ルート7 水月の大望 水野葵⑤
水野葵は設定マニアである。自分に紐付いていた設定を辿り、多くの些末な余計すら情報として手に入れていた。
本筋では起こるべきでない終末の詳細や、それの特効薬の一つとして《《天使の遺骸》》があることも主人公特権として彼女は頭に入れていたのだ。
グッドエンドのために詰め込んだそれらが、まさかバッドエンドに至ってから役に立つようになったとは面白いと、元主人公さんは思う。
葵の検索癖の故としては、当人が臆病なタイプであることが挙げられるだろうか。まあ、そもそもそれなりに作り込まれていたとはいえメンタルが通常の女の子寄りであれば、特別な立場に不安を感じるのも仕方ない。
そう、選択、道理、その他諸々の主人公以外には見えてはいけないものを葵は生前線として手繰り把握できていた。今はなきそれらは或いは神の権能に近いものだったろうか。
ボツ案として、男の悪役にそれに近いのを持たせてみていたとかいう情報もどこかにあったが、それはどうでもいいことか。
所詮この世は百合ゲー。愛以外は本筋ではないのだから。
『この世界は動物的だから、死ぬ前に端から停止の赤が線として流れる……またそもそも人間原理を基にデザインされているからこそ、楠の鬼も人間と同じ形をしている……つまりそういうことかな』
『ふぅ……まあ、だいたいその理解で合ってるわね』
『葵?』
『……私もそろそろ貴女の別個として存在するのが難しくなってきているの。返答が遅くなってきていたら、ごめんね』
『それは……』
ひたすら何年も向かい合い続けた結果、同色に成った彼女の瞳に悲しみの色が載る。
眠った一人の脳裏にて、二人ぼっちを続けていれば似通うものもあるだろう。だが、それ以上に主体たる金沢真弓は寄生している水野葵を付属物としてゆっくりと吸収してもいた。
それは、親愛のため。知らずの同化欲求は、相手を食い切るまで止まない。
『後、知らないことへの理解が増えてきていたら、私が移譲されている証左。怯えないでそれを使って生きなさい』
『やっぱり、葵は私の中から出ていったほうが……このままだと、消えちゃうよ?』
『そう、かもしれない。でも、そうなりきらない可能性だってある』
そんなことを予想していながら、でも次善案として葵は真弓の手による消化に任せていた。それはまず、言の通りに世界の流れの激しさに無為に散らないよう隠れ潜む数年を、完全に自意識消化されるまでに生き延びることだってあり得るから。
『それに……どちらにせよ、貴女の心に私は無駄にならない』
『っ!』
また、最悪食われるのが真弓という少女に、であるなら良いという考えもあった。
現状、葵は主観と情報によって出来ている身体なし。生きているとも言いにくい、死んでいるにしてはうるさい存在だ。
だがそれと時を一緒にしていても時間を迎えれば、金沢真弓は再び起き上がる。それが、命を捨てた命未満になんと眩しいことか。
最初は避難場所としての利用であったが、そんな不埒な考えとんでもないと葵は次第に心を改めている。むしろ、彼女の命の糧になることに丸を付け、その上で時間との勝負だと割り切った。私なんかもうと、勘違いして。
そう、そんなくらいに葵は実のところ日田百合という純真に灼かれていたのだ。憧憬は己を正そうとするが、それが相手に似通うことになるのは皮肉か。
恋は闇であり、病。そして死も似たようなものであれば、本来の目的を彼女が見失ってしまうのは当然とも言えたが。
『らしくないよ……葵』
『あら。まだまだ取られたところも一部だけなのに、貴女が私の何を知ってるの?』
『知ってるよ! 私は、葵が百合ちゃんなんて目じゃないくらいに性悪だってこと!』
『……あら』
そんなの違うと、満足げな水野葵に対して金沢真弓は首を振る。これは、明確な少女の反抗。良き隣人を出来ていたと自認していた葵にとってはじめてのそれに、狼狽は隠せない。
何か間違えてしまったのか悩む、いい子ちゃんぶっていた役割放棄の世界崩壊のトリガーさんは、強かにこう告げられる。
『葵は本当は、私なんてどうでも良いんでしょ! まあ、葵が葵のこと好きじゃないの知ってるけど……でも、貴女が百合ちゃんだけを求めていたのは本当! 私のために諦めるなんて、嘘よ!』
