1.オレという男
銀に光り輝く刃がオレの頬を掠める――。
……痛い。熱い。寒い。憎い。憎い、憎い、憎い、憎い。
オレは心底不快な思いをする。その首を討ち取ってやりたくてたまらない。
血と肉と腐乱死体で噎せ返る臭いの中、オレは傷だらけのボロボロの身体で復讐を果たそうとする。仲間が尽き果てて、たったひとりだけで。
オレは革命を起こす。そう決めた。
だから、目の前のやつを殺さねばならない。
オレの今の暮らしを変えるために。オレの村のために。オレの親しき人々のために。
オレはふらついて立つのもやっとな身体で槍を握っていたその右手に力を振り絞る。
立て。立て。立つんだ。立って、あいつを倒せ。打ち倒せ。
誰が変えるんだ。誰がこの醜くて歪な情勢を変えてやるんだ。……オレしかいないじゃねえか。
ああ、憎い。憎い。憎くてたまらない。
オレは憎悪で染まりきったこの気持ちを忘れないように何度も憎しみの言葉を反芻する。
やらなければ。オレが。オレがこの手で未来を掴み取らなければ。
こいつは悪だ。こいつは敵だ。こいつはオレのすべてを奪いやがった仇敵だ。目に物見させてやる。
両の手で槍を握り直し、オレは集中する。
こいつの急所は何処か。何処が一番ダメージを与えられる。何処が一番こいつに深傷を負わせられる。
オレは己の目でしっかりと標的を確認して狙いをすませる。ここだ。ここにひと突き入れればヤツは死ぬ。
さあ、お互いの最期の勝負と行こうじゃねえか。これは戦だ。勝てば権力を握り支配できる。負ければ死ぬ。そういう戦いだ。
オレはもう、ひとりだ。オレひとりしか残っちゃいねえ。だが、こいつももう戦力はジリ貧。お前を護衛する厄介な連中ももういねえ。
オレが。オレらが。オレらが、傷を負わせてやったのさ。
持てよ、その剣を。なんだ、オレだけ殺さずに捕虜にして見世物にする気なのか。
ハッ。こいつの考えそうなことだな。性悪なこいつのな。
でも、その決断が命取りだ。お前はここで今、オレに隙を見せた。それがどういうことかわかってやっているんだろうな。
オレはたまらなく憎い。憎いんだよ。
だから、オレを生かせば、もうわかってんだろ?
オレは血塗れのその腕で槍を振り回し、こいつのまわりにいやがった雑兵共をバッタバッタと薙ぎ倒していく。
……退け。退きやがれ。お前らに用はない。狂った主にただ付き従っているだけのお前らに用など何もない。死ぬのが恐ろしいなら、退け。オレはこいつと違って、なにも、無差別に殺しているわけではないのだから。
オレはまわりにいたすべての雑兵を槍でぶっ飛ばし、こいつとの一対一の勝負……一対一の命の奪い合いに持ち込む。
もうすぐだ。もうすぐ、こいつの首を討てる。念願の。オレらの念願が叶うのだ。
こいつがどれほど酷い行いをしてきたか。こいつがどれほどの民を苦しめてきたのか。身を持って味わわせてやる。
オレは全身の力をその一本の槍に込めて、こいつの頭目掛けて振り下ろす。
こいつはオレの槍を見て刃を抜き、オレの槍を受け止めた。
……引っかかったな。のこのこと引っかかりやがった。
それはフェイントだ。オレのメインは槍ではない。この槍はこいつを討ち取るためのただの土台。下準備。
こいつは次の攻撃に備えて槍に視線を向け剣を構える。
それがこいつの敗因だ――。
オレはニタリと笑みを溢し、こいつの身体を槍で突き上げるフリをした。
こいつを屠るのは槍じゃない。この研ぎに研いで研ぎ澄まされた切れ味抜群のナイフだ。
オレはこいつの剣がオレの槍に当たるのと同時に槍を手放し、懐からナイフを取り出して瞬時にこいつの首にナイフを振るった。
……勝った。オレが。オレらが。オレらが勝った。
世は変わる。変われる。オレが変えてやるんだ。
オレは笑みを溢し、こいつの首にしっかりとナイフを突き刺そうとした。
「……嘘だ。……嘘だろ」
オレはその場でへたりと崩れ落ちた。
確かに、突き刺した。確かに、突き刺したのだ。こいつの首を。
それがどうだ。オレの目の前は。オレの目の前にはおかしい光景がある。
崩れ去っていく。崩れて崩れて、ボロボロになっていく。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。何故だ。何故なんだ。
突き刺したナイフは――あいつの首などには刺さっていなかった。
抵抗しない。抵抗しようとしない。それが妙だ。それがおかしいのだ。
オレはおかしくなってしまったのか? ……いや、違う。
これは――仲間の屍だ。
あいつは瞬時に、崩れ落ちていたオレの仲間の屍を盾にして生き延びやがった。
これを防がれてはもうオレの攻撃は通じない。槍は棄て、ナイフは屍に刺さって肉の塊から抜かなければならないし、切れ味も落ちてしまった。
オレは捨て身の一撃を繰り出したのだ。もうオレには敗北感と悔しさしか残っていなかった。
オレは負けた。オレが負けた。オレらが負けた……?
