表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ボクシング関連のエッセイ集。

私のエッセイ~第五十五弾:ボクサー列伝(2):ジョー・フレージャー~スモーキン・ジョー

 皆さん、こんばんは!ご機嫌いかがですか・・・?


 このところ、短いサイクルでエッセイを投稿しておりますが・・・やはり、「書きたいッ!」って自分の正直な気持ちに従い、書きたくなったら書く・・・今後も、この正直な気持ちを大切にしていきたいですね。


 ただでさえ、持病の「糖尿病網膜症」のためにPC上の、白い背景の小さい文字が見づらく、誤字脱字が激しいので、いつ「まともに」目が見えなくなるかもしれませんから、今、書けるうちに書いて、皆さんに少しでも楽しいひとときを提供して差し上げたい・・・そのような思いで、日々、投稿しております。


 まだ幸いにも、書籍につきましては、明るい光の下なら、十分読めますけれどネ。


 来年、保険適用になる、「加齢黄斑変性」用の、特効薬ともいえる注射をすれば、もっと目が良くなると、眼科の石川先生がおっしゃってくださったので、その注射に、残りの人生の望みをかけたいな・・・そんな日々を送っております。


 あ・・・つまらん私の事情でしたね。ごめんなさい。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 さて、今宵は、先日の「ジョージ・フォアマン」に続き、私の大好きなボクサー、「ジョー・フレージャー」の紹介です。


 この選手は、モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン、そして、ケン・ノートンの3選手とともに、「黄金の70年代ヘビー級」を作り上げた「四天王してんのう」の一人でもありました。


 前回のボクシング・エッセイでも触れましたが、フォアマンもフレージャーも、ノートンも・・・みんなアリに「おいしい部分」を持っていかれて、不幸なボクシング人生を味わうことになりました。


 ノートンにつきましては、またのちほど、別の機会に触れたいと思います。


 私・・・ちょうどいい機会だから公言しちゃいます。


 「モハメド・アリ」が、大嫌いです!

 

 エッセイになんかしたくないほど、嫌いなんです。


 若い頃の彼・・・「カシアス・クレイ」という生まれたときの名前の頃の彼のボクシングは好きでした。


 ちまたで、皆さんも「耳タコ状態」だとは思いますが、まさに「蝶のように舞い、ハチのように刺す」という表現がふさわしいほど、華麗な「打たせずに打つ」、素晴らしいスピード・ボクシングでした。


 ベトナム戦争の兵役を拒否したアリは、タイトルを剥奪され、ほぼ「引退状態」でした。


 のちに、世論の後押しを受けてカムバックしてきますが・・・そのアリを金銭的にも、復帰運動の旗頭としても支え続けたのが、アリのあとに王座に就いた、ジョー・フレージャーでした。


 フレージャーが、一生懸命、アリを復帰させるために動いてくれたからこそ、アリは無事、復帰できたといっても過言ではないんです。


 しかしアリは・・・そんなフレージャーの熱い真心を踏みにじり、対戦が決まると、あからさまに彼を裏切り、恩義のあるフレージャーをののしるようになりました。


 ボクシングの試合で、試合前に相手の選手をこき下ろし、ののしってみせるパフォーマンスは、あの「亀田兄弟」もさかんに行ってきましたが・・・アリの場合、のちに紹介する動画を観てもらっても分かりますように、その「ののしり方」が、ハンパないんですよ。


