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ルート8 佳日の無垢 日田百合②


 寝て、起きて。あたしはまた今日もおかしなことに気づいた。

 これまでしょっちゅう起きちゃっていた夜を、一度の眠りだけで終えられたことに満足していたので、もうそれ以上があるなんて驚きだった。

 あたしは何時も通りのルーチンワークとして、《《四人》》分の朝飯に手を付けて、計りを駆使しながら文字いっぱいのレシピを見直しうぬぬとしていたのだけれど。

 何となく、出来上がり寸前の味噌汁から湯気とともに広がる香りが芳しいと感じたから、それを小皿の上に少し乗せて舌を這わせてみたところ、あたしの異常に気づけた。

 小さく、呟きは勝手に出てしまう。


「あれ、あたし味分かる、かも?」


 疑問符が付いたのは、これまでは甘いのばっかり感じていて、突然の記憶の底にあった感覚が刺激されて不安だったから。でもしばらく口をもにゅもにゅさせて、ようやくあたしはこれがしょっぱさだって確信を持てた。

 なるほど、これこそあたしが毎日作っていたアヤメのための味で。ずっと舌まで悪いあたしのせいで正解なのかよく分からなかったけれど、これは。


「美味しい……」


 今度は、直にスプーンを突っ込んで上澄みを掬い、あたしはそんな感想を覚える。

 これまであまりよく分からなかった熱。舌先に痛いくらいのそれと一緒に感じた味はどうにもあたしの好みでもあった。

 次第になんだかお腹がきゅうと鳴って、あたしはたまらなくなる。ちびちびしばらくお味噌汁をスプーンで飲んでいたけれど、これじゃ足りないなあと椀を取り出しよそってしまう。

 いただきます、もなしに味見を越して食べちゃうのは良くないかもしれないけれど、なんだか食べたい気持ちがどんどん進んで止まらなくて。


「匂いも、ちょっと変わった? 何か、不思議……」


 そして、よく考えたら嗅覚にも受容が増えている気がして、辺りをくんくん。鼻を近づければ、これまでイマイチ不明だった水場のカルキの香りに、洗剤のシャボンの匂いだって覚えられるようで。味噌汁を飲みながらあたしは混乱と多幸感にしばらく酔いしれていた。

 ただ、お椀を持ってキッチンをふらふらするあたしは、とっても不審な感じで。

 覚えのある、でも見知らぬその子があたしにこう注意したんだ。


「あ、百合ちゃん何してるの? そんなにきょろきょろしてたら危ないよ?」

「えっ、とこれは……え?」


 ふわふわした心地のあたしが目に入れたのは、地に足を付けた幽霊だった筈の彼女。

 でも哀しいくらいに青白かった肌は今は健康的な色になっていて、纏わり付いていた雫はもうなくただ弾けんばかりの艷やかさがそこにはあるばかりで。

 あたしは、呆然としながら、その子の名前を呼んだ。


「紫陽花、ちゃん?」

「あはは……どうしたの? ボクを見て、まるで《《お化け》》でも見たふうに驚いちゃって」


 思う。そういえば、お化けの紫陽花ちゃんが昨日は来ていなかった。でも、その代わりみたいにこの人間の紫陽花ちゃんが一緒に住んでいたみたい。

 可愛らしい紫色のパジャマを着た彼女はお化けだった紫陽花ちゃんなんて到底知らなさそうに笑っていて、それがあたしには不思議だった。

 あたしは、この子に再び、呟く。


「紫陽花、ちゃんだよね」

「うん。ボクは雨の日君に拾われた、木ノ下紫陽花……そして、今は菊子お義母さんの子供をやっている、日田紫陽花でもあるかな?」

「紫陽花、ちゃん……ううっ」

「わわっ、百合ちゃん朝から大胆過ぎるよー!」


 笑顔で、あたしにない記憶をあっけらかんと喋る紫陽花ちゃんに、あたしはもう耐えられなくって、空のお椀を放ってその身に縋り付いてしまう。どうしてか、あたしの眦からは涙が湧いて、止まらない。

