目当ての人
特別棟三階男子便所。一言で言うなら、汚い。
8つ並んだ陶器の便器は白さを既に失っている。丸見えのパイプには緑カビが生え、蛇口周りには蜘蛛の巣がはっている。中に落ちた陰毛が汚れの不快さを際立たせる。壁には考えたくもないような茶色の汚物がこびりつく。
はっきり言って最悪のトイレだ。
「お前も随分変わってるよな。」
「え、何が?」
気の抜けた返事がぼんやりとトイレ内で反響する。
中央の便器に溜まった淡黄の液体が不快な便所に悪臭というトッピングを追加している。
そのせいで、二人の話し声も否応なしに鼻声になる。
「いやよ、あんないかにも不良な奴に無理矢理渡された手紙をよくちゃんと届けるよなって。俺なら絶対捨ててるぜ。」
筋肉質で、茶髪に染めたような髪の男子生徒がチャックをしめる。相手の男子生徒はまだ出るのか、茶髪の方は見ずに返事を返した。
「不良だろうがなんだろうが、伝えたいとしているのを無下にはできないよ。」
「はっ。随分とお人好しなこって。」
「えー。みんなそんなもんだよ。」
黒髪の男子の方も用を済まし、ベルトを丁寧に締める。
「んなわけあるかよ。あんなん絶対関わりたくないね。それに、傍から見たら、お前がラブレター渡したようにしか見えないし。中身によってはお前が書いたって赤津奈美先輩にも思われかねないぞ。」
石鹸で丁寧に洗ってた手がピタリと止まる。顔には焦りの色が浮かんでいる。
「そういえば、封筒には名前書いてなかった…。」
「ヤバいかもな。」
一方で茶髪の方は少し楽しそうだ。親友が学校のマドンナにラブレターを出したとなれば、少し面白い。
「ちょっとー!笑ってないで、まじでなんとかしなきゃじゃん。」
「じゃあ、本人に聞くか?ラブレターにちゃんと僕のじゃない名前書いてありましたかって?」
「無理無理無理。」
全力で降った腕から大量の泡が飛び散る。
茶髪はすぐに退散したが、少なからず制服に飛び散った。
「きったね。お前、流してから手振れよ!」
「そんなことより!」
「そんなことじゃねー!」
石鹸をきれいに洗い流し、ハンカチで水分を拭いとる。
「とりあえず、外出よう。もう、臭い!」
「さんせーい。」
どちらがドアを開けるかで一悶着したが、公平にじゃんけんで黒髪が開けることになった。文句を言いつつもなんとか扉を開け、悪臭からは開放された。
「お前、手紙は渡せたくせにそれを聞きに行くのは嫌なのかよ。」
「任されて渡すのと、自分から話しに行くのとは大違いだよ!」
「あー。わからなくもない。」
仰々しく茶髪が頷く。
「でしょ!」
その反応を待っていたとばかりに黒髪の方も飛びつく。
黒髪はやりきったというように、ドヤっているが、結局のところ問題は何も解決していない。
「で、どうすんの?確認、するのか?」
「うっ…。」
すぐに話を戻され、黒髪の方は絶望に顔を染める。黒髪が崩れ落ちたのを見ても茶髪は楽しそうだ。
「もう。笑ってないで、何か話しかけないで確認する方法考えてよ!」
膝から落ちたせいで、足がヒリヒリと痛む。コンクリートの地面には体重そのままでも落ちると大分響く。風通しの良い渡り廊下の風が慰めるように顔を撫でる。
「おい。あの集まり何してんだ?」
黒髪のボヤを遮り、茶髪が視線の先に関心を寄せる。
視線の先には随分な人だかりができていた。普段ならいくら廊下で駄弁っている者が多くともこれほどの数はいない。なんとか廊下を通ることができる程度には空いているはずだ。
しかし今は、あらゆる学年の者がいりみだって立ち込めている。中学生から高3まで。一部教師もいる。生徒をなんとかしようとしているわけではなく、ただ生徒の関心に乗じているだけのように見える。
「げ、通れないじゃん。」
「そこかよ…。」
人の波は渡り廊下まではきていないが、階段は一部占領されている。下の階には更に人だかりが見える。
「にしても、何に集まってんだ?これ。」
全校集会の移動時でもここまでごった返してはいない。時折飛ぶ黄色い歓声が余計に興味を狩り立てる。
「おい。これなんの集まりだ?」
茶髪が手前にいた中学生に尋ねる。
女子生徒は飛び跳ねるのをやめて、早口に答える。
「なんか、2年の赤津奈美先輩が人探しで、全クラス回ってるみたいなの!ここからじゃ見えないけど。少しくらい見たいのよ!」