「なにか、個人的恨みでもあるんじゃないか・・・」、そんな風にまで見えてしまうんですね。


 フレージャーは、アリから「アンクル・トム」と呼ばれていました。


 この「アンクル・トム」という呼び名は、黒人が黒人に対して放つ、最も侮蔑的ぶべつてきな表現だそうです。


 「白人の手先」という意味合いらしいですからね・・・。黒人の中では、最も忌み嫌われる、最大級の侮辱的な言葉らしいです。


 白人が黒人のことを「ニガー」という蔑称べっしょうで呼ぶ以上に、屈辱的なものらしいですね。


 また、アリはフレージャーのことを、ことあるごとに「ゴリラ」と呼んでいました。


 たしかに、フレージャーは見た目が「ずんぐりむっくり」でゴツく、顔もゴリラのような印象を受けます。


 しかし、自分が心の中でどう思おうが勝手ですが、それをマスコミやファンの前で堂々と公言するのは、いかがなものかと思いますね。


 フレージャーの息子のマービスは、父が悪口を言われたせいで、ずいぶん学校でいじめられていたそうです。


 「お前の父ちゃん、『ゴリラ』なんだってなぁ!」と。


 フレージャー自身も、このアリからの侮辱的な言葉の数々には、本当に腹を立てていたそうです。


 彼は、アリより早い 2011年11月7日に亡くなりますが・・・終生、アリを許すことはなかったそうですね。


 アリは、1975年の「マニラのスリラー」と題された、フレージャーとの三度目の試合後、マービスを控え室に呼んで、「俺は、君と君のお父さんと家族に、これまで自分が口にしてきたことを謝りたい、お父さんにも伝えてくれないか。」と言いました。


 しかし、フレージャーは納得せず、「どうしてあいつは、直接謝りに来ない。ヤツは、大勢の前で俺にひどい言葉を浴びせた。ここに来て、俺に頭を下げるのがスジだろう。」と、アリからの謝罪を受け入れませんでした。


 このあと紹介する動画の最後のほうでも触れていますが・・・アリとフレージャーが和解して、「ハッピー・エンド」になる、最後の、そして唯一のチャンスでした。


 アリは、フォアマンとフレージャーに、ボクシングの試合では勝ちました。


 しかし、彼らから浴びたパンチのダメージは、彼の予想以上に大きく、「パンチドランカー症状」という皮肉な形で、アリに「ツケ」を払わせる結果になったのです。


 TVで見る、まっすぐ歩くこともままならないアリを見て、フレージャーはたびたび、「あれは、俺がやってやったんだ。」とうれしそうに話していました。


 「他人の不幸を喜ぶ」というのは、このサファイアの涙の趣味ではありませんが・・・このときは、フレージャーの気持ちが分かるような気がしましたね。


 本当に皮肉なものですよ。


 かたや、巨万の富と、「ザ・グレーテスト」などという、これ以上ないほど名誉な称号を与えられながら、満足に歩くことも出来ない障害を抱えた肉体のアリ。


 かたや、試合に負けて、屈辱的な思いをずっと引きずりながらも、引退後も健康な体で、人生を謳歌してきたフォアマンとフレージャー。


 どちらが「幸福な人生」かは、皆さんもお分かりだと思いますが・・・。


 最後に、こんな事実を皆さんに紹介しておきましょう。


 フレージャーは、東京オリンピックのあった1964年ごろに、練習中の事故で左目を負傷し、ほとんど視力を失っていたそうです。


 彼は、その事実を、ごく親しいトレーナーにしか打ち明けず、誰も彼が「右目一本」で戦っていたとは知らなかったようです。


 これから紹介する動画を観るまでは、この私もまったく気づきませんでした。


 あの、ジャマイカでフォアマンに叩きのめされた試合も、アリとの三度にわたる激戦でも・・・彼は、右目だけでもって、戦っていたんですね・・・。


 そんな、ボクサーとして・・・たたでさえハードパンチが飛んでくるヘビー級の試合において、「絶望的」ともいえる状況の中、口汚くののしるアリにもそのことを告げず、マスコミにも公表せず、ひとり、黙々と戦ってきた、その姿・・・あのジョージ・フォアマンにも負けないくらい、「カッコイイ」とは思いませんか・・・?


 これこそ、まさに「オトコ」ですよ。


 長くなりましたが・・・以下の素晴らしい動画を紹介して、今回のエッセイを閉じたいと思います。


 今宵も、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。 m(_ _)m


 『1975 モハメド・アリ vs ジョー・フレージャー ドキュメント  2008年』

→ UP主様は、「shima 165」様。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