私のエッセイ~第五十五弾:ボクサー列伝(2):ジョー・フレージャー~スモーキン・ジョー
皆さん、こんばんは!ご機嫌いかがですか・・・?
このところ、短いサイクルでエッセイを投稿しておりますが・・・やはり、「書きたいッ!」って自分の正直な気持ちに従い、書きたくなったら書く・・・今後も、この正直な気持ちを大切にしていきたいですね。
ただでさえ、持病の「糖尿病網膜症」のためにPC上の、白い背景の小さい文字が見づらく、誤字脱字が激しいので、いつ「まともに」目が見えなくなるかもしれませんから、今、書けるうちに書いて、皆さんに少しでも楽しいひとときを提供して差し上げたい・・・そのような思いで、日々、投稿しております。
まだ幸いにも、書籍につきましては、明るい光の下なら、十分読めますけれどネ。
来年、保険適用になる、「加齢黄斑変性」用の、特効薬ともいえる注射をすれば、もっと目が良くなると、眼科の石川先生がおっしゃってくださったので、その注射に、残りの人生の望みをかけたいな・・・そんな日々を送っております。
あ・・・つまらん私の事情でしたね。ごめんなさい。
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さて、今宵は、先日の「ジョージ・フォアマン」に続き、私の大好きなボクサー、「ジョー・フレージャー」の紹介です。
この選手は、モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン、そして、ケン・ノートンの3選手とともに、「黄金の70年代ヘビー級」を作り上げた「四天王」の一人でもありました。
前回のボクシング・エッセイでも触れましたが、フォアマンもフレージャーも、ノートンも・・・みんなアリに「おいしい部分」を持っていかれて、不幸なボクシング人生を味わうことになりました。
ノートンにつきましては、またのちほど、別の機会に触れたいと思います。
私・・・ちょうどいい機会だから公言しちゃいます。
「モハメド・アリ」が、大嫌いです!
エッセイになんかしたくないほど、嫌いなんです。
若い頃の彼・・・「カシアス・クレイ」という生まれたときの名前の頃の彼のボクシングは好きでした。
ちまたで、皆さんも「耳タコ状態」だとは思いますが、まさに「蝶のように舞い、ハチのように刺す」という表現がふさわしいほど、華麗な「打たせずに打つ」、素晴らしいスピード・ボクシングでした。
ベトナム戦争の兵役を拒否したアリは、タイトルを剥奪され、ほぼ「引退状態」でした。
のちに、世論の後押しを受けてカムバックしてきますが・・・そのアリを金銭的にも、復帰運動の旗頭としても支え続けたのが、アリのあとに王座に就いた、ジョー・フレージャーでした。
フレージャーが、一生懸命、アリを復帰させるために動いてくれたからこそ、アリは無事、復帰できたといっても過言ではないんです。
しかしアリは・・・そんなフレージャーの熱い真心を踏みにじり、対戦が決まると、あからさまに彼を裏切り、恩義のあるフレージャーをののしるようになりました。
ボクシングの試合で、試合前に相手の選手をこき下ろし、ののしってみせるパフォーマンスは、あの「亀田兄弟」もさかんに行ってきましたが・・・アリの場合、のちに紹介する動画を観てもらっても分かりますように、その「ののしり方」が、ハンパないんですよ。
「なにか、個人的恨みでもあるんじゃないか・・・」、そんな風にまで見えてしまうんですね。
フレージャーは、アリから「アンクル・トム」と呼ばれていました。
この「アンクル・トム」という呼び名は、黒人が黒人に対して放つ、最も侮蔑的な表現だそうです。
「白人の手先」という意味合いらしいですからね・・・。黒人の中では、最も忌み嫌われる、最大級の侮辱的な言葉らしいです。
白人が黒人のことを「ニガー」という蔑称で呼ぶ以上に、屈辱的なものらしいですね。