 聞くに、この子は幸せだ。勿論、誰かに棄てられたようではあるし、本当の親ではない人を信頼するのって辛かったかもしれない。でも、生きているだけでそれは一人永遠にお化けをやらなくちゃならないあの紫陽花ちゃんよりもずっと可能性に満ちているんだから。

 だから、本当は変わってこれで良いはず。でも。


「うう……貴女じゃないって、思っちゃってごめんね……」

「百合、ちゃん……」


 この子が、本当にあたしが幸せにしてあげたかったあの子と一緒なのか分からなくって、あたしは一度心のなかで否定してしまった。こんなの、違うよって。

 でも、憐れまれる存在であることばかりが、あたしみたいに哀しい娘だというだけが紫陽花ちゃんのパーソナルではない筈。だから、お化けじゃない紫陽花ちゃんだって歓迎したい。

 ああ、そう思うんだよ、あたし。


「うぅ……」

「百合ちゃんは、泣き虫だね」

「うん……ぅ」


 縋り付いて感じるのは、思ったより確りしていた彼女の身体と淡い、花の香。幽かなそれを嗅ぎ取れたことすらあたしには信じがたい。

 でも、優しく撫でてくれるその手の冷たさに、あたしは恐る恐る顔を上げる。それには覚えがあって、そんな似たものを感じてしまえばもうダメだ。

 聞くあたしの声はきっと、震えてる。


「紫陽花ちゃん……手、どうして冷たいんだったっけ?」

「これは……うん。前も言ったけれど……ボク元々低体温と冷え性があって……朝だと二十度台ってのも珍しくなくって……ごめんね、冷たかったよね」

「ううん……気持ちいいよ……」

「そっ、そう?」


 ああ、やっぱりこの子は別に幽霊とかそんなのに関係はなかった。ただ、不幸せでめぐり合わせであたしと出会った、普通の子。ただ紫陽花ちゃんと同姓同名で似た性格で入れ替わりみたいになっちゃったみたいだけれど、本質は別で。

 何時か救いたかった少女はもういない。そんなのは分かるけれど、この子の手のひらの冷たさってとてもあの子を思わせる心地よさで。


「紫陽花ちゃん……あの子の代わりじゃないけど、貴女も頑張って幸せにするね」

「え……ひょっとして、それって百合ちゃん……」


 真っ直ぐに、決意とともにあたしは紫陽花ちゃんの目を見つめたけれど、するとどうしてか紅の彼女の瞳がうるうる湿潤してきた。

 あたしを撫でるお手々も停まっているし、どうしたのだろうとあたしが小首を傾げようとすると、今度はほっぺに冷たい手のひらが乗って。


「紫陽花ちゃん?」

「……これ、いただいちゃって良いってことだよね?」

「朝ご飯出来るのはもうちょっと後だよ?」

「そうじゃなくってボクが君を……っ、あいた」

「はぁ……紫陽花お姉ちゃん、百合お姉ちゃんにいたずらしないの」


 なんだかお腹空かした彼女にぱくりとされそうなそんな合間に、ちょうどいい具合にアヤメの手が出た。紫陽花ちゃんは、義妹に頭を叩かれて今度こそ本当に涙目。

 あたしはどうしてアヤメが紫陽花ちゃんにげんこつをしたのかと不思議がっていると、また良く分からないお話を二人がした。


「むぅ。今回ばかりは百合ちゃんがボクを誘惑したんだよ? ボクを幸せにしてくれる、って言ったもん!」

「はぁ……百合お姉ちゃんが節操なしに人を背負うのは、何時ものことじゃない。きっと、元気になってちょっと気合が漏れちゃっただけじゃない?」

「そうかなあ……」


 アヤメは、この紫陽花ちゃんが居るのが当然、っていう体。でもそれはとても良いことだと思う。あたしのなんか怪しい記憶の中ではアヤメはあたしばかりに頼らざるを得なくって、それがあたしには悲しかったから。

 ここでは、遠慮なく手を出せるようなお姉ちゃんが居るみたいで良かったなあと思ってあたしもニコニコ。

 でも、そんな風に皆でわいわいしていたら、大人が起きてきてしまうのも仕方ないこと。どたどたと、奥の部屋からやって来た菊子さんは、長い髪を寝癖で奔放にさせながらあたしたちに問いただす。