話を聞く間にも黄色い声が響いてくる。
「人探しだってよ。なあ?」
女子生徒の話を聞いて茶髪は口角を上げる。ニヤニヤしながら黒髪の方を見る。
「だから?」
黒髪も茶髪の言いたいことは察している。望みをかけて、敢えてわからない風を装う。
少し間をあけてからはっきりと告げられる。
「これ、お前のことだろ。」
「そんなことはない!」
間髪入れずに答えた返答は言い方に対して随分と弱々しい。
「ほら、別の人かもしれないじゃん。痴漢から助けられてお礼が言いたいとか、猫を拾った男子に一目惚れしたとか。実は宇宙人を探してるとか…。」
後半自分でも意味不明すぎることを言っていると自覚しつつも、言い訳は延々と口から零れ出る。
「そんな展開あるわけねーだろ。」
バッサリと一言で片付けられた。
「確かに、お前じゃない可能性もなくはない。」
「でしょ!」
「まあ、俺はお前だと確信してるけどね。」
こいつの勘はたいてい当たる。
「確認兼ねて、行くぞ!」
「まじ?」
「おうとも。任せろって。」
茶髪は手を掴むと、体格を活かし、強引に道を開けていく。
「嬢ちゃん。あんたもついてくるか?」
進んだ道はすぐに埋まりそうだが、人一人分程度の余裕はある。
「行きます!」
女子生徒は器用に人波をくぐり、背中に張り付くように後をついてくる。というかひっついている。
背中側から手をまわし、がっしりと体を固定している。離れてもらうよう言おうとしたが中心に行くに連れて高まる歓声に早々に諦めた。悪い感じでもないし…。
時々謝りつつも、茶髪はどんどんと奥に進んでいく。
「ほれ、もう少しだ。今6組に入ったな。」
次で自分達のクラスだ。赤津奈美先輩が何か話しているのはわかるが、何を話しているのかまではまだわからない。
すぐに前扉から先輩が現れ、新宮先輩が、失礼したねーとひと声かけながらあとに続いて出てくる。
そのまま、角を曲がり、7組の教室に差し掛かる。
ちょうど、人波の最前列まで来ることができ、無事抜け出せた。後方の生徒群から怨みのこもった視線をぶつけられるが、前の背中はずんずんと進んでいく。
教室の前まで来ると中で先輩たちがクラスメイトに話をしているのも聞こえる。
話をここで聞いてから入ろうと思っていたのを裏切り、親友は勢いよく前扉を開いた。
当然何事かと注目が集まる。クラスメイトからは先輩の話の邪魔しやがってと怨みのこもった視線が向けられる。
しかし、先輩はこちらを気にも止めず、話を続ける。
「先輩。多分、先輩が探してるのこいつですよね?」
親友はなんの躊躇もなく赤津奈美先輩の話をぶった切った。クラスメイトからの目線が痛い…。
でも、先輩が探しているのは自分であると先輩の話を聞いてわかってしまった。
”朝、私に手紙を渡したやつはここにいるか?"
まとめるとこうだ。はい。手紙を渡したのは私です、ハイ。
ここに来て後悔した。無理にでも親友を止めて来るべきではなかった。
はじめて先輩がこちらを見た。反応は激的だった。先輩も話を切り上げ、こちらにやってくる。武道をしている先輩の足運びは隙がなく、こちらに圧迫感を与える。
そして、長めの前髪から薄っすらと見えた目に、僕はたちすくんだ。息をするのも忘れ、蛇に睨まれたカエルのように、息をしようと口をパクパクするだけだ。
先輩から滲み出ているのは殺意だ。
クラスがどうなっているのかもわからない。ただ目の前の先輩から逃げられない。
「来い」
腕を捕まれ、連行される囚人が如く、ただただ先輩に引きずられるように教室から出る。
背中に張り手の音ともに痛みが貫いた。
「息、しろよ。後ろにいるから。」
咳き込んだ。しかし息ができた。空気を求めていた肺に冷たい空気が肺をまんべんなく侵食する。
親友の乱暴な気遣いで、何とか正気には戻れた。しかし、掴まれるまま引きずられる状況は変わらない。手首を握る力はどんどん強くなっている。手が閉じられないほどに腕が締め付けられる。
しかし、振りほどく勇気もない。
「どいて。」
廊下に道ができる。一瞬だった。全員がロボットかのように瞬時に人が通れる空間を作った。その事実に感動も気味悪がる余裕もなく、自分はただどうなるのか。それだけをこのときの自分は考えていた。