また、アリはフレージャーのことを、ことあるごとに「ゴリラ」と呼んでいました。
たしかに、フレージャーは見た目が「ずんぐりむっくり」でゴツく、顔もゴリラのような印象を受けます。
しかし、自分が心の中でどう思おうが勝手ですが、それをマスコミやファンの前で堂々と公言するのは、いかがなものかと思いますね。
フレージャーの息子のマービスは、父が悪口を言われたせいで、ずいぶん学校でいじめられていたそうです。
「お前の父ちゃん、『ゴリラ』なんだってなぁ!」と。
フレージャー自身も、このアリからの侮辱的な言葉の数々には、本当に腹を立てていたそうです。
彼は、アリより早い 2011年11月7日に亡くなりますが・・・終生、アリを許すことはなかったそうですね。
アリは、1975年の「マニラのスリラー」と題された、フレージャーとの三度目の試合後、マービスを控え室に呼んで、「俺は、君と君のお父さんと家族に、これまで自分が口にしてきたことを謝りたい、お父さんにも伝えてくれないか。」と言いました。
しかし、フレージャーは納得せず、「どうしてあいつは、直接謝りに来ない。ヤツは、大勢の前で俺にひどい言葉を浴びせた。ここに来て、俺に頭を下げるのがスジだろう。」と、アリからの謝罪を受け入れませんでした。
このあと紹介する動画の最後のほうでも触れていますが・・・アリとフレージャーが和解して、「ハッピー・エンド」になる、最後の、そして唯一のチャンスでした。
アリは、フォアマンとフレージャーに、ボクシングの試合では勝ちました。
しかし、彼らから浴びたパンチのダメージは、彼の予想以上に大きく、「パンチドランカー症状」という皮肉な形で、アリに「ツケ」を払わせる結果になったのです。
TVで見る、まっすぐ歩くこともままならないアリを見て、フレージャーはたびたび、「あれは、俺がやってやったんだ。」とうれしそうに話していました。
「他人の不幸を喜ぶ」というのは、このサファイアの涙の趣味ではありませんが・・・このときは、フレージャーの気持ちが分かるような気がしましたね。
本当に皮肉なものですよ。
かたや、巨万の富と、「ザ・グレーテスト」などという、これ以上ないほど名誉な称号を与えられながら、満足に歩くことも出来ない障害を抱えた肉体のアリ。
かたや、試合に負けて、屈辱的な思いをずっと引きずりながらも、引退後も健康な体で、人生を謳歌してきたフォアマンとフレージャー。
どちらが「幸福な人生」かは、皆さんもお分かりだと思いますが・・・。
最後に、こんな事実を皆さんに紹介しておきましょう。
フレージャーは、東京オリンピックのあった1964年ごろに、練習中の事故で左目を負傷し、ほとんど視力を失っていたそうです。
彼は、その事実を、ごく親しいトレーナーにしか打ち明けず、誰も彼が「右目一本」で戦っていたとは知らなかったようです。
これから紹介する動画を観るまでは、この私もまったく気づきませんでした。
あの、ジャマイカでフォアマンに叩きのめされた試合も、アリとの三度にわたる激戦でも・・・彼は、右目だけでもって、戦っていたんですね・・・。
そんな、ボクサーとして・・・たたでさえハードパンチが飛んでくるヘビー級の試合において、「絶望的」ともいえる状況の中、口汚くののしるアリにもそのことを告げず、マスコミにも公表せず、ひとり、黙々と戦ってきた、その姿・・・あのジョージ・フォアマンにも負けないくらい、「カッコイイ」とは思いませんか・・・?
これこそ、まさに「漢」ですよ。
長くなりましたが・・・以下の素晴らしい動画を紹介して、今回のエッセイを閉じたいと思います。
今宵も、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。 m(_ _)m
『1975 モハメド・アリ vs ジョー・フレージャー ドキュメント 2008年』
→ UP主様は、「shima 165」様。