起 灰色の世界
オフィスの窓にかけられたブラインドを背に座る男性が、手渡された数枚の書類に手早く目を通す。
暫くして彼はデスク前に立っている書類の作成者を見上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「…うん、オッケーだよ。お疲れ様。」
営業部の部長職にある彼は、禿げ上がった頭と二重顎をたたえるいかにもな中年男性だが、その人当たりの良さと意外な頼り甲斐から若い部下に人気がある。
そんな部長の前にいるのは、ひとまず寝癖だけはおさえましたというような髪と薄く無精髭を生やした男。
彼の名は柴田桔平。
能力はあるが活力のない平社員だ。
「ありがとうございます。」
無愛想に小さく礼をする桔平を見上げ、部長は労うように頷く。
「柴田君、他にタスクがなければ、今日はもう上がって良いよ。」
「了解です。お疲れ様でした。」
「あ、ごめん、ちょっと待って。」
一礼してデスクに戻ろうとする桔平を部長が呼び止める。
振り返る桔平の瞳には感情の色は薄く、彼をよく知らない者からすればいっそ機械のようにも見えるだろう。
「なんでしょう?」
「柴田君、有給溜まってるよね。何か使う予定はない?」
「特にありません。」
部長の質問に桔平は考える素振りもなく答えた。
彼の素っ気ない返答に部長は思わず苦笑する。
「そっか…実は総務から連絡がきててね。繰越限度を超えて有給を溜めるのはこのご時世よくないってことで……申し訳ないんだけど、使ってもらえないかな?」
立場的に命令口調で言っても咎められないだろうに、部長は本当に申し訳なさそうにそう言った。
「わかりました。いつが良いでしょうか?」
「柴田君の有給なんだから、好きな時に使ってくれて良いんだよ。」
その言葉を本心から言える上司がどれほどいるだろうか。
冴えない見た目の部長が慕われるのはこういうところに起因するのだろう。
「…では、急ですが明日と明後日に取っても良いですか?」
暫く考えた後、桔平はそう言った。
今日は水曜日。
明日から二日間休めば土日を入れて四連休になる。
幸い先程の書類作成で彼の仕事は一区切りついていたし、急ぎの仕事も他にない。
同僚と連携してやるべき事もなかった為、迷惑もかけないだろうと判断したのだった。
「勿論だよ。たまにはゆっくり休むと良い。というか、それでもまだ有給余ってるんだから、もっと使ってね。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
「申請はこちらでしておくよ。それじゃ、引き止めて悪かったね。お疲れ様。」
「ありがとうございます。お疲れ様でした。」
別れの挨拶をして、桔平は自身のデスクに向かった。
仕事終わりの解放感や明日からの連休への喜びも感じさせないその背中を、部長はどこか悲しげに見ていた。
手早く退社準備を終えた桔平が同僚達に適当に挨拶をしつつ帰宅した後、彼のデスク近くの女子社員二名がコソコソと話し始めた。
既に半分以上の社員は退社しており、営業部の残業組もまばらになっている。
「先輩、柴田さんってあんまり残業しないですよね。」
「ああ見えて仕事早いし、そつがないからね。」
後輩女子は入社三年目で営業部には今年配属されたばかり、先輩と呼ばれた女性は入社して七年が経つ。
「先輩と同期なんですよね?見えないなぁ…」
今年で三十歳になる桔平だが、乱雑な髪と無精髭、そして無愛想で機械的な姿から、四十前後に見られる事もしばしば。
対して同期だという女性先輩社員は実年齢通りの見た目であった。
「しゃんとしてたら案外見てくれは良いのよ。」
「そうなんですか?」
「少なくとも入社して数年は女子社員にも結構人気者だったのよ。今よりもっと爽やかだったし、意外に気遣い屋だし、仕事に積極的で成績も良かったしね。」
先輩社員は懐かしむように言った。
「へぇ…なんだか想像できないですね。あ、もしかして…先輩も柴田さんに憧れてた時があったり…?」
生意気そうに笑いながら弄ろうとする後輩。
だが、先輩は特に否定する事もなくあっさりと頷いた。
「そうね、私もそうだったかもしれないわ。」
その言葉に後輩は目を丸くした。
「ま、まじですか。結構あっさり認めちゃうんですね。」