民達の怨嗟の声が聞こえてくる。
憎い、憎い、憎い、ああ憎い。どうしてお前は。どうしてお前はあいつを殺せない。油断しやがって。油断しやがって……!
そんな風に聞こえる。そんな風にオレの心に訴えかけにきている。
……やめてくれ。やめてくれ……!
オレは。オレは。オレは、失敗した。失敗したんだ。
オレの目から涙が溢れ出てくる。屈辱色に染まった濁って濁りきってしまったどうしようもない涙が。
なあ、聞いてくれよ。オレは。オレは。オレは、ダメだった。オレには世界なんて変えられなかった。変えられやしなかった。
オレは敗北した。敗北したのだ。オレは敗北者達のリーダーだ。きっと、オレは歴史上でこう語り継がれる。
世界に混乱を招き入れるための反乱を起こした狂った首謀者。……絶対悪なのだと。
オレは無力だ。何もない。空っぽだ。脱け殻だ。
失敗に終わってしまったこの戦はオレにとって酷いもの。恥じて恥じて恥じなければならない酷くて醜い滑稽の何か。
こんなものを見せられてオレはもう死んでいるも同然。いないものと同義。
あいつは醜い今のオレを見て嘲笑っていた。醜い醜い今のオレを見て。
クソが。クソが。また民達は苦しめられる。余計に苦しめられてしまう。
母さん、姉さん。逃げてくれ。……逃げてくれ。オレは失敗に終わってしまった。
オレが情けなく腰を地につけている間に、あいつはオレの槍を手に持つ。
やめろ。持つな。オレの槍を汚すな。オレの槍に触れるな。
だが、オレは丸腰だ。自分から丸腰になりにいってしまった愚か者だ。抵抗する術がない。
あいつはオレの槍を見て、狂おしそうに舌舐りをした。
許せねえ。許さねえ。呪ってやる。呪ってやる。
オレは激昂して、丸腰だというのにあいつに飛びかかってやろうと勢いよくその場を立つ。
触れさせねえ。触れさせてたまるか。オレにはプライドが。プライドがあるのだから。
だが、オレは槍を棄て、ナイフに一撃を賭けた身。オレの自業自得だ。オレの歪なプライドが嫌で嫌で反吐が出そうになる。
あれはオレの槍だ。オレがあいつを討ち取るために今まで扱ってきた槍だ。それをオレはフェイントに用いるために手放してしまった。
……情けない。オレはなんて情けないんだ。
そうやってオレは自分自身の過ちを悔い、心底自分を憎む。そんなオレを尻目にして、あいつはオレの槍を強く握り締めた。
させやしない。
オレはもうなりふりなんて構わずにあいつに飛びかかる。
返せ。返せ。返せ、返せ、返せ、返せ! すべて返せ! オレのすべてを返しやがれ!
オレは怒りに任せて、あいつに拳をお見舞いさせようとする。が、ひらりといとも容易く躱され、オレはそのまま地にすっ転ぶ。地は雨で濡れ、冷たかった。
ドサリ。
すべての力を出しきってしまったオレはか細い声で呻いて倒れる。
ここで終わりか。ここで終わりなのか。オレは何もできずに。何も果たせずに終わってしまうのか。
オレの中には後悔しか残らない。後悔だけがオレの心の中で強く主張している。
終わりを悟ったオレはもう動くことができなかった。いや、動く気力がなかったのだ。
殺せ。殺して終わりにしてくれ。
オレはもう何もかもが嫌になっていた。
自分勝手で投げ遣りで。そんな粗末な心しかもうない。
いや、元からオレには粗末な心しか備わっていなかったのかもしれない。
でも、どうでもいい。もう、なんでもいい。オレは負けてしまった、ただの人の皮を被った空気なのだから。オレは無なのだから。
オレはオレであることが憎い。無力のオレであることが。
オレは弱い。オレは脆い。オレは脆弱だ。
「勝敗は決したわ。今、楽にしてやろう」
女の声であいつが言う。女の皮を被ってあいつが言う。
楽にしてやる? ……どっちも地獄だ。オレを待っているのは苦でしかないのだ。
貴様がオレを楽にすることができていたのならば、そもそもオレはこんな戦なぞ、起こさなかったのだ。嘘つきだ。詐欺師だ。貴様になぞ、できっこない。
オレは憎々しくあいつを睨み付け、最期を迎えようとする。
「……貴方にピッタリの死に顔ね」
あいつは嫌なものでも見るかのように顔を顰め、オレを遠回しに軽蔑する。
見たくもない。オレの目の前から消え失せてくれ。
お互いがお互いをしばらく睨み付け合い、そしてあいつはオレの槍をオレの首元に突きつけた。
……オレの命は、オレの槍で潰されることになるのか。なんとも皮肉なことだ。オレの槍でオレが貫かれる姿なんて、想像もしたくなかった。
「遺言はあるかしら」
「…………」
オレは答えない。答える気などない。答えれば、余計に酷くなるのはわかっていたからだ。
あいつは槍をオレの首に少しだけ刺す。オレからは紅色の粘ついた液体が垂れ、それが地に落ちていく。それと同時に身体も痺れていく。
「さようなら、アルズ」
「ガ……ネー……シャ……」
言い終えて、あいつは勢いよくオレをオレの槍で突き刺していった。
オレの視界にはもう暗闇しか映っていなかった――。