『……なるほど』
精神世界内でも少し背の伸びた様子の真弓。愛らしい彼女がその形相を歪めながら必死に本音を投じて来るのは、なるほど心に来るものがある。
『その通りね』
だが、それだけ。百合への愛には程遠く、痛くも痒くもなければただ眩いばかり。
暗黒は、光に憧れる。それはその通り。だが、光を真似したところで本質は変わらない。
誰かのため、ではなく私の愛する彼女のため。
そんなの、こんなバッドエンドの先には既に決まっていたことだったというのに。
『ふふ……ごめんなさい。光に目が眩んで私もそうなれると思ってしまったわ……そんなのは、あり得て欲しかったけれど、あり得なかった。私はあの子に不似合いの私のまま』
『葵……』
『でも、諦めるのはやっぱり性に合わない』
『なら……』
『ええ……ごめんなさいね、真弓。私は貴女のために死んであげられない』
『っ、そりゃ、そうだよねえ……』
告白も、そんな想いだってないまま、しかし痛苦は実体のない胸元へと強かにやって来る。好きの色は違う。だが、この人は私のためであって欲しかったと、真弓の本心は叫んだ。
しかし、少女の持ち前の善性がそれを形にするのを許さない。命を請わずに、想いを語ることしか出来ない自分を悲しむ少女は。
『だから、葵。私の代わりに生きてよ』
『そうね……』
まるで動かせない死体のような身体の中で、葵の言う何時か起き上がれるという希望ばかりを頼りに生きている今を差し出すのだった。
主体の変更、吸収の方向の変更なんて奇跡の存在である葵にはきっと可能なこと。そもそもぞっとするくらいに、この人は主人公としてふさわしい程に選ぶ者であるからには、残酷にも踏み散らかされてしまうことこそ然り。
そして、もう私なんて良いんだとこっちこそ思い込んで手を差し出すのだけれども。
『ふふ。勘違いしないで。私は私で生きるわ。真弓は真弓で、勝手に生きて死になさいよ』
『……それは、悲しいわ』
『そもそも、まな板の上でもないし、腹を出されても困るわ。貴女の気持ちなんて関係ない。私は、私で頑張るから……』
それは、少女と少女の決別。どちらかにどちらかが命を預けるのではなく、別個として。
気に入ったから隣り合おうとしたが、それを決めてしまえばあえて相手に優しくする必要はもうないだろう。
背中を向けて、一歩。だが別離ではないそれのために葵は真弓に一つ言葉を残す。
『貴女は悩まず、今に懸命になりなさい……』
以降に響き渡るものはなく、ただ姿なき対象の息吹だけを覚えるばかり。彼女の最後の言葉すら上手に飲み込めず、真弓は。
『葵?』
すっかり使用不足のダウングレードから普通平凡になってきた頭を傾げて、結論を出せないままになるのだった。
以降、葵から真弓への接触はない。そして、確かな存在も感じ取れなくなってしまえば完全同化を果たしてしまったのだと勘違いしてしまったところで仕方ない。
彼女にとっては嘘のように青い空の下、真弓は現の地に立ち百合に確かにこう告げた。
「でも、最初は夢の中でお話ししていたばかりだったあの子も、時と共に境が薄れてすっかり私と癒着しちゃった。それで、水野葵はお終い」
そう。少し前に一度線香の煙の向こうに写真を見た憶えもあり、葵はもうないと実感すらしていたから。
「悲しまないで。あの子は間違いなく、懸命に生きた。その証はまだ私の中に残ってる」
好み極まりない初対面の百合の前にて、神妙にして胸元を叩く。勿論、そのノックが返ってくることはなかったけれども。
「――そんなだから、私はただの都合のいいタイムカプセルってわけじゃないの。金沢真弓という水野葵のおばけの影響を多大に受けた一個人」
真弓はそれだけは泣かずに言い切れたのだった。
さて、以降個別ルートに入らなければ、終末直通なのがこの百合ゲーの残滓の世界の通常。
はじめての恋に悩んでその熱に恐れてばかりいた真弓は、想いを大事にしすぎたその結果。フラれるどころか。
「逃げられちゃった、なぁ……」
そんなことを、久しぶりの一人ぼっちの中で思う。青欠けた迫真の空に、今を覚える真弓は、だからこそ間に合わなかったのかもしれない。
