼に更に詰め寄りながら、沙華は幼子を叱るように人差し指を立てた。
「私言ったよね。幸せになってって。」
「あ、あぁ…」
圧倒されながらも頷く。
忘れるはずもない。
この三年間、その言葉が桔平をこの世に縛り付けていたのだから。
「ぜんっぜん幸せじゃないじゃん!仕事もダラダラ、プライベートもダラダラ!体もぽよぽよ!髭はもじゃもじゃ!」
「い、いや、怠けてるのは否定しないが髭はそれほど伸びて…」
「だまらっしゃい!」
営業として社外に出る日には最低限髭剃りもしていると言い返そうとするも、沙華の剣幕に押し黙るしかない。
こういう時の彼女に言い返してはいけない、というのは桔平は重々承知していた。
「髪を切り揃えなさい!髭を剃りなさい!体を鍛えなさい!ちゃんとお仕事しなさい!しゃんとしなさい!リア充になるの!」
「リア充…?」
久々に聞いたなそんな言葉、と現実逃避するように考える。
「桔平くんがあんまりにもダラダラしてるから、幽霊になったんだよ。私は怒ってるんだよ!」
怒ってるのは見ればわかる。
そんな言葉を飲み込んで桔平は口を開いた。
「……つまり、俺を更正させる為に幽霊になったのか?」
「ざっつらいと!」
指で丸を作って意地悪く笑う沙華。
三年越しに出会えた最愛の女性に叱られた桔平は、色んな感情が綯い交ぜになってどうして良いかもわからず、曖昧に笑い返した。
「それで、更正させると言っても何をするんだ?」
「まずは髭を剃って髪を切ります。話はそれからです。」
どこからか取り出した眼鏡をつけた沙華はそう言った。
「何だその眼鏡?そんなのつけたことなかったろ。」
「幽霊ぱわーで出しました。私はこれから鬼教師になるのです。」
「幽霊ぱわー。」
「私にもよくわかりません。」
「ぽんこつだなぁ…」
「むっ…この鬼教師にぽんこつとは、良い度胸ですね桔平くん。」
わかりやすくむっとする沙華を見て桔平は小さく吹き出した。
「随分と可愛い鬼教師もいたもんだ。」
「か、可愛いなんてそんなこと言っても先生は手加減しませんからね!」
久々にそんなことを言われたからか、顔を赤らめてそっぽを向く。
そんな彼女があまりにも愛しくて、桔平は泣きそうになりながら笑った。
「ちなみに、俺を更正させてどうするんだ?」
「リア充にするの!」
眼鏡を外してあっさりと教師スタイルをやめる沙華。
「何故に…」
「もちろん、桔平くんを幸せにする為だよ。」
「幸せにって言われても…」
このまま沙華がいてくれたらそれで幸せなんだが。
そう言おうとした桔平だったが、それを察した沙華が悲しげに微笑みながら首を振った。
「駄目だよ桔平くん。私はもう死んじゃったの。私じゃもう、桔平くんと幸せにはなれないの。」
「そんな…」
「桔平くんはちゃんとしたらカッコいいんだから、きっとこれから素敵な人と出会って、素敵な恋をして、幸せな人生を送れるよ。」
「無理だよ。俺には沙華がいないと…」
「無理じゃないよ。」
きっぱりとした彼女の言葉に、俯き掛けていた桔平が顔を上げる。
そこには、愛おしげに微笑む沙華がいた。
「私は桔平くんの事を誰よりも知ってるよ。桔平くんは優しくて、カッコよくて、そして強い人だよ。だから、きっと大丈夫。」
「……仮に俺が他の人と幸せになれたとして、沙華はそれで良いのか?」
「良いわけないじゃん。」
いじける子どものような桔平の言葉を、意外にも沙華は否定した。
桔平は目を丸くする。
「良いわけないよ。桔平くんのことを誰よりも好きなのは私だもん。そんな桔平くんが他の人となんて…そんなの嫌に決まってるよ。」
「沙華…」
「でも仕方ないよ。私、死んじゃったんだもん。」
悲しくて、悔しくて、痛々しい。
彼女の全てを知っていると思っていたのに、初めて見るその表情に桔平は胸が強く締め付けられるのを感じた。
「…もし俺が幸せになれたら、沙華はどうなる?」
「成仏…しちゃうかな。」
「なっ!!だ、だったら俺は…!」
目を見開く桔平の口に、沙華は優しく指を当てた。
「ううん、もし桔平が"そのまま"だったとしても、私はいつまでもここにはいられないよ。」
「そんな……一体、いつまで…?」
「わからないの。」
縋るように問うも、沙華は眉を顰めて首を振る。
「明日かもしれないし、一年後かもしれない。こればっかりは幽霊ぱわーでもどうにもならないみたい。」
彼女の苦笑いにも笑い一つ返せない。
桔平は再び絶望に陥ったように感じた。
「だから、ね。……桔平くん。」
項垂れる桔平に、沙華は懇願するように、しかし優しい声音で言った。
「お願い。私の為に、幸せになって。」
その言葉に桔平は顔を上げ、彼女の顔を見る。
そして再び俯き、こういう時に沙華に勝てた試しがないことを思い出し、吐き出すように零した。
「沙華は……卑怯だ。」
そんな言い方をされたら、彼が断れない事を、彼女は知っていた。
しんみりした空気を入れ替えるようにニコニコ笑って元気に話す沙華に指図されるままに、桔平はシャワーを浴びて髭を剃り、美容室に行って髪を切り揃えた。
