ルート7 水月の大望 水野葵④
水野葵は、隣人として金沢真弓の脳裏に棲み着いた。
そしてしばらくは大脳辺縁系、海馬のようなデリケートな部分の近くを居場所として影響を与えるばかりを良しとする。人と人には距離が要った。あまりに近すぎれば自他の区別が付かなくなってしまうのは情を考慮に入れずとも容易に想像できるもの。
『むぅ……ちょっと遠くない?』
『そうかい?』
しかし全体の主である寂しがり屋の小学生さんはそう思わなかったようで、核心から離れたところで熱を持つ相手に心のなかで唇を尖らせる。
そんな物理的には変化の皆無な様子を自然可愛いとも見ず、葵はしらばっくれた。
二人の距離感を人で表現するならば、背中合わせにお尻とお尻の間に拳一つを空けたくらい。目も合わせられず、温もりすら感じられないのであれば、子供がつまらなくなってしまうのも仕方ないことか。
しかし実際、孤独でもなければ他人とするにこれは嫌な距離だろう。葵は真弓が何時か慣れによってうざったくならないような程度を考え、近寄りきっている。
むしろ褒められるべき判断であるのだが、ハグこそ愛である年頃にそんなのは分からない。葵は結構意地悪だと決めつけて、少女は背中越しに一つ問った。
『ねえ。葵は主人公って言ってたけど、ならこの世界のジャンルは何?』
『百合恋愛シミュレーション』
『はぁ? 百合って……百合ちゃんって子? その子に対する恋愛を世界は求めてるの?』
『ふふ……言い得て妙だね。実のところ百合との恋愛を求めていたのは私で、世界は私という主人公の女の子同士の恋愛を介した幸せな結末のみを求めていた』
『うーん……ひょっとして、百合って女子同士いちゃいちゃすることの隠語でもある?』
『そんなものだね』
実は幼き金沢真弓は事故という強いブレーキを踏まなければ人相応に辿り着けないレベルで賢い。故に、葵の勿体ぶった言い回しから百合という言葉のふたつ目の意味に気づくのだった。
女の子同士。私と貴女。それに親愛を超えた可能性を見出すことなんて、あり得ないと信じていた乙女はしかしそれにびっくり。思わず、幼少期に親の電子辞書で覚えた英単語を脳裏いっぱいに叫ぶのだった。
『アブノーマル!』
『ふふ。しばらく寝ぼけてる真弓は知らないだろうが、今世の中は多様化の時代だよ?』
『え? ひょっとしてもう異性愛嗜好は時代に乗り遅れたマイノリティだったりする?』
『流石にそんなことはないんじゃないかな』
『うう……葵の言うことだから尊重はしてあげたいけれど、簡単には受け入れられないよ……』
『そりゃそうだ。真弓ちゃんは自分らしく生きていて良いんだ』
『はーい……』
一度否定はしたが、しかし柔らかに異見もいいよとされてしまえば、二人ぼっちの間に喧々囂々とした威勢は続かない。そういえば葵って美人さんだったよなと今更に意識してどきどきし始めた少女に、白々しくも元主人公さんはこう続ける。
『ああ、ただ私は百合だけを愛しているから、真弓ちゃんが私を好きになっても無駄だよ?』
『なっ!』
『これでも私、一途だから』
『そ、それは良いことじゃない……ふんっ。誰が葵なんて好きになるもんですか!』
『その意気でね。……もう、主人公なんてやってるとどうしたって好かれるか結局好かれるために嫌われるかだから、フリでも嫌そうにされるのは新鮮でいいわ』
『……貴女も大変だったのね……』
葵から発された心の底からの嫌気から、真弓もなんとなく彼女の大変を理解した。
好きに囲まれる、花束の人生。だがあまりに暑苦しければ、花弁も萎れる。
望まぬ愛など要らないと断言してしまえる生き方だって、それはそれで辛かったろう。理解が早くて優しい子供はそう解す。
そんな心の動きすら、恋愛という複雑をゲーム化出来るまで単に操れてしまう達人はまるっと知りながら、変わらず開示する真実を絞りつつ話を広げた。
『ふふ。そうよ。私はこれでも貴女よりはお姉さんなんだから。具体的には高校二年生に届かない程度ね』
『何となく葵が年上なのは理解るけど……でも、こんなに薄くなっちゃったってことは、本当の葵って死んじゃってるってこと?』
『いいえ。今は、生きてるわね』
『むむむ……今? ひょっとして、今以外は死んでる?』
『ええ。そうよ、よく分かったわね。真弓ちゃんは、頭いいのね』
『ふん。これでも偏差値七十以下を取ったことないの、私。勉強は嫌いなんだけどね』
『……設定通りね』
『どういうこと?』