「んあ……うるさいねえ、子供たちは……あんたら、何かあったのかい?」

「菊子さん」

「はいはい。あんたの親代わりの菊子さんですよー……って、百合。よく見たらそこらに椀が転がってるし本当に何か転んだりとかしたのかい?」

「ううん、違うの! あたしね、実は……味とか分かるようになったみたい!」


 びっくりで忘れていたけれど、ほうれん草は大事で美味しいよね。そんなだからあたしはお椀を放り投げるまでの理由を報告したの。


「えっ、本当かい、百合!」

「う、うん……匂い嗅いでお腹空いたから味見してみたらなんだかしょっぱいって分かったよ……」

「ええっ、百合ちゃんそもそもお腹空いたの! 何時も仕方なさそうにご飯食べてたのに……うわあ、嬉しい!」

「義母さん、紫陽花お姉ちゃん。これは……赤飯を炊かないと!」

「そうだね! こうなったらパーティだっ、久しぶりのお赤飯だよー」

「いや、味覚が戻った理由が分からないし、また悪くなるかもしれないが……そうだね」

「菊子さん?」

「そんなのどうでもいい! 今日は遅番。あんたらが学校に行ってる間に仕込んどくから、しばらく前に収穫したささげ持ってきな!」

「はーい! ……って、どこだったっけ?」

「乾燥させたものを一緒に一升瓶に詰めたでしょ……近所に配った残りは台所の奥よ」

「わわ……」


 すると、反応は劇的だった。家族の皆は当たり前のようにあたしの感覚の復活を喜んでそれをパーティにしようとする。

 こんなの、当たり前だけれどあたしの記憶の中では、はじめて。あたし一人ではアヤメに味あわせてあげられなかったものが、あたしに当然のように浴びせられる。

 こんなの幸せに決まっていて、そもそも誰かが誰かのために動いている姿が大好きなあたしには、涙が出そうなことなんだけれど。



「いい、のかな……」

「んー? どうしたんだい、百合」

「あたし、喜んでもらって、いいの?」


 それが、あたしが受けるものと思うと、涙も引っ込んじゃった。

 あたしはつい、悩んでしまう。不出来な生き物がまともに近くなったことが慶事かといえば、あたしはあたし以外には当然そうだよと主張できるけれど、その対象があたしでは自信を持てない。

 幸せはあたしの外で起こるべきで、痛みはあたしの中に入れるべき。そんな諦観を持って過ごしてきたあたしに、こんな普通の子が持つべき幸せなんて手一杯。受け取り損ねて、困ってる。

 けれど、そんなあたしに菊子さんはこう言うんだ。


「はぁ……何言ってんのかと思えば、そりゃ良いに決まってるさ。そもそも、あんたが受け取ってくれなきゃ私達のこの喜びはどこに向けりゃいいってのさ」

「そう、なの?」

「そうさ! くれるもんなら、病気以外素直に受け取っとくもんだよ!」

「義母さん……流石にそれは意地汚くない?」

「んなことないさ! どこのどいつが私に悪意の手紙と一緒にくれたカミソリだって、障子張りで今大活躍してるじゃないか。ものは使いようで、なら祝いの赤飯だって残すんじゃないよ!」

「あの錆びたカミソリにそんな由来あったのね……」


 怒ったように主張する叔母さんも、実はなんだか上機嫌。それに、ささげどこと探索中の紫陽花ちゃんも楽しそうで、ちょっと不穏なお話にげっそりしているアヤメも口元が笑っていて。

 ああ、これはあたしが夢見ていて、見たかった光景だと今更に理解できたんだ。


「あはは……うん。分かった!」


 なら、それが触れた途端にクラムボンみたいに消えちゃうのを恐れるのはダメ。夢は、掴まないといけないって、あたしは何時かアヤメに教えていたから。

 あたしは不格好に口を歪めて、皆の優しさを遅れて受け入れたんだ。


「はは……百合ちゃんやっと笑ってくれたね」

「うん!」


 大っきな瓶にこれでもかと詰まった赤いささげを持って来た紫陽花ちゃんは、あたしにとっても綺麗な笑みを返してくれて。


 だから、青空の元ひとつ屋根の下、やっと皆で笑えたんだ。


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