こんな爽やかな短髪にしたのはいつ以来だろうか、とジェルワックスで上げられた前髪を摘みながら考える。
この三年間は仕事に支障をきたすレベルに伸びれば適当に切ってもらう、という事を繰り返していた桔平は、久々に鏡でまじまじと自分を見たような気がした。
「うん、やっぱり桔平くんにはそういう爽やかなのが似合うよ!若くなったね!」
レースをかけられている桔平の後ろでは、沙華が腰に手を当てて満足そうに笑っている。
彼女の姿は桔平以外には見えず、声も聞こえていないようだった。
「どうせ伸ばしたらおっさんだよ。」
「…?何か気になるところありました?」
「あぁいや、なんでもないです。これで大丈夫です、ありがとうございました。」
沙華に何かを言っても周りの人には独り言だとしか思われない。
首を傾げる美容師に愛想笑いを浮かべ誤魔化した。
「ふふ、桔平くん焦ってる。」
意地悪そうに笑う沙華。
桔平には短髪が良いと言っていた彼女だが、自身はいつも自慢の黒髪を長く伸ばしていた。
その艶やかな黒髪が桔平は好きだった。
「ジムに行きましょう!」
「ジム?スポーツジムか?」
「そのとーり!桔平くんにはそのだらしない体を引き締めてもらいます。」
「だらしない…か?」
桔平は下っ腹を摘む。
三年前と比べたら確かに脂肪が乗った気がするが、だらしないとまではいかないレベルだ。
「だらしないよ!魅惑のシックスパックはどこにいったの!?」
「まぁ確かに割れてはいないけどさ…」
中学に入学してから大学を卒業するまで柔道部に所属していた桔平は、その恩恵もあって三年前までは人並み以上の筋肉を保持していた。
今でも体格の良さは変わらないが、中年らしい体に変わってきているのは間違いなかった。
「折角の筋肉が泣いてるよ。この三年間、まともに運動もしなくなったでしょ。」
「否定はしない。」
散歩好きな沙華に付き合って休日もよく歩いていた時からすれば、体を動かすことは格段に減っていた。
おまけに食事も出来合いのものや外食ばかりになり、不摂生度は確実に上がっていた。
「ジムで鍛え直して…それからお料理も覚えてもらいます!もう私は作ってあげられないんだからね。」
そんな悲しい事を言うな、という言葉を飲み込み桔平は渋々頷いた。
その後、家からなるべく近いジムへ行ってパーソナルトレーナー契約を交わした。
桔平はセルフのジムで良いと主張したのだが、まずは正しい知識と習慣を身につけた方が合理的だと沙華に諭され、パーソナルジムへ行ったのだった。
無事に契約を済ませ、暫くは週に二回ほど通って筋トレをしつつ、毎日の食事内容を送ってアドバイスをもらい調整していく形となる。
というわけでこれからは栄養のバランスも考えた食事が必要になり、桔平を立派な料理男子にしてみせると沙華が張り切っていた。
「まずは包丁の使い方から!」
「いや、流石に包丁くらい人並みには使えるぞ。」
この三年間は一人で暮らしてきたのだ。
外食等が多かったとはいえ、自炊を全くしなかったわけではない。
「むむ…なら鍋振りの練習よ!」
「そんなに本格的にしなくて良くないか?適当に炒めるくらいならできるし。」
「それもそうだね……よし、ならまずはこの沙華ちゃんが桔平くんの腕前を見てあげようではありませんか!」
「まぁ妥当だな。それは良いけど…食べられるのか?」
「食べられはしないけど、味はなんとなくわかるよ。」
「どうやって?」
「幽霊ぱわーで。」
「都合良いなそれ…」
不可思議なぱわーに首を傾げつつも、桔平はキッチンへ向かったのであった。
「ふむふむ…なかなかやりますなぁ。」
桔平が作った豚の生姜焼きに手をかざしてむむむ…と何かを念じているような沙華。
「それほんとに味わかるのか?」
「わかりますとも。生姜をやや強めにきかせたお肉の味が。」
確かに桔平は生姜の風味がしっかりする方が好みであった。
「んで、どうなんだ?」
「美味しい!手際も悪くないし、成長したね桔平くん。お姉ちゃんは嬉しいよ…」
「誰がお姉ちゃんだ。俺の一つ下だろうが。」
「ぶっぶー!私は二十六歳のままなのでもうすぐで四つ下ですぅ。」
「それ笑えないから。」
自らの死をネタにする沙華に、勘弁してくれと首を振る。
「とにかく、最低限料理できるのはわかったんだからもう良いだろ。」
「これだけじゃまだなんともねぇ。それに味付けも桔平くんの好みに偏りまくってるし。」
「俺が食うんだから偏ってて何が悪いんだよ。」
「それじゃ駄目!いつか女の子に作ってあげる時に、これじゃいかにもな男料理でモテないのよ!」
「いや、別に作る予定もないし、なんならそんな時こなくたって……待て、わかった、わかったから。」
口をへの字にして目を潤ませる沙華に、桔平は両手を上げて降参の意を示した。
「へへっ、相変わらずちょろいね。」
「何か言ったか?」
「なんでもなーい!さぁ、それじゃ今日から毎食作ってもらうからね!精進したまへ!」
「はいはい、わかったよ。」
面倒だと思いつつも、桔平は自身の口角が上がってしまうのを自覚していた。
こんな他愛のない会話こそが、彼がずっと望んでいたものだったから。