「もう何年も前の話よ。」
「へぇ……何で諦めちゃったんですか?」
不躾な質問に先輩は苦笑しつつ、端的に答えた。
「入社した次の年に、彼が結婚しちゃったから。」
「あ、なるほど………えっ!?結婚!?」
素っ頓狂な声に残っていた数人の社員がそちらを向く。
慌てて口を抑えた後輩は愛想笑いで誤魔化しつつ声をひそめた。
「結婚って…柴田さん既婚者だったんですか?」
「えぇそうよ。知らなかったのね。」
「聞いたことないです。え、でも指輪とかしてないですよね?」
素朴な疑問に先輩は言いにくそうに曖昧に頷いた。
「そうね…社外ではしてるって噂は聞いたことあるけど。」
「何で社内では外すんです?」
「それは……」
先輩は辺りを見渡した後、さらに声をひそめた。
「彼の奥さん、亡くなったのよ。」
「え…」
後輩は思わぬ話に何も言えなくなった。
「三年前くらいかしらね。ご病気で亡くなったの。それからよ、彼があんな風になったのは。」
「そ、そう…なんですか。」
「ええ。当時は部署内でも彼とどう接したら良いのか、皆戸惑っていたわ。」
「あ、だからみんな柴田さんに距離を置いてるというか…」
「仕事はちゃんとしてるし、もう皆もその話はしなくなったけれど、未だに気安く話しかけられない人も多いわね。」
「なるほど…」
「とにかく、それから出社してくる時に指輪はしてこなくなったの。彼なりに周りに気を遣われたくないって思いもあったんでしょうね。」
「……なんか、悲しい話ですね。」
「私達が悲しんだところで、だけどね。……さぁ、いい加減仕事終わらせるわよ。残業中にあまりのんびりしてると部長に怒られちゃうわ。」
「そうですね。部長って仏みたいですけど怒ると怖いですから。」
話を終えた二人はそそくさと残りの業務に取り掛かった。
オフィスを出た桔平は、薄らと暗くなっている空を見上げた。
秋らしい、高い空だ。
遠くの方には沈みゆく夕陽が見える。
しかし澄んだ空も美しい夕陽も、彼にはどこか遠い世界の物であるかのように感じられた。
この三年、桔平は生きている実感を抱いていなかった。
「………」
仕事の疲れを溜息として吐き出すでもなく、無言で歩き出す。
仕事への達成感もやり甲斐も、生きる喜びも、彼にはなかった。
ただ生きるだけ。
残された者としての義務感のようなものだけが、彼を現世に縛り付けていた。
それは死に際の妻が桔平に残した願いであり、呪いであった。
『桔平くん…私の分まで、なんて言わない。ただ生きて。幸せになって。約束だよ。』
一方的な約束。
優しくて、穏やかで、自分のことはいつも後回しで、でも桔平に対しては少しだけわがままで、甘え上手な彼女らしい言葉だった。
彼女の死後、後を追うつもりでいた桔平への叱責であったのかもしれない。
いずれにせよ、その言葉は彼を機械的にでも生かす事に成功していた。
薄暗いオフィス街では、桔平と同じような仕事終わりの会社員達が行き交っている。
交差点で信号が変わるのを待っている人々は一様に疲れを滲ませた顔をしていた。
青信号になるのを見てスーツの集団が一斉に動き出す。
その中に桔平もいた。
足早に歩く群れの中で、彼はいつもと変わらぬ様子だった。
オフィス街から歩いて三十分ほどの閑静な住宅街。
その一角に桔平の住むマンションがある。
帰宅した桔平は部屋にバッグを置くと、ネクタイも外さぬままに居間の隅に置いてある胸程の高さの棚の前に立った。
「ただいま、沙華。」
外では機械のような彼がその瞳に僅かに感情をたたえて呟く先には、棚の上に立てかけてあるフォトフレームがあった。
中には柔らかく微笑む女性の写真。
帰宅したらまず彼女に声をかけるのが、彼の日常であった。
当然、彼の言葉に返事はない。
当たり前の沈黙が彼の胸を締め付ける。
彼女が亡くなって三年が経つというのに、桔平はこの沈黙に慣れる事はなかった。
いや、慣れたくもないのかもしれない。
その沈黙を受け入れるということは、最愛の女性の死を本当に受け止めるという事でもあるから。
沈黙を振り払うかのように背を向け、桔平は部屋へ戻った。
スーツを脱ぎシャワーを浴びる。
熱めの湯が彼の体を火照らせていくのに、心は少しも暖かくならなかった。
「…っ……はぁ……」