日田百合は、ある日終末を世界に叫んだ。それが貴女のためにならないよとの友らの声も聞かず、むしろ誰からの助けの手も一切合切平等に受け取る。
次第に、百合は周囲の千手によって、真弓の手の届かない存在になってしまった。
神や、天使、教祖に滅びのラッパ吹き。様々な異名に汚されて本心すらうまく伺えなくなる中で、百合の微笑みばかりが嘘のように人心を掴んだ。
そうして、溺れる者達に縋られた彼女はもう、人の体すら保てなくなったところで生かされ、希望のために今も塔として遠くに屹立している。
タワーオブリリー。ある種百合という人間の墓のようなそんなのもう見たくないよと遠く離れた地に転居して、今更に真弓は後悔する。
人口の急減にて安かった広めの家。地区にて慰めに友を増やし、しかし手をこぼれて落っこちていった全てを忘れて、彼女は過去を思った。
「ごめんね、葵。私じゃ百合ちゃんを攻略できなかった……」
謝るのは、己の内。後悔で涙に濡れても幾ら言葉を零しても、指先から始まった赤石化現象による痛みは止まない。今もころり、と自分から自分が紅く逃げていった。
末端から蝕む激痛。あんまりなそれを自罰とすら取れない真弓は無意味に散ることの愚かさにまた謝罪が口に出ようとしたが。
「――あら、なら選手交代ね」
ぽろりと落ちた赤から声が聞こえて、真弓は苦痛を覚えながらも顔を上げる。今聞こえたのは、果たしてあの人のものではなかっただろうか。
実体を写真で目に入れはして、また意識の中では聞いたけれどもそれとも少し違ったものだったが何より麗しく。
「葵? そこに、居たの?」
「ええ。勿論ずっと貴女の側に居たわ」
しかし声色と違い、真弓から結晶化して切り離された紅い部分が集って、脈打つように動いているのはむしろグロテスクですらあった。
まだ体はない。しかしそれは動いて響かせて存在を示している。諦めの瞳が揺れ、思っていたよりずっと生き汚かった彼女を認めた。
「助言の一つもくれないなんて、残酷ね……でも、貴女らしい」
「これからもっとらしくなるけど……ごめんなさいね」
「ええ。死後遺した身体なんて、どう使われても構わない。それに、そんな紅くなってどうしようもなくなったのを利用してくれるなら……貴女が百合ちゃんを何とかしてくれるなら、むしろそれは救いかもしれない」
「ええ。勿論私はあの子を攻略すること、未だ諦めてないわ」
「ふふ、頼もしい」
金沢真弓から零れて、再び水野葵になるのだろう赤。硬質からアメーバのような滑りのすら帯びてきたそれに、彼女は弱々しさよりあまりの強かさすら覚えてしまう。
真弓は紅くひび割れながらどうしようもない、今を語った。
「月野椿は企業の体を保たせるのに必死で、火膳ふようは不安を克己できず、木ノ下紫陽花は赤マントに穢されて、土川楠花は陣地を守るので精一杯、日田アヤメには勇気が足りなくて、そして私は弱すぎた。七曜花の乙女たちの殆どはダメだったけれど……」
風にて花は散る。終末へと向かう運命はあまりに悲惨で、残酷で。恋なんてしている暇なんて本当はなかったのかもしれない。でもそれを求めた子たちは、日田百合に求められなかった。
何せ、彼女はずっと水野葵こそを悼んでいたから。
「結局、叶/敵わなかったなあ」
ここにて私の恋路は終わってしまう。だが、身体を同じくしていたこの子のものはずっと続いていて、この後どうなるだろう。それを確かめられないのは哀しいことなのかもしれないが。
ふと、知識の中で真弓は相似を覚えてこう想起する。
「ふふ……そういえば水星って、一番太陽に近い惑星だったね……」
言い、とうとう最期まで動いていた舌すらも赤い水晶と化した。
やがてそれらは無為に落っこちることさえなくシーツを辿って集う。
しばらくぐねぐねと沈黙のまま動き続けたそれらは次第に形を変えて、繭のようになって、そして。
「ふあ……空気ってこんな味だったのね」
仄暗く色づいたそれは面を上げて、以前より小ぶりになった裸体を存分に伸ばしてから、そう感嘆を吐息と呟くのだった。
こんてぃにゅ―。奇跡を対価に世界にそれを求めて失敗した、これはそんな少女のバッドエンド……のその先の軌跡。