迂遠な会話にて葵は舞い戻ったこの世が設定からそう離れていないことを理解し、内心歯噛みする。彼女は、まるで私がバッドエンドに死に戻ったことすら予定調和であるとされているようで、気分が悪かった。
しかし、それも主人公さんをやっていた頃に覚えた毎度のこと。自分の必死の命の結論が、当たり前のように選択肢として目の前に提示されるのは、あまりに辛い経験だった。
取り敢えずはこれからに支障が起きないと考え、心落ち着ける葵。彼女はしらとこう続けた。
『ゲームには設定集が付きものって、真弓ちゃんには分かるよね』
『まあ……私ゲームより読書派だけれど、本屋に攻略本とか設定の本とかがあるのは知ってるけど……あれ、ひょっとして?』
『うん。実は貴女も私の攻略対象』
『ひぇっ! ……あ、でも葵は百合ちゃんだけが好きで……そういえば百合ちゃんって具体的にはどんな子?』
『うーん……そうね。可愛らしい、ってだけでは伝わりにくいし。分かりやすく言えば身長と体重は多分、今の真弓ちゃんと同じくらいかな?』
『……葵って、ロリコン?』
『ふふふ。真弓ちゃんったら難しい言葉を知ってるのねー。お姉さん驚いちゃったー』
『ご、ごめんなさい……そうね。さっきからレッテル越しで見がちなのは失礼だったかも』
『そうね。正直私は見た目で言うなら、お尻とか大っきい方が好きね』
『うう……どうか私のお尻、小さいままでありますように……』
『ふふふ』
お前の尻なんて興味ないよとは言えず、怒りを内心隠しながら笑む葵。先からどうも真弓は愛欲モンスターと見ているようだ。まあ、子供にとって大人なんてそんなものなのかもしれないが、葵も気分が良くはない。
『えっと。あの……そうだ! 葵が今いて、未来の葵だろう葵もここに居るなら……それってつまりリセットしたってこと?』
『ふうん……』
そして、馬鹿ではない子供は直ぐに空気を読んで、話を変える。少女は、彼女に予想を語った。
自信なさげな声色は、表情も優れないものにさせたが、そんなこんなからはあえて目を離している葵はただ感心して、こう語る。
『そうね。この世が本当にゲームの世界なら、それは可能そうに思えるし、私もそう思った』
『……出来てないの?』
『ええ。私は奇跡という物語上の特異を用いたのだけれど、そもそも一方に流れて消え去るのが世界の自然みたいね。頑張ったけれど、私は視点がバックログに移されただけみたい』
リセット。値の取り消し、或いはやり直し。それを奇跡的な力に求めたが、そんな文章上の曖昧なんかで数多の道理は覆せなかった。
この世はスクロール。淡々と続く処理の中にのみ自由があるのだ。そんなことを、命を懸けた後で葵は知る。機能としてあったバックログ画面の裏にて薄く彼女は微笑んだ。
『それは……失敗?』
『成功ではない、くらいね』
『葵は、ここから次を求められるの?』
『ええ。大人って諦めが悪いのよ』
『女子こーせーは大人なの?』
『ふふ。大人かどうかなんて、自分で決めるもの。それに世界の揺り籠から出た時点で、私はもう子供なんてやれない』
『それは格好良い、のかな?』
『ううん。無様だから、格好つけているのよ』
いちたすいちはに。そんな教授された第一歩からの派生ばかりが少女の学びであるからには、守破離を経験済みの彼女の考えは途方もない外れ値だった。いっそ不良なくらいに思えたが、しかしそれが震えの克己の結果だと思えば愛せた。
ただ、次を考えている彼女を見て、今に滞っている真弓は寂しくなって、問う。
『私は、腰掛け?』
『いえ。どちらかというと、願掛けね』
『よく、分かんないな』
『正直なところ、私は貴女を想えないけれど、でも』
『うん……』
本気ではない遊び。それが嫌なのは、彼女が彼女をすっかり気に入ってしまっているからか。私を愛してとまではいかなくても、隣人として一緒に幸せになりたいとは思う。
いかにも物足りないといった落ち込んだ言の葉に、葵は笑うこともなくさらりとこう、事実のみを返す。
『安心して。私の残り時間の殆どは貴女のものよ』
そう、これより大部分は一蓮托生。或いは時に薄れきれば、主体すら真弓に飲まれかねないのは分かっているが、それでも。
『私はもう貴女なら、良いと決めている』
主人公さんは、そうでなくなっても多少の言葉足らずで格好つけたがり。弱々しい心に強く想いをぶつけるのは、あんまり正しいことではないのかもしれないが。
『う……なら、いいの』
しかしそれってクリティカル。赤くなった少女に、しかし終末はまだまだ遠く。
『これから、よろしくね』
『うん……』
葵たちはこれからしばらくを、ネタバレばかりして過ごすのだった。