シャワー上がりにテレビを観ながらビールを呷る。
特に酒が好きという事もないが嫌いでもない鉄平は、休みの前日に軽く飲むことが多い。
明日から四連休ということもあり、帰りに寄ったコンビニでビールやら酎ハイやらを買ってきていた。
「………」
テレビでは人気の俳優やら女優やらのプライベートに迫るバラエティ番組が流れている。
スタジオでは楽しげな、あるいは義務的な笑いが飛び交っているのに、それを見る桔平の表情は少しも動かない。
つまみの刺身や蒲鉾をつまみながらグビグビと酒を流し込むだけだ。
「……来週から一気に寒くなるんだってよ。そろそろ冬用の服出さないとな。」
飲み始めて約一時間。
見ていたはずなのに内容なんてこれっぽっちも覚えていないテレビを消した桔平は、部屋の片隅に佇む沙華の遺影に向かって話しかけた。
家で酒を飲み、ほろ酔いになるとこうして彼女に話しかけるのが習慣となっていた。
「沙華は寒いのが嫌いだったな。今年の冬はまた一段と冷えるらしいぞ。」
寒さが苦手なくせに雪が降ると子どものようにはしゃいでいた彼女、寒い寒いと言いながら桔平の腕に抱きついて無邪気に笑っていた彼女を思い出し、桔平は吐き出したくなる何かを飲み込むように酒を呷った。
「あとちょっとしたら、俺、三十歳になっちまうよ。体動かすのも年々だるくなって…こうやっておっさんになっていくんかね。」
こんな事を言えば、きっと沙華は『桔平くんおじさんくさいよ!」なんて言って笑ってくれたのだろう。
でも、彼の自嘲に応えてくれる人はいない。
「………やっぱり、沙華がいないと、俺は駄目だ。何をしてても、楽しくないんだ。この間、お義母さんに言われたよ。もう十分だって。俺は俺の人生をいくべきだって。でも……俺には無理だよ。俺には…沙華がいないと……」
酔いが回ってうまく頭が働かない。
もうそこにはいない彼女に縋るように呟きながら、桔平は机に伏せて眠りについた。
「…んっ……朝、いや、昼か。」
朝、目覚めた桔平は壁に掛けた時計を見上げた。
昼前に差し掛かる時間。
机に突っ伏したところまでは覚えていたが、いつの間にかソファに横になっていたようだ。
机の上には飲み干した缶やつまみの残骸が散らばっている。
片付けなければいけないと思いつつも再びソファに横になった。
二日酔いとまではいかないが少し体がだるい。
いっそのこと二度寝してしまうかと思っていた彼に、誰かが話しかけてきた。
「桔平くん、起きて。朝だよ。」
聞き慣れたはずなのに懐かしい声。
桔平はおざなりに答えた。
「もう少し寝かせてくれ。きついんだ。」
「うん、お疲れ様。せっかくの連休だしゆっくりするのは良いんだけど、ゴミくらいちゃんと片付けようよ。」
「わかってるよ。でもちょっと待ってくれって。」
「もう、そんなこと言ってどうせ夕方までほったらかしにするんでしょ!いっつもそうなんだから。」
プリプリと可愛らしくて怒っているであろう彼女に、これ以上機嫌を損ねるのも良くないと思い桔平は渋々起き上がった。
「はいはいわかったよ。いま片付けるから。」
「うん、よろしい!」
「ったく、沙華は普段抜けてるのにこういう所は相変わらずきっちりして………………はっ?」
ぼんやりしていた頭が急に覚醒して、桔平は素っ頓狂な声を上げた。
深緑の遮光カーテンがかかる窓際に、彼女はいた。
「あ、やっと気づいた。普通に話してくるんだもん。どうしようかと思っちゃったよ。」
柔らかく微笑む沙華。
彼女は好んで着ていたワンピース姿で、そこに佇んでいた。
「さ、沙華……?」
「はい、そうですよ。桔平くんのお嫁さんの、沙華ちゃんです。」
おどけるように笑う沙華。
何が起こっているのかわからない。
理解できないままに、それでも桔平は己の頬を流れる一筋の暖かさを感じた。
「あらら、泣いちゃった。びっくりさせちゃったね。」
彼女は照れたように笑っている。
桔平はここ数年石のように硬くなっていた心が崩れていく気がした。
柔らかな微笑みも、意地悪そうな笑みも、苦笑いさえも、桔平は彼女の笑顔の全てが好きだった。
「えへへ…桔平くん、私、帰ってきちゃった。」
意味がわからないままに、理解もできぬままに、これが現実か夢か、はたまた妄想かもわからぬままに、桔平は声が枯れるほど大声で泣き崩れた。